第六話 「あなたとの婚約を、解消する」
翌日の午後。
私は王太子宮の応接室に呼び出されていた。
目の前には、ランスロット殿下。
その隣には、レオポルド。
二人とも、いつになく険しい表情をしている。
「アリーゼ」
「はい」
ランスロット殿下が、私を真っ直ぐ見つめた。
「今日は、君に話がある」
「どのようなお話でしょうか?」
「重要な話だ」
その声は、どこか冷たかった。
私は膝の上で、そっと手を握った。
嫌な予感がする。
昨日の外交面談のことだろうか。
私は何か間違ったことをしたのだろうか。
「アリーゼ」
ランスロット殿下は、ゆっくりと口を開いた。
「君との婚約を、解消する」
「…………え?」
一瞬。
何を言われたのか、理解できなかった。
「今……なんと?」
「聞こえなかったのか?」
殿下は淡々と言った。
「君との婚約を解消すると言った」
胸の奥が、ひどく冷たくなった。
幼い頃から、私はこの人の隣に立つことだけを目標にしてきた。
王太子妃になる。
そのために、毎日勉強した。
礼儀作法も。
外国語も。
外交も。
法律も。
朝から夜まで、休むことなく。
つらくても、苦しくても。
いつか王太子妃になれば、この努力が報われると思っていた。
なのに。
「……理由を、お聞かせいただけますか?」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
「理由なら、いくらでもある」
ランスロットは椅子に深く腰掛けた。
「君は仕事が遅い」
「……はい」
「私が任せた仕事も、いつまで経っても終わらない」
「……」
「妃教育も、十分とは言えない」
私は黙って聞いていた。
「それに、学院にもほとんど来ていない」
「それは……」
「言い訳はいい」
ぴしゃりと言われる。
「私は、もう君を王太子妃にするつもりはない」
心臓が、ずきりと痛んだ。
「君には王太子妃としての資質がない」
その言葉だけは、何度聞いても慣れなかった。
胸の奥を、鋭い刃物で切りつけられたような気がした。
それでも私は、顔を上げた。
さらに、レオポルドが続ける。
「私も殿下と同意見です」
「……そうですか」
私は小さく頷いた。
不思議だった。
悔しい。
悲しい。
なのに――。
どこかで、ほっとしている自分もいた。
もう、朝六時から始まる妃教育を受けなくていい。
毎晩遅くまで書類を確認しなくていい。
殿下の仕事を押しつけられて、眠れない夜を過ごす必要もない。
学院へ行けなかった日々も。
友人と話せなかった時間も。
家族と食事をできなかった夜も。
全部、終わる。
「……シャルミナ嬢を王太子妃にするおつもりですか?」
私が尋ねると、ランスロットの表情が少しだけ柔らかくなった。
「ああ」
迷いのない返事だった。
「シャルミナは優しい。人の気持ちを理解できる。それに、私を支えてくれる」
私は思わず笑いそうになった。
――私だって。
毎日、あなたの仕事を手伝ってきた。
あなたが王太子として立てるように、ずっと支えてきた。
けれど、その言葉は口にしなかった。
言ったところで、もう意味はない。
「そうですか」
私は静かに頭を下げた。
「では、婚約解消をお受けいたします」
「……何?」
ランスロットが目を見開いた。
レオポルドは、私があっさり婚約解消を受け入れたことに、わずかに目を細めていた。
「私は、もっと反対すると思っていた」
「私も……そう思っていました」
正直に答える。
「けれど、殿下がお決めになったことですから」
「アリーゼ……」
「今まで、ありがとうございました」
私は立ち上がった。
その瞬間。
胸の奥にあった何かが、すっと軽くなった。
王太子妃になるために生きてきた。
それが私の人生だと思っていた。
けれど――。
本当に、そうだったのだろうか。
「……あの」
私は扉へ向かいながら、振り返った。
「一つだけ、お伝えしたいことがあります」
「何だ?」
「明日から、殿下のお仕事は殿下ご自身でなさってください」
