第十四話 「私、商売が好きなのかもしれません」
その日の午後。
私たちは市場の奥にあるマッタル商会を訪れた。
「こちらはルーヴェンでも有数のマッタル商会です」
エドガルド様が紹介してくれる。
「アリーゼ嬢に、ぜひ会っていただきたいと希望されていました」
「私に?」
「はい」
商会の中へ入る。
すると、五十代ほどの男性が出迎えてくれた。
「お待ちしておりました。マッタル商会の会頭、アルセロール=マッタルと申します」
「初めまして。アリーゼ=アントワープと申します」
私は外国語で挨拶した。
男性の目が少し大きくなる。
「……お上手ですね」
「ありがとうございます」
「王国の方ですよね?」
「はい」
「それなのに、こちらの言葉をこれほど自然に話されるとは」
私は少し照れた。
「妃教育で勉強しましたから」
「なるほど」
アルセロール商会長は笑った。
「ぜひ、いろいろお話を伺いたい」
応接室へ案内される。
そこで出されたのは、いくつかの商品見本だった。
「こちらは王国から輸入している商品です」
「はい」
「こちらも王国産です」
私は一つずつ手に取った。
品質は悪くない。
むしろ、とても良い。
「これらは、王国ではどのくらいの価格で販売されていますか?」
商会長が驚く。
「ご存じなのですか?」
「多少は」
私は答えた。
「商業についても教育を受けていましたので」
商会長は商品の値段を教えてくれた。
私は頭の中で計算する。
仕入れ値。
輸送費。
関税。
それらを考えても、この価格差は大きい。
「……これなら、輸送方法を変えれば、もっと安くできるかもしれません」
「はい?」
私が呟くと、商会長が目を見開いた。
「こちらでは、かなり高く販売されているのですね」
「ええ」
商会長が笑う。
「こちらでは希少価値がありますから」
「なるほど……」
私は商品を見つめた。
同じ商品。
同じ品質。
なのに。
売る場所が変わるだけで、価格が大きく変わる。
その事実が、妙に心に残った。
「アリーゼ嬢」
「はい?」
「もしよろしければ」
商会長が言った。
「あなたの公爵領には、他にも特産品があるのではありませんか?」
「……あります」
「どのような商品でしょう?」
私は考えた。
これまで学んできた知識が、初めて自分のために役立っている気がした。
外国の市場を見る。
外国の人と話す。
そして、自分の領地の商品について考える。
胸がどんどん熱くなっていく。
「……少し、お話してもいいでしょうか?」
「もちろんです」
私は商品について説明を始めた。
生産地。
国内での価格。
輸送方法。
知っていることを、一つずつ話していく。
商会長は真剣に耳を傾けていた。
そして。
「非常に興味深いですね」
「本当ですか?」
「ええ」
商会長は、先ほどまでとは違う目で私を見ていた。
「失礼ながら、最初は王国の公爵令嬢ということで、外交上のお付き合いになると思っておりました」
「……」
「ですが、今は違います」
「え?」
「あなたとは、商売の話ができそうです」
商会長が頷く。
「ぜひ、一度実物を見てみたい」
「……!」
私は思わずエドガルド様を見る。
彼は静かに微笑んでいた。
「どうです?」
「……はい」
私は頷いた。
「ぜひ、お願いしたいです」
「では、決まりですね」
エドガルド様が笑う。
その顔を見ていると、不思議と嬉しくなった。
誰かに仕事を押しつけられたわけではない。
私自身が興味を持ったことを話して。
私自身の力で、次の機会を手に入れた。
それが、嬉しかった。
◇
商会を出たあと。
私は街の中を歩きながら、ずっと考えていた。
「……不思議です」
「何がですか?」
エドガルド様が隣を歩く。
「私、今まで貿易について勉強していたのに……」
「はい」
「こんなに面白いものだとは思いませんでした」
「それは、実際に市場を見たからでしょう」
「そうかもしれません」
私は笑った。
「もっと知りたいです」
