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この無能!仕事が遅いぞ!と罵られた公爵令嬢は、婚約破棄されて自由を手に入れる。今まであなたの仕事もしていたのは私ですよ~どうなっても知りませんわ  作者: 山田 バルス


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第十話 「行ってらっしゃい。あなたの人生を見つけてきなさい」



 ルーヴェン公国への留学が決まってから、三週間。

 私は、自分の部屋で荷物をまとめていた。


「……これで全部かしら?」


 机の上には、外国語の教本。

 貿易に関する本。


 ルーヴェン公国の商業制度についてまとめた資料。

 そして、数枚の書類。


 それらを一つずつ確認していく。

 以前の私なら、荷物の中身まで完璧に揃っているか、何度も確認していただろう。

 けれど、今日は違った。


「……楽しみ」


 そう呟くと、自然に笑みがこぼれた。

 外国へ行く。


 それだけで、胸が高鳴る。

 王太子妃になるためではない。


 誰かに認めてもらうためでもない。

 私は、自分がやりたいと思ったから行く。


「アリーゼ」


 扉の向こうから母の声がした。


「入っていいかしら?」

「どうぞ」


 母が部屋に入ってくる。

 そして、ベッドの上に置かれた荷物を見て微笑んだ。


「ずいぶん準備が進んだわね」

「はい」


「忘れ物はない?」

「たぶん……」

「たぶん?」


 母が少し笑う。


「そこは、王太子妃教育で身につけた慎重さを使ってもいいのよ」

「ふふっ」


 私は笑った。

 王太子妃教育。


 以前なら、その言葉を聞くだけで胸が苦しくなった。

 けれど今は、不思議と嫌ではなかった。


 あの時間も。

 あの勉強も。


 無駄ではなかったのだと思えるようになってきた。

 外国語も。


 商業の知識も。

 外交について学んだことも。


 全部、これからの私の力になる。


「お母様」

「何?」


「私……本当に行くんですね」

「ええ」

「少しだけ、怖いです」


 母は黙って私の隣に座った。


「それでいいのよ」

「……?」

「怖いと思うのは、それだけ真剣だからでしょう?」


 母は私の髪を優しく撫でた。


「それに、帰る場所はここにあるわ」

「……」

「何かあったら、いつでも帰ってきなさい」


 胸の奥が熱くなる。


「はい」


 ◇


 翌朝。

 出発の日がやってきた。


 公爵家の玄関前には、大きな馬車が停まっていた。

 荷物が積み込まれている。

 私は家族と向き合っていた。


「本当に、しばらく会えなくなるのね」


 母が寂しそうに笑う。


「はい」

「ちゃんと食事をするのよ」


「分かっています」

「夜更かしも駄目」


「……はい」

「無理をしすぎないこと」


「はい」

「知らない人を簡単に信用しないこと」

「お母様」


 私は思わず笑った。


「大丈夫です」

「そう?」

「はい」


 すると兄が口を挟んだ。


「母上、それではアリーゼがいつまで経っても出発できませんよ」

「お兄様」

「妹を外国へ送り出すんだ。これくらい言わせてくれ」


 兄は笑っていた。

 けれど。

 その目は少し赤かった。


「お兄様……」

「向こうで困ったことがあったら、すぐに手紙を書け」


「はい」

「金が必要なら言え」


「大丈夫です」

「遠慮するな」


「……はい」

「それから――」


 兄は少しだけ照れたように顔を逸らした。


「向こうで何か面白いものを見つけたら、俺にも教えてくれ」

「ふふっ。分かりました」


「約束だぞ」

「約束します」


 そして父が私の前に立った。


「アリーゼ」

「はい」


「向こうでは、公爵令嬢という立場を気にしすぎる必要はない」

「……」

「学生として、商売を学ぶ一人の人間として過ごしてきなさい」


 私は父を見つめた。


「失敗してもいい」

「……はい」


「間違えてもいい」

「はい」

「恥をかいてもいい」


 父は優しく笑った。


「帰ってきたときに、少し成長していれば、それで十分だ」


 その言葉に。

 涙がこぼれそうになった。


「……お父様」

「泣くな」


「だって……」

「お前は昔から泣き虫だったな」


「もう、子供ではありません」

「そうだったな」


 父が笑う。

 そして。

 私の頭に、ぽんと手を置いた。


「行っておいで、アリーゼ」

「……はい」


 ◇


「アリーゼ!」


 そのとき。

 遠くから声が聞こえた。


「ミレーヌ!」


 学院の制服姿の親友が、息を切らしながら駆けてくる。


「間に合った……!」

「どうしてここに?」

「どうしてって……」


 ミレーヌは私の手を握った。


「見送りに来るに決まっているでしょう!」

「ミレーヌ……」

「これ」


 彼女は小さな包みを差し出した。


「何?」

「開けてみて」


 包みを開く。

 中には、小さな手帳が入っていた。


「……手帳?」

