第七話 婚約破棄された翌朝、私は初めて朝寝坊をした
翌朝。
私は、目を覚ました。
「…………」
ぼんやりと天井を見つめる。
いつもなら、侍女が部屋へ入ってくる時間だった。
「アリーゼ様。お時間です」
そして私は、眠い目をこすりながら起き上がる。
朝六時から王妃教育。
外国語、外交、王国法、舞踏会の作法。
夜になれば王宮行事の打ち合わせ。
いつもなら、もう一日が始まっている時間だった。
「……あれ?」
私は時計を見た。
「もう、八時……?」
なのに。
誰も私を起こしに来ない。
「……そうだった」
私はベットの中で呟いた。
「もう、王太子妃ではないんだ」
昨日。
ランスロット殿下から婚約解消を告げられた。
私はそれを受け入れた。
だから――。
今日から、王太子妃教育はない。
「……」
胸の奥に、少しだけ寂しさが広がった。
けれど、それ以上に。
不思議なほど、身体が軽かった。
私はゆっくりとベッドから起き上がった。
「……もう少し、寝ていてもよかったのね」
思わず笑ってしまう。
こんなことを考えたのは、何年ぶりだろう。
◇
「おはようございます、アリーゼ様」
部屋を出ると、侍女が頭を下げた。
「おはよう」
「よくお眠りになられましたか?」
「ええ」
私は頷く。
「……こんなに長く眠ったのは久しぶりね」
侍女は嬉しそうに微笑んだ。
「旦那様も奥様も、アリーゼ様には今日はゆっくりしていただくようにと仰っていました」
「お父様とお母様が?」
「はい」
私は少しだけ胸が温かくなった。
「朝食は?」
「ご用意しております」
食堂へ向かう。
そこには父と母がいた。
「おはよう、アリーゼ」
「おはようございます」
「よく眠れたか?」
「はい」
父は私の顔を見るなり、ほっとしたように笑った。
「それならよかった」
母も優しく微笑んでいる。
「今日は予定を入れていないわ」
「……何も?」
「何もないわ」
「本当に?」
「本当よ」
私はしばらく黙っていた。
予定がない。
その言葉が、こんなにも嬉しいものだとは知らなかった。
「じゃあ……」
私は少し考えた。
「学院へ行ってもいいですか?」
父と母が顔を見合わせる。
「もちろんだ」
「ただし、今日は執務は禁止よ」
「え?」
「今日は好きなことをしなさい」
「……好きなこと」
私は、その言葉の意味を考えた。
好きなこと。
私は今まで、そんなことを考えたことがなかった。
「……学院の友人に会いたいです」
母が嬉しそうに笑った。
「それなら決まりね」
◇
昼前。
私は久しぶりに学院の制服へ袖を通した。
「……久しぶりね」
鏡を見る。
銀色の髪。
緑色の瞳。
王太子妃候補として着ていた豪華なドレスではない。
ただの学院の制服。
けれど――。
なぜだろう。
昨日までより、ずっと自分らしく見えた。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
母に見送られ、私は馬車に乗った。
学院へ向かう道。
街の景色を見るのも久しぶりだった。
以前は王宮と公爵家を往復するだけ。
道端の店を見る余裕すらなかった。
「こんなお店、いつできたのかしら」
窓から小さな菓子店を眺める。
甘い香りが、馬車の中まで漂ってきた。
「……帰りに寄ってみようかな」
そんな小さなことを考えるだけで、胸が弾んだ。
◇
学院に到着すると。
「アリーゼ様!」
聞き覚えのある声がした。
振り返る。
「……ミレーヌ!」
親友のミレーヌが駆け寄ってきた。
「本当に来たのね!」
「ええ」
「もう、何週間も姿を見なかったから心配していたのよ」
「ごめんなさい」
「謝らなくていいわ」
ミレーヌは私の手を握った。
「それより、どうしたの? 今日は随分と顔色がいいじゃない」
「そう?」
「ええ。以前はいつも疲れていたもの」
私は苦笑した。
「……そうだったかもしれないわね」
そのとき。
周囲から視線を感じた。
「アリーゼ様よ」
「婚約解消されたって本当?」
「王太子殿下はシャルミナ様を王太子妃にするのかしら」
小さな声が聞こえてくる。
胸が少し痛んだ。
けれど。
以前の私なら、すぐに俯いていた。
今日は違った。
「……気にしないで」
私はミレーヌに微笑んだ。
「もう、私には関係のないことだもの」
「アリーゼ……」
「それより、今日は外国語の授業があるのでしょう?」
