第十六話 「私は、もっと私になれる気がする」
その後も。
一人、二人と。
少しずつ、お客様が増えていく。
「これ、どこのお茶?」
「ベルガリアですって」
「贈り物にも良さそうね」
「香りが素敵!」
商品が売れていく。
「……売れています」
私は呟いていた。
隣の商会長も笑っている。
「あなたの提案通りです」
私は商品を見つめた。
自分の言葉。
自分の考え。
それによって、誰かが商品を手に取ってくれた。
その事実が。
たまらなく嬉しかった。
「……私」
胸の奥から、自然と言葉が出てきた。
「もっと商売を知りたいです」
「ええ」
「もっと外国のことを知りたい」
「ええ」
「もっと……」
私は笑った。
「自分に何ができるのか、知りたいです」
エドガルド様が、静かに頷いた。
「なら、これから探していきましょう」
「……はい」
その言葉が嬉しかった。
◇
その頃。
学院の一室では。
「それで、ベルガリアから来た留学生の様子はどうですか?」
学院長が、商業学の教師に尋ねていた。
「アリーゼ=アントワープ嬢のことですか?」
「ええ」
教師は少し考えるように黙った。
「……素晴らしい生徒です」
「ほう」
学院長が興味深そうに眉を上げる。
「具体的には?」
「まず、外国語の習得が非常に早いです」
「留学生なのですから、それは重要でしょう」
「ええ。ですが、それだけではありません」
教師は静かに続けた。
「商業学の授業で、価格について質問したのです」
「価格?」
「はい。同じ商品でも、見せ方によって価値が変わるという話をしました」
「それに対して、何か意見を?」
「ええ」
教師は小さく笑った。
「彼女は、『商品そのものだけではなく、その商品を使った生活や価値まで一緒に売っている』と答えました」
「……なるほど」
「さらに、『未来を売る』という言葉まで出てきました」
学院長が目を細める。
「十八歳の令嬢から出てくる言葉とは思えませんね」
「私も驚きました」
教師は頷いた。
「しかも、知識をそのまま答えたわけではありません。自分で考えて答えている」
「それは興味深い」
「はい」
教師の表情が少し真剣になる。
「彼女は、数字だけを見ていません」
「というと?」
「その数字の向こうにいる人間を見ています」
「……人間を?」
「商品を買う人が、何を感じるのか。なぜ、その商品に価値を感じるのか。そこまで考えているようです」
学院長は椅子に深く腰掛けた。
「商人としての才能がある、と?」
「私は、そう思います」
迷いのない答えだった。
「それに」
「まだ何か?」
「本人が、その才能に気づいていないようなのです」
「……ほう」
「授業中も、自分が特別なことを言っているという自覚がありませんでした」
教師は苦笑した。
「ただ、『そう思ったから答えた』という顔をしていました」
「それは……面白いですね」
学院長も笑った。
「自分の才能に気づいていない人間ほど、大きく伸びることがあります」
「私もそう思います」
「ところで、他の教師たちの評判は?」
「非常に良いです」
教師は答えた。
「礼儀正しく、勉強熱心。それに、分からないことをそのままにしません」
「質問が多い?」
「はい。ただし、単純な質問ではありません」
教師は少し嬉しそうに笑った。
「『なぜそうなるのか』だけではなく、『もし条件が変わったらどうなるのか』と尋ねてきます」
「……先を考える生徒ですか」
「ええ」
しばしの沈黙。
学院長は窓の外を見た。
「彼女のような人材は貴重ですね」
「私もそう思います」
学院長は少し考えた。
「……卒業後も、こちらに残ってくれればいいのですが」
教師が目を瞬く。
「学院長も、そう思われますか?」
「もちろんです」
学院長は微笑んだ。
「できることなら、卒業後もルーヴェンで商業を学び続けてほしい」
「私も同感です」
「それに」
学院長は、少しだけ楽しそうに笑った。
「彼女が将来、どんな商人になるのか見てみたい」
「私もです」
教師が優しく笑う。
その言葉の意味を。
当のアリーゼだけは、まだ知らなかった。
◇
その夜。
部屋に戻った私は、ミレーヌからもらった手帳を開いた。
一ページ目には、あの日書いた言葉がある。
『今日から、新しい人生が始まる』
その下に、新しく書き足す。
『初めて、自分の考えで商品を売った』
『商品が売れた』
『私の考えを、認めてもらえた』
そして。
少し考えてから。
最後に一言を書いた。
『私は、もっと私になれる気がする』
ペンを置く。
窓の外を見る。
ルーヴェンの夜は、今日も明るかった。
「……明日も楽しみ」
私は微笑んだ。
◇
一方。
ベルガリア王国。
王太子宮では――。
「殿下。この書類ですが」
「そこに置いておけ」
「ですが、こちらは今週中に処理しなければ――」
「分かっている!」
ランスロットは苛立ったように書類を睨んだ。
机の上には、処理されていない書類が積み上がっている。
以前なら。