「商売について?」
「はい」
少し考える。
「外国語も」
「ええ」
「商品のことも」
「はい」
「そして……」
私は市場を振り返った。
「どうして同じ商品なのに、国によって価値が変わるのか」
エドガルド様は、満足そうに笑った。
「では、これからたくさん学んでください」
「はい!」
その返事は。
王太子妃教育を受けていた頃よりも、ずっと力強かった。
「あなたは、自分が思っている以上に商売に向いているのかもしれません」
エドガルド様は、商会で話していたときの私の顔を思い出したように微笑んだ。
「私が……商売に?」
「はい。少なくとも、私はそう思います」
エドガルド様は、まっすぐ私を見つめた。
「もっと、あなたの話を聞いてみたい」
「……私の?」
「ええ。商売の話を」
そう言って微笑む彼を見ていると、胸の奥が少しだけ熱くなった。
私は、知らなかった。
誰かに褒められることが、こんなに嬉しいなんて。
王太子妃として「正しい」と言われることとは、少し違う嬉しさだった。
◇
市場を歩いていると、私は誰かの視線に気づいた。
「エドガルド様」
「はい?」
「あの方は?」
市場の向こうから、こちらを見ている少女がいた。
淡い金色の髪。
上品なドレス。
胸元には、ルーヴェン公家の紋章。
「学院の生徒です」
「学院……?」
「ええ。ルーヴェン公家の公女殿下です」
少女と目が合う。
彼女は一瞬驚いたように目を見開き――。
小さく微笑んだ。
「……アリーゼ=アントワープ様」
「え?」
初対面のはずなのに、私の名前を知っている。
「失礼いたしました。また学院でお会いしましょう」
そう言って、少女は微笑んだ。
「学院で……?」
私が振り返ったときには、彼女はもう人混みの中へ消えていた。
◇
その夜。
私は宿泊先の部屋で、ミレーヌからもらった手帳を開いた。
一ページ目。
『今日から、新しい人生が始まる』
その下に、今日の出来事を書き足す。
『ルーヴェンの市場を見た』
『外国の商会を訪れた』
『同じ商品でも、売る場所によって価値が変わることを知った』
そして。
最後に一言。
『もっと、知りたい』
ペンを置く。
私は窓の外を見た。
遠くには、夜の市場の明かりが見える。
知らない国。
知らない商売。
今までの私なら、不安でいっぱいになっていたかもしれない。
でも。
今は違った。
「……明日は、何を知れるのかしら」
そう呟いた瞬間。
胸が高鳴った。
王太子妃になれなかった私には、何も残っていないと思っていた。
けれど。
違った。
私にはまだ。
知らない世界がある。
そして――。
学院で会いましょう。と言った公女様。
彼女はなぜ? わたしのことを知っていたのか?
その世界で、私にしかできないことがあるのかもしれない。
私は小さく笑った。
「学院が楽しみかしら」
◇
その頃、ベルガリア王国では。
「殿下。この書類ですが……」
「またか?」
ランスロットの前には、処理されていない書類が山のように積まれていた。
「アリーゼがいれば、こんなことには……」
そこまで言って、ランスロットは口を閉じた。
アリーゼはもういない。
自分から婚約を解消したのだ。
「……誰か、これを処理できる者はいないのか?」
けれど。
返事をする者はいなかった。
「そうだ。シャルミナを呼べ。彼女ならできるはずだ」
ランスロットは、レオポルドに視線を送る。
「お前はシャルミナはアリーゼよりも優れていると言っていたよな」
「すぐに手配します」
レオポルドは丁寧に頭を下げた。
「……あの書類、アリーゼならもう終わっていたな」
ランスロットは呟いた。
だが、すぐに首を振る。
「いや。私にはシャルミナがいる」
そう言い聞かせるように。
アリーゼが何気なく処理していた仕事を、代わりにできる者などいない。
シャルミナにそんな力があるはずがないことを、レオポルドは知っていた。
王太子宮では、少しずつ歯車が狂い始めていた。




