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この無能!仕事が遅いぞ!と罵られた公爵令嬢は、婚約破棄されて自由を手に入れる。今まであなたの仕事もしていたのは私ですよ~どうなっても知りませんわ  作者: 山田 バルス


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第五話 「やっぱり私には、王太子妃は無理なのでしょうか……」



 翌日の午後。

 私は王太子宮の応接室へ向かっていた。


 今日の予定は、ルーヴェン公国の商会との交易交渉。

 昨日、突然追加された仕事だった。


「……少し緊張するわ」


 私は小さく息を吐いた。

 外交については、妃教育の中で何度も学んできた。


 外国の商人と交渉するのは初めてだった。

 しかも、ルーヴェン公国の有力貴族エドガルド様も同席する。

 昨日の国王陛下との話し合いを思い出すと、どうしても不安が込み上げてきた。

 私は本当に、王太子妃に向いていないのだろうか。


「アリーゼ様」


 応接室の前で、レオポルドが待っていた。


「本日はよろしくお願いいたします」

「こちらこそ」


「今回の面談は、殿下も注目されています」

「……そうですか」


「ですから、くれぐれも独断で条件を変更しないようお願いいたします」

「分かりました」


「何か判断に迷われた場合は、私にお尋ねください」

「はい」


 レオポルドは微笑んだ。


「アリーゼ様なら、きっと大丈夫でしょう」

「分かりました」


 私は頷いた。


「気をつけます」

「それでは、どうぞ」


 扉が開いた。

 私は中へ入った。


 ◇


 アリーゼが応接室へ入っていく。

 扉が閉じた瞬間――。

 レオポルドの笑みが消えた。


(大丈夫なものか)

(今日こそ、彼女の無能さを証明してもらう)


