第三十一話 雪見草の対価
「待っていた」
窓際に立っていたアーサー様が、こちらを振り返る。
その手には、一輪の白い花があった。
「……雪見草」
思わず声が漏れる。
「これが……」
「ああ」
アーサー様は、静かに頷いた。
「これを薬にすれば、高熱病を治療できる可能性は高い」
「本当ですか……?」
胸の奥が熱くなる。
これで。
陛下を助けられる。
「ありがとうございます……!」
私は深く頭を下げた。
けれど。
「礼を言うのは、まだ早い」
「……え?」
顔を上げる。
アーサー様は、雪見草を見つめていた。
「一つ、条件がある」
「条件……?」
隣にいたエリザベート様の表情が曇る。
「兄上……まさか」
「心配するな、エリザベート」
アーサー様は穏やかに答えた。
「復讐をするつもりはない」
「では……」
アーサー様が私を見る。
「アリーゼ嬢」
「はい」
「私と婚約してもらいたい」
「…………え?」
一瞬。
何を言われたのか分からなかった。
「私が……アーサー様と?」
「ああ」
「なぜ……」
「理由ならある」
アーサー様は静かに続けた。
「君は商業を学び、外交にも関心がある。そして何より――」
その瞳が、私をまっすぐ射抜く。
「自分を傷つけた王家の人間でさえ、救おうとしている」
「……」
「私は、そんな君に興味がある」
胸がざわついた。
「君となら、ベルガリア王国とルーヴェンの関係を変えられるかもしれない」
その言葉に。
私は黙り込んだ。
確かに。
理屈だけなら、理解できる。
けれど。
「私は……」
そのとき。
「反対します」
低い声が響いた。
私は振り返った。
「エドガルド様……?」
エドガルド様が、アーサー様を睨んでいた。
いつもの穏やかな表情ではない。
紫色の瞳には、はっきりとした敵意が浮かんでいる。
「アリーゼ嬢が、あなたと婚約することには反対します」
「エドガルド……」
アーサー様が静かに問う。
「なぜだ?」
エドガルド様は説得するようにゆっくりと言い返した。
「雪見草を渡すためとはいえ、アリーゼ嬢の人生まで条件にする必要はありません」
「私には必要がある」
「いいえ、ありません」
今度は、迷いのない声だった。
「アリーゼ嬢は物ではありません」
「……」
「まして、国と国との取引に使うための存在でもない」
胸が、どくんと鳴った。
エドガルド様。
どうして……。
そんなに必死になってくださるのですか?
すると。
「それだけか?」
アーサー様が尋ねた。
「……え?」
「エドガルドが反対する理由は、それだけなのか?」
エドガルド様の表情が固まった。
「アリーゼ嬢の人生を心配しているから反対する。それだけか?」
「……」
「ならば、君は彼女が私以外の男と婚約しても、同じように反対するのか?」
「そ、それは……」
エドガルド様が言葉を詰まらせ、俯く。
静かな温室に。
雪見草の香が漂っていた。
「答えられないのか?」
エドガルド様が、ゆっくりと顔を上げた。
真剣な表情を浮かべて。
「アリーゼ嬢と誰かが付き合うことは反対します!」
「なぜだ?」
そして。
私を見た。
その瞳を見た瞬間。
胸が苦しくなる。
「私が……」
エドガルド様が小さく息を吸った。
「アリーゼ嬢が好きだからです」
「……!」
心臓が、大きく跳ねた。
「私は、あなたが好きです」
もう一度。
はっきりと告げられる。
「だから……誰かがあなたと婚約することが、嫌なんです」
「エドガルド様……」
何も言えなかった。
嬉しい。
そう思った。
その瞬間。
自分でも気づいていなかった気持ちが、胸の奥から溢れてくる。
私は。
この人のことが――。
「……私も」
「え?」
声が震えた。
「私も……エドガルド様が好きです」
言ってしまった。
顔が熱くなる。
けれど。
もう、隠したくなかった。
ランスロット殿下に婚約を破棄されたあの日。
私は、自分の未来を誰かに決められることが、どれほど苦しいのかを知った。
だから。
もう誰かに決めてもらうつもりはない。
私自身が選ぶ。
私が望む未来を。
その未来にいてほしい人を。
私は、自分の意思で選びたい。
「……アリーゼ嬢」
エドガルド様が、信じられないものを見るような顔をしている。
そして。
少しだけ、嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます」
その声を聞いた瞬間。
私の胸も、温かくなった。
すると。
「なるほど」
アーサー様の声が聞こえた。
私たちは同時に振り返る。
アーサー様は、微笑んでいた。
「兄上……?」
エリザベート様も驚いたように見つめている。
「どういうことですか?」
「いや」
アーサー様は肩をすくめた。
「思った以上に、話が早かっただけだ」
「……?」
アーサー様は、手にしていた雪見草を見つめる。
「条件を変えよう」
「え?」
私は目を瞬いた。
「私と婚約する必要はない」
「では……」
「エドガルドと婚約すればいい」
「…………!」
エドガルド様も驚いている。
「アーサー殿……」
「君たちなら、そのほうが自然だろう」
アーサー様は静かに笑った。
「ただし」
その声が少しだけ真剣になる。
「一つ、頼みがある」
「はい」
「この国に力を貸してほしい」
私はアーサー様を見つめた。
「ベルガリアとルーヴェンは、これまで互いに距離があった」
「……はい」
「だが、君は商業を知っている。エドガルドはこの国を支える力を持っている」
アーサー様は続けた。
「二人で、この国とルーヴェンの未来を作ってほしい」
私は雪見草を見る。
白い花びらが、静かに揺れていた。
「……分かりました」
私は顔を上げた。
「私にできることなら、喜んで協力します」
「ありがとう」
アーサー様は頷いた。
「それから――」
今度は、エリザベート様を見る。
「エリザベート」
「はい」
「お前も、アリーゼ嬢と友達になって彼女を助けてやれ」
「……え?」
エリザベート様が目を丸くする。
「兄上……」
「お前たちは、どちらも婚約を失った経験がある」
「……」
「きっと、分かり合えることも多いだろう」
私はエリザベート様を見る。
彼女の瞳が、少しだけ潤んでいた。
「アリーゼ様……」
「はい?」
「私……」
エリザベート様が、そっと笑った。
「どうか私のお友達になってくれませんか?」
「……!」
胸が温かくなる。
「はい、私もエリザベート様と友達になりたいです」
私は彼女の手を取った。
「これから、よろしくお願いします」
「はい……!」
エリザベート様が嬉しそうに笑う。
その様子を見ながら。
アーサー様も、どこか満足そうに微笑んでいた。
「では――」
アーサー様が、白い花を私へ差し出す。
「これは君に預けよう」
「……ありがとうございます」
私は両手で雪見草を受け取った。
これで。
陛下を救える。
そして。
自分の未来も。
誰かに決められるのではなく。
自分自身で選んでいける。
ふと隣を見る。
エドガルド様と目が合った。
彼は少し照れたように笑っていた。
その笑顔を見た瞬間。
私の胸は、また大きく跳ねた。
――私が選びたい未来。
そこには。
この人がいてほしい。
心からそう、思った。