「…………」
ランスロットの顔が固まった。
私は続けた。
「もう、私は殿下の仕事をお手伝いする立場ではありませんから」
「……あ、ああ」
殿下は戸惑ったように頷いた。
「分かった」
「ありがとうございます」
私は頭を下げた。
そして――。
王太子宮を出た。
◇
廊下を歩く。
いつもの王太子宮。
何度も歩いた廊下。
朝早くから夜遅くまで、私はここで働いてきた。
けれど今日。
私は初めて、この場所を「自分の職場ではない」と感じた。
「……終わったのね」
小さく呟く。
足取りが軽い。
どうしてだろう。
婚約を解消されたのだから、悲しいはずなのに。
涙が出ると思っていた。
けれど――。
「……帰りたい」
その言葉が、自然に口からこぼれた。
家に帰りたい。
お父様とお母様に会いたい。
学院にも行きたい。
友人と話したい。
何より。
「これからは何をしよう?」
自由になった。
そう思うのに、胸の奥にはぽっかりと穴が開いていた。
◇
「アリーゼ!」
王太子宮を出たところで、聞き慣れた声がした。
「お父様……?」
そこには、アントワープ公爵が立っていた。
その隣には母もいる。
「どうして……?」
「王妃陛下から連絡をいただいた」
父は、何も言わずに私を抱きしめた。
「お父様……」
「もういい」
父の声が震えていた。
「よく頑張ったな、アリーゼ」
その言葉を聞いた瞬間。
張りつめていたものが、切れた。
「……私」
涙が頬を伝う。
「私、頑張っていたのかしら」
「当たり前だ」
父は即答した。
まるで、そんなことを疑うこと自体がおかしいと言うように。
「誰よりも頑張っていた」
「でも……殿下は、私には王太子妃としての能力がないと……」
「そんなことはない」
今度は母が私の手を握った。
「あなたは何も悪くないわ」
「お母様……」
「むしろ、もっと早く連れ戻してあげればよかった」
私は俯いた。
涙が止まらない。
でも。
今まで流してきた涙とは、少し違った。
悲しいだけではない。
安心したのだ。
「帰りましょう、アリーゼ」
母が微笑む。
「はい……!」
私は初めて、心から笑った。
◇
その頃。
王太子宮。
「……では、次の書類です」
侍従がランスロットの前に、大量の書類を置いた。
「これは?」
「本日の決裁書類です」
「……アリーゼに渡してくれ」
「ですが」
侍従が困った顔をする。
「アリーゼ様は、もう婚約者ではありません」
「…………」
ランスロットが黙った。
「それでは、こちらの外交書類は?」
「アリーゼ様が担当されていました」
「財務関連は?」
「そちらもです」
「王国法の確認は?」
「アリーゼ様です」
ランスロットの顔から、少しずつ血の気が引いていく。
「待て」
震える声で言った。
「アリーゼは……一体、何をしていた?」
レオポルドが答えようとした。
そのとき。
机の上に置かれた書類の山が、ゆっくりと崩れた。
ドサッ。
ランスロットは、その山を見つめる。
昨日まで。
この仕事を、アリーゼが処理していた。
自分は、それを当然だと思っていた。
――まさか。
これほど多くの仕事を、彼女一人が抱えていたのか。
「……」
ランスロットは初めて知った。
アリーゼがいなくなるということが――。
単に婚約者を失うという意味ではないことを。
◇
馬車の中。
私は窓の外を眺めていた。
王宮が、少しずつ遠ざかっていく。
私は胸の中で、小さく呟いた。
「さようなら」
王太子妃になるために過ごした日々。
私を苦しめた場所。
けれど――。
それでも、私は前を向く。
「……これからは、自分のために生きてみよう」
誰かのためではなく。
王太子妃になるためでもなく。
アリーゼという、一人の人間として。
そのとき。
馬車の窓から見えた青空が、今までよりずっと近く感じられた。
――私はまだ知らなかった。
婚約を失ったことで。
私の人生が、本当の意味で始まろうとしていることを。
そして──。
私がいなくなった王太子宮で、何が起こるのかを。




