第十二話 あなたなら、きっと大丈夫
アリーゼがルーヴェン公国へ旅立って、三日。
王宮の午後。
王妃マチルダは、侍女から一通の報告書を受け取っていた。
「アリーゼ様の留学について、ご報告がございます」
「そう」
王妃は書類を受け取ると、ゆっくりと目を通した。
公爵家の許可。
学院への休学手続き。
そして――。
「ルーヴェン公国の商業学院への聴講許可……」
王妃の口元が、わずかに緩んだ。
「本当に行ったのね」
「はい」
侍女が頷く。
「エドガルド公爵令息が、滞在中の支援を申し出ているそうです」
「そう」
王妃はもう一度、報告書を見る。
そこには、アリーゼが留学を決意した経緯も記されていた。
外国語。
貿易。
商業。
そして、外国市場への強い興味。
「……あの子らしいわ」
王妃は小さく笑った。
「王太子妃教育の中で学んだことを、今度は自分のために使おうとしている」
「王妃様は、アリーゼ様が留学されることをどう思われますか?」
侍女が尋ねた。
王妃は少しだけ考えた。
「寂しいわ」
意外な答えだった。
「え?」
「長い間、あの子を見てきたもの」
王妃は窓の外を見る。
「朝から晩まで教育を受けて、それでも『もっと頑張らなくては』と言っていた」
「……」
「私は何度も心配したわ」
王妃の声が少し寂しくなる。
「けれど、あのままランスロットの婚約者でいたら……」
「はい」
「彼女の心は壊れていたわ」
王妃は静かに呟いた。
「あれは笑っていたのではなく、笑おうとしていた……もう限界だった」
侍女は何も言えなかった。
王妃は報告書を閉じる。
「だから、婚約解消に同意したわ。……もう、大丈夫よ」
「王妃様?」
「それに、今、アリーゼは、自分で自分の道を選んだのでしょう?」
「はい」
「それなら、私は応援するだけよ」
王妃は優しく微笑んだ。
「……あの子なら、きっと大丈夫」
◇
その頃、学院の廊下では。
「アリーゼ様って、外国語だけじゃなくて商業にも詳しかったんでしょう?」
「ええ。商会との交渉で問題を見つけたこともあるらしいわ」
「……私たち、今までちゃんと分かってなかったのかもね」
そんな声が、廊下のあちこちで聞こえていた。
アリーゼがいなくなって初めて。
彼女がどれだけ多くの人に認められていたのか。
少しずつ、皆が気づき始めていた。
ミレーヌは、一つの席を見つめていた。
そこは、いつもアリーゼが座っていた場所だった。
「ミレーヌ」
「……何?」
「さっきから、そこばかり見ているわよ」
「分かってるわ」
ミレーヌは頬を膨らませた。
「だって、アリーゼがいないんだもの」
「留学したんだから、当たり前でしょう?」
「分かってるわよ」
ミレーヌは机に頬杖をついた。
「でも……」
教室を見渡す。
以前なら、休み時間になるとアリーゼがいた。
本を読んでいたり。
友人と話していたり。
時には授業の予習をしていたり。
「なんだか、静かね」
「確かに」
隣の友人も頷いた。
「アリーゼ様って、そんなに騒がしい方ではなかったのにね」
「そうなのよ」
ミレーヌは笑った。
「でも、いるだけで安心するの」
「分かるわ」
「真面目で、優しくて」
「困っている人がいたら、必ず助けてくれるし」
「先生に質問されても、嫌な顔一つしないもの」
「それに――」
別の友人が口を挟む。
「外国語の授業では、いつも一番だったでしょう?」
「そうそう!」
ミレーヌの顔が明るくなる。
「なのに本人は『まだまだです』って言うのよ」
「アリーゼ様らしいわ」
皆で笑った。
けれど。
笑い終わると。
また、少しだけ寂しくなった。
「……公国かぁ」
ミレーヌが窓の外を見る。
「今頃、何をしているのかしら」
「市場を見ているんじゃない?」
「それとも、外国語で商人さんと話していたりして」
「アリーゼならやりそう」
「ええ」
ミレーヌは微笑んだ。
「きっと、向こうでも頑張っているわ」
そのとき。
「ねえ」
一人の友人が、突然手を叩いた。
