第十三話 「ここでは、私の言葉が通じる」
ルーヴェン公国へ向かう旅が始まって、五日目。
私の身の回りを世話する侍女と、二人の護衛騎士も同行している。
馬車の窓から見える景色が、少しずつ変わってきた。
「……すごい」
私は思わず窓に顔を近づけた。
王国では見たことのない建物。
見慣れない服を着た人々。
街道を行き交う、たくさんの商隊。
荷馬車には、色鮮やかな布や木箱が積まれている。
聞こえてくる言葉も、少し違う。
私は窓を開けた。
すると、さまざまな声が飛び込んでくる。
「――あれは何を売っているのかしら?」
「香辛料ですよ」
向かいに座っていたエドガルド様が答えた。
「この辺りでは有名な市場があります。ルーヴェン公国は交易が盛んですから」
「交易……」
その言葉に、私は目を輝かせた。
「たくさんの国の商品が集まるのですか?」
「ええ」
エドガルド様が微笑む。
「王国では見かけない商品も、きっとありますよ」
「楽しみです」
自然と声が弾んだ。
エドガルド様が少し驚いたように私を見る。
「そんなに楽しみですか?」
「はい」
私は頷いた。
「外国へ来るのは初めてですから」
「王太子妃教育では、外国語や外交について勉強されていたと聞きました」
「ええ。でも……」
私は窓の外を見る。
「ルーヴェンの言葉は、私が学んできた外交用の共通語とは少し違うんです」
「なるほど」
「外交の場では共通語が使われますから、これまで困ることはありませんでした。でも、市場や街では現地の言葉が使われているので……」
私は耳を澄ませる。
「実際に聞いてみると、知っている言葉とは少し違って聞こえます」
「本で学ぶのと、実際に見るのでは全然違いますね」
「その通りです」
エドガルド様は嬉しそうに笑った。
「だから私は、あなたにここへ来てほしかったのです」
「……私に?」
「はい」
胸が少しだけ熱くなった。
誰かに期待される。
以前なら、それは「王太子妃として」だった。
けれど今は違う。
私自身に向けられた期待のような気がした。
◇
夕方。
私たちは、ルーヴェン公国の王都に到着した。
「……!」
私は馬車の窓から街を見つめた。
大きな城壁。
美しい石造りの建物。
大通りには、たくさんの店が並んでいる。
そして何より――。
「人が多い……」
商人。
旅人。
職人。
さまざまな人々が行き交っている。
大通りの中央では、商人たちが声を張り上げていた。
「新鮮な果物だよ!」
「南方から届いた香辛料はいかがですか!」
「王国では手に入らない織物ですよ!」
その光景を見ていると、不思議な気持ちになった。
「……こんな世界があったんだ」
「気に入りましたか?」
「はい」
私は笑った。
「とても」
◇
王都の食堂にも立ち寄った。
出された料理は、王国とは違っていた。
見たことのない香草。
少し酸味のあるソース。
そして、初めて見る焼き菓子。
「これは……何かしら?」
「ルーヴェンではよく食べられている料理ですよ」
「そうなんですね」
一口食べてみる。
「……おいしい」
知らない味だった。
でも、不思議と嬉しかった。
今まで知らなかったものを、私は今、知ろうとしている。
◇
夜。
私たちは、王都の宿に入った。
「明日から、学院の寮へ入る前に少し公国を案内しましょう」
エドガルド様がそう言ってくれた。
「学院だけでは、ルーヴェンのことは分かりませんから」
部屋に案内され、私はベッドに腰を下ろした。
王国とは違う天井。
違う家具。
窓の外から聞こえる、知らない言葉。
「……本当に来たんだ」
王太子妃になるためではない。
誰かの期待に応えるためでもない。
私自身が何をしたいのかを探すために。
そう思うと、不思議と胸が軽くなった。
ふと、家族のことを思い出した。
お父様。
お母様。
お兄様。
今頃、どうしているのかしら。