「ええ!」
ミレーヌが嬉しそうに腕を組んだ。
「一緒に行きましょう」
「もちろん」
私たちは教室へ向かった。
久しぶりに歩く学院の廊下。
窓から差し込む陽光。
友人たちの笑い声。
それだけなのに。
私は、胸の奥がいっぱいになった。
「……帰ってきたんだ」
思わず呟く。
「え?」
「ううん。何でもないわ」
私は笑った。
◇
その頃。
王太子宮では――。
「殿下、こちらに署名をお願いいたします」
「……分かった」
ランスロットは書類を受け取った。
一枚目。
二枚目。
三枚目。
「……これは?」
「財務関連の決裁です」
「アリーゼにやらせろ?」
「もうおりません」
「そうだったな」
ランスロットは眉をひそめた。
「では、これは私が処理するしかないのか……」
ペンを握る。
しかし。
「待て」
「はい?」
「この数字は、どういう意味だ?」
「申し訳ありません。私には分かりません」
「……」
ランスロットは書類を見つめた。
昨日までは。
こんなことはなかった。
書類を渡せば、アリーゼが内容を確認していた。
問題があれば、彼女が指摘した。
必要なら関連資料まで用意してくれた。
「……」
ランスロットは黙り込んだ。
「次の書類を」
「はい」
別の書類が出てくる。
「これは?」
「外交関連です」
「アリーゼは、これをどうしていた?」
「アリーゼ様がすべて確認されていました」
「……そうか」
ランスロットの顔から、少しずつ笑みが消えていく。
だが、それでもまだ。
彼は認めようとはしなかった。
「……彼女は仕事が遅かった」
「はい?」
「時間はかかっていたはずだ」
「ですが、アリーゼ様が確認した書類には、ほとんど不備がありませんでした」
「…………」
ランスロットの脳裏に、昨日のアリーゼの姿が浮かんだ。
『明日から、殿下のお仕事は殿下ご自身でなさってください』
あのときの彼女は、怒っていたわけではなかった。
ただ、静かに自分の仕事を返しただけだった。
◇
一方。
学院の中庭。
昼休み。
私はミレーヌと並んで、ベンチに座っていた。
「そういえば、アリーゼ」
「何?」
「王太子妃教育って、そんなに大変だったの?」
「……ええ」
私は少し考えてから答えた。
「朝から夜まで、ほとんど予定が入っていたわ」
「毎日?」
「毎日」
「休みは?」
「……ほとんどなかったわね」
ミレーヌが絶句する。
「それで学院にも来ていたの?」
「最初はね」
「それは無理よ!」
思わず二人で笑った。
こんなふうに笑うのも久しぶりだった。
私は空を見上げる。
青い空。
白い雲。
こんなに綺麗だったのだ。
王宮にいた頃は、空を見る余裕すらなかった。
「アリーゼ」
「何?」
「これから、どうするの?」
私は少しだけ考えた。
「分からないわ」
正直に答える。
「でも……」
私は微笑んだ。
「今は、考えなくてもいいかなって思っているの」
「そうね」
ミレーヌも笑う。
「まずは、失った学院生活を取り戻しましょう」
「……ありがとう」
私は友人の肩に、そっと頭を預けた。
その瞬間。
胸の奥で何かが、ゆっくりほどけていく気がした。
王太子妃になるために。
私はずっと走り続けていた。
でも。
もう走らなくてもいい。
少しくらい立ち止まってもいい。
そして――。
自分が本当に何をしたいのか。
ゆっくり考えてみよう。
◇
その日の夕方。
王太子宮。
「殿下!」
侍従が慌てて駆け込んできた。
「どうした?」
「ルーヴェン公国から、急ぎの書簡が届いております」
「ルーヴェン?」
ランスロットが封書を受け取る。
封蝋には、ルーヴェン公国の紋章。
書簡を開く。
そこには、短い文章が記されていた。
『先日の交渉について、改めてアリーゼ・アントワープ公爵令嬢との協議を希望する』
「……アリーゼ?」
ランスロットの手が止まる。
その瞬間。
レオポルドの表情が、初めて僅かに強張った。
「なぜ……」
彼は呟く。
アリーゼはもう、王太子妃ではない。
王宮を去った。
それなのに。
他国が、彼女との交渉を求めている。
ランスロットは書簡を握りしめた。
「……どういうことだ?」
誰も答えられなかった。
そして。
その頃のアリーゼはまだ知らなかった。
王太子妃という肩書きを失ったアリーゼを――。
国の外にいる人々が、少しずつ見つけ始めていることを。




