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この無能!仕事が遅いぞ!と罵られた公爵令嬢は、婚約破棄されて自由を手に入れる。今まであなたの仕事もしていたのは私ですよ~どうなっても知りませんわ  作者: 山田 バルス


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第十一話 「王太子妃にならなくてよかった」



 アリーゼを乗せた馬車が見えなくなってからも。

 公爵家の玄関前には、三人の姿が残っていた。


「…………」


 父は、遠ざかっていく街道をじっと見つめていた。

 母も。

 兄も。

 誰も、すぐには口を開かなかった。

 やがて。


「……行ってしまったわね」


 母が小さく呟いた。


「ああ」


 父が答える。


「寂しいわ」

「そうだな」


 兄も苦笑する。


「でも……」


 母は胸元に手を当てた。


「少しだけ、安心しているの」


 父と兄が母を見る。


「安心?」

「ええ」


 母は静かに頷いた。


「だって、もうアリーゼは朝六時に起きなくていいのでしょう?」

「……」


「夜遅くまで勉強する必要もない」

「……そうだな」

「毎日、王太子殿下の仕事を押しつけられなくてもいい」


 母の声が少し震えた。


「それを考えると……」


 母は目を伏せる。


「本当によかったと思うの」


 ◇


 屋敷の中へ戻る。

 三人は、いつもの食堂へ向かった。


 しかし。

 いつもなら四人分並んでいる食卓が、今日は三人分しかない。


「……」


 母が、空いた椅子を見つめる。


「アリーゼの席……」

「そうだな」


 父が椅子を引いた。

 けれど、座る前に。


「……あの子がいないと、やっぱり寂しいな」


 ぽつりと呟いた。

 兄が苦笑する。


「父上。さっきは『留学を応援する』と言っていたじゃないですか」

「応援することと、寂しいことは別だ」

「それは……そうですね」


 三人で席に着く。

 しばらく沈黙が続いた。

 そして母が、


「ねえ、あなた」

「なんだ?」

「私たち、もっと早く気づいてあげればよかったのかもしれないわね」


 父の手が止まった。


「……何にだ?」

「アリーゼが無理をしていたことに」


 母は空いた椅子を見つめた。


「王太子妃になるために、あの子はずっと頑張っていたでしょう?」

「ああ」


「王太子宮では、朝は早くから教育を受けて」

「外国語も、礼儀作法も……」


 兄が続ける。


「外交の勉強までしていたようです」

「ええ」


 母は苦しそうに笑った。


「私が『大丈夫?』と手紙を送ると、いつも同じ返信だったわ」

「なんと?」


「『大丈夫です』って」


 父が黙る。


「疲れていても」


 兄が拳を握った。


「……俺は、それを信じてしまっていた」

「私もよ」


 母が目を伏せる。


「毎日遅くまで仕事をさせられて」

「母上、失敗すれば責められてたそうです」

「そうなのね。頑張っても認めてもらえなかったなんて……可哀そうに」


 父はしばらく黙っていた。

 やがて。


「私もだ」


 低い声で言った。


「王太子妃になるのだから、これくらい当然だと思っていた」


 父の表情が曇る。


「私は、王太子妃にすることばかり考えていた」

「お父様……」

「けれど、本当は」


 父は、空いた椅子を見る。


「娘には、幸せになってほしかっただけなのだな」


 誰も答えなかった。


「……でも」


 兄が口を開いた。


「俺は、殿下に腹が立っています」

「私もよ」


 母が即答した。

 兄の声に怒りが混じる。


「妹は、誰よりも慎重に仕事をしていました」

「……」


「何度も資料を確認していた」

「そうね」


「分からないことがあれば調べていた」

「ええ」

「それなのに――」


 兄は言葉を詰まらせた。


「……仕事が遅いから、王太子妃には向いていない?」


 父の目が鋭くなる。


「その話は、もうするな」

「父上?」

「アリーゼはもう、王太子妃にならなくていい」


 父は静かに言った。


「だから、これからは私たちがあの子を守ればいい」


 母が頷く。


「そうね」


 兄も少しだけ笑った。


「……それなら、俺も賛成です」


 ◇


 母が紅茶を注ぐ。

 ふと、母が笑った。


「そういえば……」

「どうした?」


「今朝のことを覚えている?」

「今朝?」

「アリーゼが起きてきた時間よ」


 兄が笑う。


「八時でしたね」

「ええ」


「アリーゼが八時まで寝ていた」

「本当に久しぶりだったわ」


 母は嬉しそうだった。


「起こそうか迷ったのよ」

「起こさなくて正解だったな」


 父も笑う。


「王太子妃教育があると思っていたら、いつものように六時に起こしていたかもしれません」

「それを思うと……」


 母は胸を撫で下ろす。


「婚約解消になって、本当によかったのかもしれないわね」


 兄が驚いた顔をする。


「母上?」

「もちろん、最初に聞いたときはショックだったわ」


 母は正直に答えた。


「王太子妃になるために、あの子がどれほど努力してきたか知っていたもの」

「……はい」

「だから、あの努力が全部無駄になったような気がして……悔しかった」


 母は少しだけ笑う。