朝には整理されていた。
重要なものには印がつけられ。
急ぎの案件は別にまとめられていた。
必要な資料も、すぐに手元へ届いた。
けれど。
今は違う。
「……この案件は?」
「アリーゼ嬢が以前、担当されていたものです」
「……」
「こちらもです」
「……分かった」
ランスロットは書類をめくった。
そこには細かな数字が並んでいる。
「これは……」
「隣国との輸入契約についてです」
「……」
ランスロットは眉をひそめた。
「なぜ、こんなに細かいんだ?」
「アリーゼ嬢が、将来の価格変動まで考慮して作成された資料だそうです」
ランスロットの手が止まる。
「……彼女が?」
「はい」
沈黙。
ランスロットは、書類を見つめた。
アリーゼ。
いつも自分の隣にいた。
いつも黙って書類を整理していた。
何を頼んでも嫌な顔をしなかった。
それが。
当たり前だと思っていた。
「……」
ランスロットは小さく息を吐いた。
「彼女なら……」
そこまで言って、口を閉じる。
今のアリーゼは、ここにはいない。
ルーヴェン公国にいる。
「……私は、何を考えているんだ」
ランスロットは首を振った。
「彼女がいなくても、問題ない」
そう言い聞かせる。
◇
その翌日。
王太子宮の執務室には、今日も大量の書類が積み上がっていた。
「殿下」
シャルミナが、明るい笑顔で入ってくる。
「私にも何かお手伝いできることはありませんか?」
「シャルミナ?」
「はい」
シャルミナは胸を張った。
「王太子妃になるのですもの。殿下のお仕事も、少しずつ覚えていきたいと思っています」
ランスロットは一瞬、黙った。
そして。
「……そうだな」
机の上にあった書類を一束、彼女の前に置いた。
「では、これを確認してくれ」
「これくらいなら、お任せください」
シャルミナは笑顔で受け取った。
ところが。
一枚。
二枚。
三枚。
読み進めるうちに、シャルミナの表情が少しずつ変わっていく。
「……これは?」
書類の端を指でなぞる。
「隣国との輸入契約だ」
「こちらは?」
「昨年度からの価格推移をまとめた資料だ」
「この数字は……?」
「今後の価格変動を予測したものらしい」
「…………」
シャルミナの指が止まった。
数字が並んでいる。
契約条件。
輸送費。
関税。
為替の変動。
そして、その先の価格予測。
「これ……全部、確認するのですか?」
「ああ」
「一枚ずつ?」
「そうだ」
シャルミナは、もう一度書類に目を落とした。
そのとき。
一つの数字に、小さな印がつけられていることに気づいた。
「これは?」
「何か問題がある場合に、すぐ分かるようにしてあるそうだ」
「……」
さらに次のページを見る。
そこにも印がある。
その横には、短い注記まで添えられていた。
『この条件では、来年の価格上昇時に利益が減少する可能性があります』
「……こんなところまで?」
思わず声が漏れた。
ただ数字を確認していたのではない。
その数字の先に何が起こるのかまで考えている。
「これを……毎日?」
「ああ」
「一人で?」
「そうだ」
「…………」
シャルミナは、書類から目を離せなかった。
自分なら、一枚目で投げ出している。
そんな考えが浮かんでしまった。
悔しい。
けれど――認めざるを得ない。
アリーゼは、ずっとこんな仕事をしていたのだ。
自分は今まで、王太子妃になれば。
華やかなドレスを着て。
王宮の舞踏会に出て。
殿下の隣で微笑んでいればいい。
そんなふうに思っていた。
けれど。
目の前にあるのは、華やかさとは程遠い大量の書類だった。
しかも。
アリーゼは、ただこれを処理していただけではない。
殿下が困らないように。
国に損失が出ないように。
その先まで考えて、毎日この仕事をしていたのだ。
「……あの人」
シャルミナは、思わず呟いた。
「こんなことをしていたの……?」
「そうだ」
ランスロットが答える。
その声には。
ほんの少しだけ、後悔が混じっていた。
「私は……知らなかった」
シャルミナは書類を握りしめた。
悔しかった。
認めたくなかった。
けれど。
認めるしかない。
アリーゼが、自分の想像を遥かに超える仕事をしていたことを。
そして。
そのことを、誰より近くにいたランスロットでさえ、きちんと見ていなかったことを。
◇
その頃。
ルーヴェン公国では。
私は、手帳を閉じた。
王太子妃になれなかった私。
婚約を失った私。
以前の私は、それだけで自分の価値まで失ったと思っていた。
けれど。
違った。
私はまだ何も知らない。
まだ何もできない。
それでも。
これから知っていけばいい。
これから、できるようになればいい。
私は窓の外を見た。
明日もきっと、新しい何かに出会える。
「……私の人生は、これからなんだ」
そう呟いた。
そして。
まだ誰も知らなかった。
今日、小さな店で売れた一袋のお茶が。
やがてベルガリア王国とルーヴェン公国を結ぶ、大きな貿易の始まりになることを――。




