第十五話 「この商品なら、もっと高く売れます」
ルーヴェン公国へ来て、二週間。
しかし、あれから市場で見かけた公女殿下に出会うことはなかった。
そして、今日は、学院で初めて商業学の授業を受ける日だった。
「……緊張するわ」
私は学院の廊下を歩きながら、小さく息を吐いた。
王国の学院とは、何もかもが違う。
建物も。
制服も。
聞こえてくる言葉も。
そして――生徒たちの雰囲気も。
すれ違う生徒たちが、ちらちらと私を見ている。
「彼女がベルガリア王国から来た留学生でしょう?」
「アントワープ公爵家の令嬢らしいわ」
「元王太子妃候補だったって聞いたけど」
「どうして留学なんてしているのかしら?」
小さな声が聞こえてくる。
私は少しだけ胸を張った。
以前なら、その噂を聞くだけで不安になっていただろう。
けれど。
今は違う。
私はここに、王太子妃として来たわけではない。
ただの一人の学生として。
そして、自分の知らない世界を学ぶために来たのだ。
「おはようございます」
教室に入ると、何人かの生徒がこちらを振り向いた。
私は軽く頭を下げる。
「おはようございます」
外国語で挨拶すると、教室の中が少しざわめいた。
「……本当に上手ね」
「ベルガリアの人なのよね?」
「ええ」
そんな声が聞こえてくる。
私は少しだけ緊張しながら、自分の席についた。
やがて教師が入ってくる。
「それでは授業を始めましょう」
黒板に書かれたのは、一つの言葉だった。
『価格』
「商売において、価格とは何でしょう?」
教師が生徒たちを見渡す。
「商品の原価に利益を加えたもの」
一人の生徒が答えた。
「それだけでしょうか?」
「……」
「では、こちらを見てください」
教師が二つの布を机の上に置いた。
一つは、質素な木箱に入っている。
もう一つは、美しい箱に入れられ、隣には仕立てられたドレスの写真が飾られている。
「どちらも同じ布です」
教室がざわつく。
「では、なぜこちらの布のほうが高く売れるのでしょう?」
誰も答えない。
私は思わず手を挙げた。
「アントワープ嬢」
「商品の品質だけでなく、見せ方が違うからだと思います」
「続けてください」
「こちらは布そのものを売っています」
私は写真を指した。
「でも、こちらは違います」
「何が違うのでしょう?」
「この布を使えば、こんな服が作れる――という未来まで見せています」
教師が黙って私を見る。
「つまり?」
「商品そのものだけではなく、その商品を使った生活や価値まで一緒に売っているんです」
「……『未来を売る』、ですか」
教室が静まり返った。
教師はやがて、満足そうに頷いた。
「素晴らしい」
胸がどきりとした。
「正解です」
教室の何人かから、小さなどよめきが起こる。
「ベルガリアでは、そういう考え方をするのか?」
「彼女、商業に詳しいのね」
私は少し恥ずかしくなった。
けれど。
嬉しかった。
今まで学んできたことが。
初めて、自分のために役立った気がした。
◇
授業が終わると、一人の令嬢が近づいてきた。
「あなた」
「はい?」
「ずいぶん商売がお好きなのね」
茶色の髪をした令嬢だった。
身なりからして、かなり裕福な家の令嬢らしい。
「ええ。最近、とても興味があります」
「ふうん」
彼女は私を上から下まで見る。
「元王太子妃候補だったのに?」
「……」
「商売を学ぶなんて……少し意外ね」
周囲の生徒たちが静かになる。
令嬢は少し笑った。
「随分と現実的な道を選んだのね」
以前の私なら。
きっと傷ついていた。
けれど。
私は不思議なくらい、穏やかな気持ちだった。
「そうですね。でも、今の私は商売を学ぶことが楽しいんです」
「……え?」
「私も、自分が商売をこんなに好きになるなんて思いませんでした」
私は笑った。
「でも、とても楽しいんです」
令嬢が目を瞬く。
「知らなかったことを知るのも楽しいですし、自分の考えが誰かの役に立つのも嬉しいです」
「……」
「だから、今は商売を学びたいと思っています」
令嬢は何も言わなかった。
私は軽く頭を下げ、その場を離れた。
廊下に出る。
「……ふう」
思わず胸に手を当てた。
怖かった。
少しだけ。
でも。
もう、誰かに私の人生を決めてほしくない。
私は自分で決める。
何を学ぶのか。
何をするのか。
どんな人間になるのか。
◇
その日の午後。
「アリーゼ嬢」
学院の門を出たところで、エドガルド様が待っていた。
「エドガルド様?」
「お疲れ様です」
「どうしてこちらに?」