「帰ってきたら、お土産をお願いしましょうよ!」
「お土産?」
「そう!」
友人は目を輝かせる。
「公国のお菓子とか!」
「いいわね!」
「珍しい紅茶も欲しい!」
「私は外国の布がいい!」
「ちょっと待って。アリーゼに全部買わせる気?」
ミレーヌが笑う。
「でも……」
友人が少しだけ恥ずかしそうに言った。
「外国の話、聞きたいじゃない」
「……」
「どんな街だったのか」
「どんな人がいたのか」
「どんな料理を食べたのか」
「何を勉強したのか」
「全部聞きたい」
ミレーヌは、ふっと笑った。
「そうね」
そして。
アリーゼの空いた席を見る。
「帰ってきたら、いっぱい聞きましょう」
「うん!」
「絶対よ!」
「約束ね!」
少女たちの声が教室に響く。
◇
放課後。
ミレーヌは一人で教室に残っていた。
夕日が差し込む窓。
赤く染まった机。
そして。
誰も座っていないアリーゼの席。
「……早く帰ってきてね」
ミレーヌは小さく呟いた。
すると。
「ミレーヌ」
後ろから声がした。
「先生?」
「あなた、寂しいの?」
「……はい」
ミレーヌは正直に答えた。
先生は微笑んだ。
「でも、寂しいだけではないのでしょう?」
「え?」
「あなた、嬉しそうでもあるわ」
「……」
ミレーヌは少し考えた。
そして。
「そうかもしれません」
笑った。
「アリーゼが初めて、自分の好きなことを探しに行ったんです」
「ええ」
「だったら……」
ミレーヌは窓の外を見る。
「私も、応援したいです」
先生は優しく頷いた。
「それでいいと思うわ」
◇
同じ頃。
王宮の一室では。
王妃マチルダが、一枚の紙を眺めていた。
そこには、学院から届いたアリーゼの成績記録がある。
語学。
歴史。
王国法。
外交。
商業。
どれも非常に高い。
王妃はその紙を見ながら、ふっと笑った。
「これだけのものを持っていたのに……」
王妃は静かに呟く。
「どうしてランスロットは……」
けれど。
もう、過去を責めるつもりはなかった。
アリーゼはもう、王宮にはいない。
そして今。
新しい世界へ向かっている。
「……アリーゼ」
王妃は窓の外を見る。
「あなたが見つける未来が、素敵なものでありますように」
◇
数日後。
ルーヴェン公国へ向かう馬車の中。
アリーゼは知らなかった。
自分がいなくなった学院で、友人たちが自分の帰りを待っていることも。
王宮で、王妃が自分の未来を願っていることも。
そして。
公爵家では、父も母も兄も。
遠い異国にいる娘を、毎晩のように心配していることも。
アリーゼはただ。
新しい世界を見つめていた。
窓の外に、見慣れない街並みが見えてきた。
「あれが……ルーヴェン公国」
商人たちの声。
馬車の行き交う音。
色とりどりの商品が並ぶ店。
アリーゼの瞳が輝く。
「……すごい」
王太子妃になるために学んでいたときには、こんな景色を見たいと思ったことはなかった。
けれど今は違う。
見慣れない文字で書かれた看板。
聞いたことのない言葉で交わされる商人たちの会話。
知らないものばかりなのに、不思議と怖くなかった。
「もっと、知りたい」
そう思った。
初めて。
誰かに命じられたからではなく。
自分から。
◇
その頃――。
王太子宮の地下。
レオポルドは数人の男たちと向かい合っていた。
「アリーゼ嬢は、もう王宮には戻らないのでしょうか?」
「戻る必要はない」
レオポルドは淡々と答えた。
「むしろ、いない方が都合がいい」
「しかし、他国との交渉能力が……」
「その程度のことなら、別の人間を使えばいい」
レオポルドは机の上に一枚の書類を置いた。
「問題は、殿下の周囲を誰で固めるかだ」
男たちは黙って頷いた。
「まずは財務を」
「次に軍部を」
「そして――王家と縁の深い貴族を」
「すべて、こちら側へ引き込む」
「殿下自身に、それが必要だと思わせればいい」
「気づいたときには……」
レオポルドは静かに笑った。
「もう、誰にも止められない」