私がいなくなって、寂しいと思ってくれているだろうか。
少しだけ胸が痛んだ。
でも――。
「きっと、大丈夫よね」
私は小さく笑った。
お父様も、お母様も、お兄様も。
私が自分の人生を見つけることを望んでくれた。
だから。
私はここで、自分の未来を探してみよう。
そう思って窓の外を見る。
異国の夜景が広がっていた。
窓を開ける。
夜の冷たい風が、部屋の中へ入ってきた。
王国とは違う匂いがする。
知らない街。
知らない言葉。
知らない料理。
なのに――不思議と怖くなかった。
「……自由なんだ」
ぽつりと呟いた。
明日の予定も。
今日の失敗も。
王太子妃としてどう見られるかも。
今は、考えなくていい。
「こんな気持ち……初めて」
胸の奥が、ふっと軽くなった。
◇
翌朝。
私はエドガルド様に連れられて、街の市場を訪れていた。
「今日は商業地区を案内します」
「ありがとうございます」
「留学中は学院だけでなく、できるだけ多くの場所を見てください」
「はい」
市場には、たくさんの商品が並んでいた。
王国で見たことのあるものもある。
「この香辛料は、どちらから届いたものですか?」
店員が外国語で答える。
私は、その言葉を聞き取った。
「南方から……ですね?」
店員が頷いた。
「ええ。よくお分かりになりますね」
「……」
私は言葉を失った。
通じた。
今までのように、誰かに通訳してもらったわけではない。
私自身の言葉が。
この国の人に。
王国を出て、初めてだった。
「……私、ちゃんと話せた」
思わず笑ってしまう。
たったそれだけのことなのに。
胸の奥が、こんなにも嬉しかった。
「……あれ?」
私は一軒の店の前で足を止めた。
「どうしました?」
「この布です」
店先に並んでいる布を指差す。
「王国でも似たような布を見たことがあります」
「そうですね」
「でも……」
私は値札を見る。
「ずいぶん高いですね」
「ええ」
エドガルド様は頷いた。
「その布は、王国から輸入されたものです」
「やっぱり」
私は商品を見つめた。
「王国では、もっと安かったはずです」
「その通りです」
「では、なぜこちらではこんなに高いのですか?」
エドガルド様は少し考えるように私を見る。
「どう思いますか?」
「……」
私は店内を見渡した。
同じような布を扱っている店は、他にもある。
けれど、この店には客が多い。
「この店……他のお店より人が多いですね」
「よく見ていますね」
「そうでしょうか?」
「ええ。普通なら、まず値段を見るでしょう」
「……」
「あなたは最初に、客の数を見た」
エドガルド様が、少し驚いたように私を見る。
「そして次に、商品の並べ方を見た」
「それが何か……?」
「商売をする人間にとって、とても大切な目です」
「私が……?」
「ええ」
その表情は、今まで見たことのないものだった。
王太子妃候補を見る目ではない。
一人の人間を見つめる目だった。
その言葉に、胸が少しだけ熱くなった。
「それに」
私は店頭の布を見た。
「商品の並べ方が違います」
「どう違うのですか?」
「色ごとに並べています。それに、実際に服にした状態も展示している」
私は少し考える。
「ただ布を売っているのではなく、『この布を使うと、こんな服になります』と見せているんですね」
エドガルド様が目を細めた。
「その通りです」
「だから……高くても売れる」
「ええ」
私は驚いた。
同じ商品でも。
売り方によって価値が変わる。
「商売って……面白いですね」
思わず呟いた。
こんな気持ちになったのは、初めてだった。
今まで私は、勉強を「できなければならないもの」だと思っていた。
王太子妃になるために。
失敗しないために。
誰かに認めてもらうために。
けれど今は違う。
「もっと知りたい」
そう思っていた。
「そう思いますか?」
「はい」
自分でも驚くほど、胸が高鳴っていた。