「でもね」


 母の目が優しくなる。


「今朝のアリーゼを見て、分かったの」

「何がだ?」


「あの子……笑っていたでしょう?」

「……ああ」

「昔のように、ずっと自然に」


 父は、朝食の席で笑っていたアリーゼを思い出した。

 王太子妃教育に追われていた頃よりも。

 婚約を失った今の方が、あの子はずっと自然に笑っていた。


「『今日は何をしてもいいの?』って聞いていたな」

「ええ」


 母が笑う。


「そんなこと、今まで一度も言わなかったもの」


 兄も思い出したように笑った。


「学院へ行けると、嬉しそうでした」

「そうね」


 母の目に涙が浮かぶ。


「……あの子は、自由になりたかったのね。そういえば……」


 母がふと、何かを思い出したように呟いた。


「わたしの父も、アリーゼのことをずいぶん気に入っていたわね」


 父が顔を上げる。


「……そうだったな」

「幼い頃から、商売の話ばかり聞かせていたでしょう?」


 兄が首を傾げる。


「祖父上は、妹に商売を教えていたんですか?」

「ええ。あなたもまだ小さい頃の話よ」


 母は懐かしそうに笑った。


「わたしの父は商売がとても上手だったでしょう? 伯爵家の領地経営だけじゃなく、商会との取引でも何度も利益を出していたもの」

「ああ。『商売は、相手が何を欲しがっているのかを考えることだ』と、よく言っていたな」

「アリーゼは、それを聞くのが好きだったのよ」


 母は微笑む。


「まだ小さな子だったのに、お祖父様の隣に座って、真剣に話を聞いていたわ」

「……そういえば」


 父も思い出したように笑った。


「祖父上の書斎から出てきたアリーゼが、『お父様、どうして同じ商品なのに売る場所によって値段が違うの?』と聞いてきたことがあったな」

「ええ。あの子、昔からそういうことに興味があったのよ」


 母は少しだけ嬉しそうに目を細める。


「でも……王太子妃教育が始まってからは、そんな話をすることもなくなったわね」

「……そうだな」


 父は、ふっと表情を曇らせた。


「王太子妃になるための勉強で、あの子自身が好きだったものを忘れさせてしまったのかもしれない」

「だからこそ」


 母は優しく笑った。


「今度は、好きなことを好きなだけ学べばいいのよ」


 父が頷く。


「ああ。ルーヴェン公国には商業も盛んな都市がある。あの子なら、きっと何かを見つけるだろう」

「ええ」


 母は空いた椅子を見る。


「お祖父様も、きっと喜ぶでしょうね」


 父は椅子に深く腰掛けた。


「ならば」

「はい?」

「留学は、絶対に成功させよう」


 母と兄が父を見る。


「ルーヴェン公国で、あの子が好きなことを学べるようにする」

「もちろんです」


 兄が頷く。


「必要な資金なら、私も出します」

「私もよ」


 母が笑う。

 釣られるように父と息子も微笑む。

 久しぶりの穏やかな笑い声だった。


 ◇


 食事が終わったあと。

 父は一人で執務室へ戻った。


 机の上には、アリーゼが留学するための書類が置かれている。

 父はそれを手に取った。


「……アリーゼ」


 小さく名前を呼ぶ。

 そして。

 書類の一番下にある、公爵家の印章を見つめた。


「お前が王太子妃にならなくても、私はお前を誇りに思う」


 誰もいない部屋で、静かに呟く。


「だから、もう誰かに認めてもらうために頑張らなくていい」


 窓の外を見る。

 アリーゼが向かった方向には、青い空が広がっている。


「自分のために生きなさい」


 父は微笑んだ。


「そして、帰ってきたら――」


 少しだけ考える。


「外国の話を、たくさん聞かせてくれ」


 ◇


 一方。

 母はアリーゼの部屋に入っていた。


 出発したばかりなのに、部屋にはまだ娘の気配が残っている。

 机の上には、読みかけの本。


 棚には、王太子妃教育で使っていた教本。

 母はその一冊を手に取った。

 そして。


「……もう、これは必要ないわね」


 そっと閉じる。

 けれど、捨てることはしなかった。


「頑張った証だもの」


 代わりに、机の上に一冊の新しい本を置く。

 タイトルは――。


『ルーヴェン公国・商業案内』

「帰ってきたら、今度はあなたが選んだ本を見せてね」


 母は笑った。


 ◇


 そして兄は。

 屋敷の廊下を歩きながら、ふと足を止めた。


「……静かだな」


 兄は窓の外を見た。


「外国で、思い切り楽しんでこい」


 そして少し笑う。


「帰ってきたら、俺にも土産を頼むぞ」


 ◇


 その夜。

 公爵家の三人は、それぞれ違う場所で同じことを考えていた。


 けれど。

 三人とも、最後には同じ結論に辿り着いた。


 きっと大丈夫。


 今度のアリーゼは。

 誰かの期待に応えるためではなく。

 自分自身の未来を探すために、旅立ったのだから。


 父は窓の外を見つめた。


「……行っておいで、アリーゼ」


 その言葉は、母と兄の胸にも響いていた。

 ――あなたの人生を、見つけてきなさい。


 そして。

 その頃ルーヴェンへ向かう馬車の中で。


 アリーゼはまだ知らなかった。

 自分がこれから見つけるものが。


 王太子妃という肩書きよりも、ずっと大切なものになることを。

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