「少しお願いしたいことがあります」
「お願い?」
「先日の商会長から相談が来ています」
「私にですか?」
「はい」
馬車に乗り込むと、エドガルド様が一枚の書類を渡してくれた。
「こちらの商品をご存じですか?」
そこには、乾燥させた美しい花が描かれていた。
「これは……ベルガリア産の香草ですね」
「ご存じでしたか」
「はい。公爵領でも扱っています」
「実は、こちらの商品がルーヴェンではあまり売れていません」
「どうしてでしょう?」
「品質は非常に良いのですが、価格が高い」
「……」
私は書類を読む。
輸送費。
関税。
商会の利益。
小売店の利益。
確かに、王国での価格と比べればかなり高い。
「でも……」
「何か気になりますか?」
「はい」
私は商品見本を手に取った。
香りを確かめる。
甘く、上品な香りだった。
「これは、とても良い香りですね」
「ええ」
「だったら……」
私は考え込んだ。
「どうして普通の香草として売っているんでしょう?」
エドガルド様が目を瞬く。
「普通の香草?」
「はい」
私は商品を見つめた。
「これを料理用の香草として売るだけでは、価格の高さが問題になります」
「では?」
「もっと価値のあるものとして見せるんです」
私は顔を上げた。
「例えば、お茶」
「お茶ですか?」
「はい。それだけではありません」
頭の中に、次々と考えが浮かんでくる。
「香水に使うこともできますし、お菓子に香りをつけることもできます」
「なるほど」
「それに――」
私は少し笑った。
「『ベルガリア王国の貴族が愛用している香草』として売ってみるのはどうでしょう?」
エドガルド様が黙った。
「商品の品質だけではなく、背景を伝えるんです」
「背景……」
「はい」
私は頷いた。
「人は、必要だから買うものだけではありません」
「……」
「憧れや、特別な気持ちを買うこともあります」
エドガルド様がじっと私を見る。
「だから」
私は商品を差し出した。
「これは、ただの香草ではありません」
「では、何でしょう?」
「遠い国の香りです」
言った瞬間。
自分でも、少し驚いた。
そんな言葉が自然に出てきた。
エドガルド様はしばらく黙っていたが。
やがて、ふっと笑った。
「……やはり、あなたを連れてきて正解でした」
「え?」
「商人たちは、商品の値段ばかり見ていました」
彼は私を見る。
「あなたは、その商品を買う人の気持ちを見ている」
「……」
「それは、商売において大きな才能ですよ」
胸が熱くなった。
才能。
その言葉を聞くのは、初めてだった。
「私に……才能が?」
「ええ」
エドガルド様は迷いなく答えた。
「少なくとも私は、そう思います」
その言葉は、不思議なくらい胸に残った。
これまで私を評価する人は、いつも
『公爵令嬢だから』
『王太子妃候補だから』と言った。
けれど、エドガルド様は違う。
私自身を見てくれている。
「……ありがとうございます」
声が少し震えた。
エドガルド様は何も言わず、微笑んでいた。
◇
翌日。
商会の店頭に、小さな試作品が並んだ。
『ベルガリア王国産・香りのお茶』
そして、その隣には美しい説明書きが添えられている。
『ベルガリアの大地で育てられた花を乾燥させ、香り豊かなお茶に仕立てました』
「本当に売れるでしょうか……?」
私は店の奥から、そっと様子を見ていた。
「アリーゼ嬢」
商会長が笑う。
「やってみなければ分かりませんよ」
「はい……」
最初のお客様が来た。
貴族らしい女性だった。
「これは何?」
「ベルガリア王国のお茶でございます」
「ベルガリア?」
「はい」
店員が説明する。
女性は興味深そうに香りを嗅いだ。
「……いい香りね」
「よろしければ、試飲もございます」
「いただくわ」
しばらくして。
「まあ……」
女性の顔が明るくなる。
「美味しいわ」
「ありがとうございます」
「これ、いくら?」
店員が価格を告げる。
女性は少し驚いた。
「少し高いわね」
私は息を呑んだ。
けれど。
「でも、この香りなら……」
女性は財布を取り出した。
「一ついただくわ」
「ありがとうございます!」
女性が店を出ていく。
私は、その後ろ姿を見つめていた。
私の考えた売り方で。
私の考えた商品が。
本当に、売れた。
けれど――。
それから、次のお客様も。
その次のお客様も。
「ベルガリアのお茶をください」と言ってくれた。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。




