第三十三話 おまけ編 ベルガリア王国 王妃シャルミナの復讐
ベルガリア王国
――シャルミナには、誰にも話していない過去があった。
彼女の母、ミナレットは。
宰相マルクスの実の妹だった。
シャルミナは、母が大好きだった。
母はいつも笑っていた。
「シャルミナ。人はね、自分の人生を自分で決めるものなのよ」
その言葉を、シャルミナは今でも覚えている。
◇
若き日の母ミナレットには、家が決めた婚姻が待っていた。
相手は、名門貴族ゲント侯爵家の令息。
家柄も申し分ない。
財産もある。
誰が見ても、良い縁談だった。
けれど。
「私は、あの方を愛していないわ」
ミナレットは、静かに首を横に振った。
「結婚したくない」
「何を馬鹿なことを言っている!」
そう怒鳴ったのが、兄のマルクスだった。
「これはお前一人の問題ではない。家の問題だ」
「分かっているわ」
「ならば、受け入れろ」
「嫌よ」
ミナレットは、初めて兄に逆らった。
「私は、好きでもない人の妻になるために生まれてきたんじゃないもの」
そして――。
ミナレットは、家を出た。
一人の男とともに。
その男は、身分の高い貴族ではなかった。
平民出身の護衛騎士だった。
家柄もない。
財産もない。
それでも。
ミナレットは彼を愛していた。
そして二人は、平民街で暮らし始めた。
やがて娘が生まれた。
シャルミナ。
三人で暮らす生活は、決して裕福ではなかった。
古い家。
質素な食事。
冬には隙間風も入った。
それでも。
「お母さん」
「なあに?」
「大好き」
幼いシャルミナが抱き着くと。
ミナレットは、いつも笑った。
「わたしの大切なシャルミナ」
「お母さん」
その笑顔を。
シャルミナは忘れなかった。
けれど――。
そんな生活を、マルクスは許さなかった。
「妹を連れ戻せ。
もし抵抗するなら、あの男だけを排除しろ」
そう命じた。
最初は。
ただ、ミナレットを家へ戻すつもりだった。
「男を引き離せば、妹も目を覚ます」
マルクスはそう考えていた。
だが。
その命令は、最悪の結果を招いた。
夜。
平民街を訪れた刺客たちのリーダーは部下に命令した。
「邪魔をするものはすべて、殺せ」
護衛騎士だった父は、シャルミナとミナレットを逃がそうとした。
「走れ!」
「あなた!」
「早く!」
剣がぶつかる音。
悲鳴。
泣き叫ぶシャルミナ。
そして――。
父は帰ってこなかった。
母もまた。
父を守ろうとしてシャルミナの目の前で倒れた。
「シャルミナ……あなたは、好きな人と……幸せになりなさい」
「お母さん……?」
返事はなかった。
「お母さん!」
何度呼んでも。
母は目を開けなかった。
その日。
シャルミナの幸せな生活は、終わった。
◇
数日後。
シャルミナは、マルクスの前に連れてこられた。
「……お前だけは助かったか」
マルクスは、幼いシャルミナを見つめた。
けれど。
シャルミナは、彼を睨みつけた。
「お母さんを殺したのは……?」
「……」
マルクスは答えなかった。
その沈黙が。
幼いシャルミナには、何よりも雄弁だった。
「お前を引き取る」
「嫌!」
「お前には行く場所がない」
「お母さんのところへ帰る!」
「もう、ミナレットはいない」
「……!」
その言葉が。
シャルミナの胸を深く傷つけた。
マルクスは彼女を親族の男爵家へ預け、養女とした。
衣食住を与え。
教育も受けさせた。
生きていくために必要なものは、すべて与えられた。
けれど。
シャルミナにとって、それは救いではなかった。
ある日。
マルクスが言った。
「お前が今こうして生きていられるのは、誰のおかげだと思っている」
シャルミナは、黙って彼を見つめた。
「平民と駆け落ちした愚かな母親のせいで、お前まで路頭に迷うところだった」
「……お母さんを、愚かだと言わないで」
「事実だ」
「違う!」
初めて。