「そう」


 表紙には、可愛らしい花の模様が描かれている。


「外国で見つけたもの、全部書いておきなさい」

「全部?」

「食べたものでも、見たものでも、聞いた話でも」


 ミレーヌは笑った。


「帰ってきたら、私に見せて」

「……うん」


 私は手帳を胸に抱いた。


「ありがとう」

「それから」


 ミレーヌが真剣な顔になる。


「絶対に一人で抱え込まないこと」

「……」


「アリーゼは、昔から何でも一人で頑張りすぎるから」

「……気をつけるわ」


「困ったら手紙を書いて」

「分かった」


「寂しくなったら?」

「手紙を書く」


「泣きたくなったら?」

「手紙を書く」


「外国で素敵な人を見つけたら?」

「えっ?」


 思わず顔が熱くなる。


「な、何を言っているの!」

「あはは!」


 ミレーヌが楽しそうに笑う。


「冗談よ」

「もう……」


 私は頬を膨らませた。

 けれど。


 笑っているうちに。

 胸の奥にあった不安が、少しずつ消えていった。


「ミレーヌ」

「何?」


「私、頑張ってくるね」

「うん」


「貿易を勉強して」

「うん」


「外国語ももっと上達させて」

「うん」

「いつか、公爵領の商品を外国で売れるようになってみせる」


 ミレーヌは嬉しそうに笑った。


「それでこそ、私の親友よ」


 ◇


 出発の時間になった。

 私は馬車の前に立つ。


 家族を見る。

 父。

 母。

 兄。

 そして、ミレーヌ。


 みんなが私を見ている。

 以前の私は、王太子妃にならなければ価値がないと思っていた。


 けれど、今は違う。

 私は、たくさんの人に愛されている。

 

 肩書きなんて関係ない。

 王太子妃でなくても、私はこの人たちの大切な娘で、妹で、友人なのだ。


「それでは……行ってきます」

「行ってらっしゃい!」


 母が手を振る。


「気をつけてな!」


 兄が叫ぶ。


「楽しんでこい!」


 父も笑っている。


「アリーゼ!」


 最後にミレーヌが叫んだ。


「絶対に帰ってきてね!」


 私は大きく手を振った。


「もちろん!」


 馬車が動き始める。


 ゆっくりと。

 公爵家が遠ざかっていく。


 私は窓から顔を出した。

 家族が小さくなっていく。


 それでも、最後まで手を振ってくれていた。

 涙が頬を伝う。


「……ありがとう」


 小さく呟く。


「行ってきます」


 ◇


 しばらくして。

 馬車は王都の門を抜けた。


 目の前には、知らない道が続いている。

 その先には、ルーヴェン公国。

 私がまだ知らない世界が待っている。


 王都を出てしまえば、もう以前の私を知る人はほとんどいない。

 誰も私を「王太子妃候補」とは呼ばない。

 ここからは、本当に一人のアリーゼとして生きていくのだ。


 私は手帳を開いた。

 一ページ目に、今日の日付を書く。


 そして。

 その下に、一言だけ記した。


『今日から、新しい人生が始まる』


 ペンを置く。

 胸が高鳴っていた。


 怖くないと言えば嘘になる。

 けれど。

 それ以上に楽しみだった。


 ◇


 同じ頃。

 王太子宮。


「殿下」


 レオポルドが書類を差し出した。


「ルーヴェン公国から、正式な通知が届いております」

「またか?」


 ランスロットは面倒そうに受け取る。


「内容は?」

「ルーヴェン公国の商業関係者が、アリーゼ嬢との交流を希望しています」

「……彼女と?」


「はい」

「なぜだ?」

「先日の契約交渉について、高い評価を得たようです」


 ランスロットは黙った。


「彼女は……」


 何かを言いかける。

 しかし、言葉が出てこない。


 アリーゼはもう王太子妃ではない。

 だから、自分には関係ない。


 そう思おうとする。

 けれど。


 机の上に積まれた書類を見る。

 昨日も。


 今日も。

 処理が滞っている。


「……仕事が遅かっただけだ」


 ランスロットは自分に言い聞かせるように呟いた。

 レオポルドは何も答えなかった。


 ただ。

 その目には、わずかな不安が浮かんでいた。


 ◇


 その頃。

 私は、まだ見ぬ異国の空を見上げていた。


 馬車の窓から見える景色が、少しずつ変わっていく。

 王都とは違う。


 街並みも。

 人々の服装も。


 聞こえてくる言葉も。

 すべてが新しい。


「……楽しみ」


 私はもう一度呟いた。

 王太子妃になることを諦めた私を。


 待っている未来なんて、何もないと思っていた。

 でも。


 違った。

 私には、これから選べる道がある。


 そして――。

 その最初の一歩を、私は今、踏み出している。。


 いつか、自分の力で公爵領の商品を外国へ売る。

 その夢への第一歩が、ここから始まる。


 私はまだ知らなかった。

 ルーヴェン公国での学びが、私の人生を大きく変えていくことを。

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