 ◇


「初めまして」


 応接室には、三人の男女が座っていた。

 一人は五十代ほどの男性。


 ベルガリア王国でも大きな商会を営む、商会長だという。

 その隣には若い女性。


 そして――。


「こちらは、ルーヴェン公国のモルタル公爵家令息エドガルド様です」

「初めまして」


 青い髪の青年が立ち上がった。

 深い紫色の瞳。

 落ち着いた雰囲気を持つ、とても端正な男性だった。


「アリーゼ・アントワープと申します。本日はよろしくお願いいたします」

「こちらこそ」


 エドガルド様は微笑んだ。


「お会いできて光栄です」


 私は席に着いた。

 すると、商会長が分厚い契約書を差し出してきた。


「今回はこちらの交易契約について、ご相談させていただきたいと思っております」

「承知しました」


 私は書類を受け取った。

 私は一枚ずつ、契約書に目を通していった。


 契約内容を確認していく。

 すると――。


「……あの」

「はい?」

「こちらの数字について、確認してもよろしいでしょうか?」


 商会長が頷く。


「もちろんです」


 私は契約書の一文を指差した。


「この輸送費ですが、こちらの金額で計算されていますよね?」

「ええ」


「ですが、こちらの交易路を使用する場合、冬季には通行料が上がるはずです」

「……」


 商会長が目を瞬かせる。


「よくご存じですね」

「妃教育で習いました」


 私は答えた。


「北部山岳地帯は冬になると雪が深くなります。そのため、輸送費が通常より高くなると教わりました」

「確かに、その通りです」

「でしたら、この契約期間ですと……」


 私は紙をめくった。


「ベルガリア側の負担がかなり大きくなります」

「……」


 商会長が契約書を覗き込む。


「なるほど」


 けれど、私はそこで黙り込んだ。

 おかしい。


 この契約書。

 確かにベルガリア側に不利な条件がいくつかある。

 しかし――。


「でも、こちらは少し違うかもしれません」

「何がでしょう?」


 エドガルド様が尋ねた。


「この条件だけを見ると、ベルガリア側が損をするように見えます」

「はい」

「ですが、こちらの条項があります」


 私は別の箇所を指した。


「ルーヴェン公国側が一定量の荷物を買い取ることになっています」

「……ええ」

「こちらの買い取り価格が保証されているなら、輸送費の増加分をある程度吸収できます」


 商会長が黙り込んだ。


「つまり?」

「一方的にベルガリアが損をする契約ではありません」


 私は考えながら続ける。


「ただし――」


 私は契約書をめくった。


「この買い取り価格の保証期間が短すぎます」

「……!」

「十年契約なのに、買い取り価格の保証は二年間しかありません」


 部屋が静かになった。

 私は周りの様子に気づかないまま、さらに続けた。


「三年目以降に価格が下がれば、輸送費だけがベルガリア側に残ります」

「そ、そんなことは……」


「いえ、このまま契約した場合、三年目以降、王国側の損失は年間で金貨八百枚を超える可能性があります」


 商会長の目が驚きで見開いた。


「……八百枚?」

「はい」

「そんなに……」


 商会長が契約書を見つめる。


「確かに……」

「ですから、保証期間を契約期間に合わせたほうがよいと思います」

「……」


 誰も答えなかった。

 私は不安になった。

 もしかして、また間違えたのだろうか。


「あの……」


 恐る恐る顔を上げる。


「私、何かおかしなことを言いましたか?」

「いいえ」


 答えたのはエドガルド様だった。


「非常に興味深いと思っただけです」

「興味深い……?」

「ええ」


 エドガルド様は契約書を見ながら微笑んだ。


「最初は輸送費だけを指摘された」

「はい」


「その後、買い取り条項まで確認した」

「……はい」

「しかも、契約期間と保証期間の違いまで」


 エドガルド様が私を見る。


「アリーゼ嬢」

「はい」


「あなたは、この契約書を読むのが初めてなのですか?」

「そうですが……」


 なぜそんなことを聞かれるのだろう。


「……そうですか」


 エドガルド様は小さく笑った。


「なるほど」


 その表情には、どこか感心したような色があった。

 けれど私は、それに気づかなかった。


 私の頭の中には、別のことが浮かんでいた。

 ――また、時間をかけすぎてしまった。


 殿下なら、もっと早く判断できるのだろうか。

 私は仕事が遅い。

 やっぱり私は――。


「アリーゼ様」


 突然、レオポルドの声がした。


「そろそろ、よろしいのでは?」

「あ……」


 私は時計を見た。

 面談開始から、かなり時間が経っている。


「申し訳ありません」


 私は頭を下げた。


「私のせいで、時間を取らせてしまいました」

「いえ」


 商会長が慌てて首を振る。


「むしろ、こちらが助かりました」

「え?」

「このまま契約していたら、三年後に問題が起きていた可能性があります」


 商会長は契約書を見ながら言った。


「一度、条件を見直させていただきたいと思います」

「……そうですか」


 私はほっとした。


「よかったです」


 その言葉を聞いたレオポルドは、僅かに目を細めた。

 予定とは違う。


 本来なら、アリーゼが契約内容を理解できず、判断を誤るはずだった。

 ところが。


 彼女は時間をかけながらも、契約書の問題点を見つけてしまった。

 しかも本人には、その自覚がない。


「……失礼いたします」


 レオポルドは静かに頭を下げた。


 ◇


 面談が終わったあと。

 私は一人で廊下を歩いていた。


「……また時間がかかってしまった」


 私はため息をついた。

 相手の方は優しかった。


 けれど、私はもっと早く判断できるようにならなければいけない。

 王太子妃になるのなら。


「私には、まだまだ足りないわ」


 そのとき。


「アリーゼ嬢」


 後ろから声がした。

 振り返ると、エドガルド様が立っていた。


「エドガルド様?」

「少し、お伝えしたいことがあります」

「はい」


 彼は真剣な顔で私を見る。


「本日の契約についてですが――」

「はい」


「あなたの判断は正しかったです」

「……え?」


「時間はかかりましたが、非常に丁寧でした」

「ですが……」


 私は俯いた。


「殿下には、仕事が遅いと言われています」

「……そうですか」


 エドガルド様は、少しだけ眉を寄せた。


「失礼ですが」

「はい?」


「それは、殿下があなたの仕事を最後まで見ている上での評価でしょうか?」

「……」


 私は答えられなかった。


「今日、私はあなたの仕事を見ました」


 エドガルド様は静かに言った。


「あなたは遅いのではありません」

「……」


「慎重なのです」

「そうなのですか?」

「そして、私はその慎重さを素晴らしいと思います」


 それからエドガルド様は、考えるように少しだけ黙った。


「では、一つだけ申し上げます」

「……?」

「仕事が遅いことと、仕事ができないことは、同じではありません」


 私は顔を上げた。


「……」

「今日、あなたが確認した契約書には、見落とされていた問題がありました」


「でも、それは……」

「偶然ではありません」


 エドガルド様は静かに言った。


「あなたは、必要なところをきちんと見ていた。素晴らしい腕前です」


 胸の奥が、少しだけ温かくなった。

 そんなふうに言われたのは、初めてだった。


 ずっと私は、「遅い」と言われてきた。

 だから――「慎重だ」と言われることが、こんなにも嬉しいなんて知らなかった。


「ありがとうございます」


 私は微笑んだ。

 けれど――。

 その言葉を、まだ素直には信じられなかった。


 ◇


 その夜。

 王太子宮。


「面談の結果は?」


 ランスロットがレオポルドに尋ねた。


「……問題ありません」

「そうか」


 ランスロットは安心したように笑った。


「やはりアリーゼには難しい仕事だっただろう?」

「ええ」


 レオポルドは頷いた。


「かなり時間がかかりました」

「そうだろうな」


 ランスロットは満足そうだった。


「父上にも報告しておこう」

「はい」


 だが。

 レオポルドは一人になった瞬間、表情を変えた。


「……厄介だ」


 机の上に、面談記録を置く。

 アリーゼは失敗しなかった。


 むしろ――。

 契約の問題点を見つけた。

 それでも彼女は、自分を「仕事が遅い」と思っている。


「ならば……」


 レオポルドは一枚の書類を取り出した。


「仕事が遅い点を責めてみるか……」


 ◇


 同じ頃。

 王妃マチルダは、今日の交渉報告書を読んでいた。


「……契約の問題点を三か所指摘」


 王妃は目を見開いた。


「それで、本人は『時間がかかって申し訳ない』と?」

「はい」


 侍女が答える。

 王妃はしばらく黙っていた。

 そして、静かに呟く。


「やはり、おかしいわ」


 アリーゼは自分を無能だと思っている。

 けれど、記録を見る限り――。

 彼女の仕事には、間違いがない。


「誰かが……」


 王妃は報告書を握りしめた。


「あの子に自信を失わせている」



 その頃。

 アリーゼは自室で明日の予定表を見ていた。


 そして――。

 一つの予定に目を止める。


「……王太子殿下との面談?」


 明日の午後。

 ランスロット殿下から、私に直接呼び出しがかかっている。


「何のお話かしら……」


 私は予定表を見つめた。

 その下には、レオポルド様の名前も記されている。


「……二人で?」


 胸の奥に、嫌な予感が走った。

 私はまだ知らなかった。


 明日。

 私がずっと信じてきたものが、音を立てて崩れることを――。

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