シャルミナは声を荒らげた。
「お母さんは幸せだった!」
「何?」
「お父さんと一緒にいるとき、お母さんは笑っていた!」
マルクスが黙り込む。
「お母さんは……幸せだったの!」
その言葉を最後に。
シャルミナは泣きながら部屋を飛び出した。
◇
それから長い年月が過ぎた。
シャルミナは、美しく気品ある令嬢へと成長した。
誰もが彼女を、貴族社会に相応しい淑女だと思っていた。
けれど――。
その胸の奥には、幼い頃から消えない憎しみがあった。
そして。
マルクスが、以前とは別人のように穏やかになったことも知っていた。
妻を亡くしたからだ。
以前の彼なら、誰よりも厳しかった。
けれど。
妻を失ってからのマルクスは、人の痛みに少しずつ気づくようになった。
そんなある日。
シャルミナは、廊下の奥から聞こえてきた声に足を止めた。
「……あの件について、まだ調べているのか?」
「はい。平民街の事件です」
「もう何十年も前のことだ」
「……あの命令を出したのは――」
「私だ」
シャルミナは息を呑んだ。
そして、
「妹を連れ戻したかった」
「では、あの男を殺せと?」
「……殺すつもりはなかった。ただ、妹から引き離せと命じた」
「しかし、結果は……」
マルクスの声が震えた。
「あの日から、私は毎晩のように思い出す。
あの命令を出さなければ、あの二人は生きていたのではないか、と」
――後悔していた?
それが、何になるというの?
母も、父も、もう帰ってこない。
あの日、私たちが愛していた幸せな暮らしも、すべて失われた。
「……私は、あなたを絶対に許さない!」
それは。
少女だったシャルミナが、心の中で決めたことだった。
何年経っても。
その思いは消えなかった。
◇
そして現在。
王宮の一室。
シャルミナは、窓の外を見つめていた。
その隣には、ランスロットがいる。
「シャルミナ」
「はい、陛下」
「私は……こんな王になるために、王位を望んだわけではない」
ランスロットは、苦々しく呟いた。
「議会が。
議員たちが。
何をするにも私の前に立ちはだかる」
シャルミナは、静かに夫を見つめた。
そして。
ほんの少しだけ微笑んだ。
「陛下は王なのです。それなのに、議員たちの許可がなければ何も決められない」
「……」
「私は、陛下がそんなことで苦しむ姿を見たくありません」
「シャルミナ……」
「陛下ご自身が、この国の未来をお決めになればよいのです」
ランスロットの表情が変わった。
「そうだ。私は……王なのに」
「議会の権限を強くしたのは、誰でしょうか?」
「……マルクスだ」
その名前を聞いた瞬間。
シャルミナの瞳から、笑みが消えた。
「そうです」
低い声だった。
「マルクス侯爵です」
長い年月。
胸の奥に押し込めていた憎しみ。
それが。
静かに蘇っていく。
「陛下」
シャルミナは、ランスロットの手にそっと自分の手を重ねた。
「マルクス侯爵に、国を任せてよいのですか?」
「……」
「陛下から王としての権限を奪ったのは、誰でしょう?」
ランスロットの表情が変わった。
「……マルクスだ」
「そうです」
シャルミナは微笑む。
「ならば」
その声には。
かつて母を失った少女の面影があった。
「今度こそ、陛下ご自身の手で未来をお選びくださいませ」
ランスロットは、その言葉を疑わなかった。
けれど。
彼は知らなかった。
自分が選ぼうとしている未来の、その先に。
シャルミナが長年抱き続けてきた復讐が待っていることを。
◇
その頃、ルーヴェン学院では。
私はエリザベス様たちと庭園でお茶を楽しんでいた。
「アリーゼ、最近ずいぶん楽しそうね」
「そうかしら?」
エリザベス様たちと顔を見合わせ、思わず笑った。
こうして友人たちとお茶を飲みながら過ごす時間が、今の私には心地よかった。
春の風が、学院の庭を優しく吹き抜けていった。




