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この無能!仕事が遅いぞ!と罵られた公爵令嬢は、婚約破棄されて自由を手に入れる。今まであなたの仕事もしていたのは私ですよ~どうなっても知りませんわ  作者: 山田 バルス


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第三話 私の知らないところで、書類が書き換えられていた



 王太子宮の執務室。

 私は、机の上に広げた二枚の書類を見比べていた。


「……やっぱり、おかしいわ」


 一枚は昨日、私が確認した交易契約書。

 もう一枚は、今朝、新たに届けられた資料だった。


 数字が一か所だけ違っている。

 ほんの小さな違い。

 けれど、この数字が変われば、王国が支払う金額は大きく変わってしまう。


「どうして……?」


 私は昨日の記憶を思い返した。

 確かに確認した。


 何度も数字を照らし合わせた。

 だからこそ、間違えるはずがない。


「私が……間違えたのかしら」


 そう思った瞬間、胸が苦しくなった。

 昨日、殿下に言われたばかりだ。


 仕事が遅い。

 能力がない。


 王太子妃には向いていない。

 もしかしたら――。


「私、本当に疲れているのかもしれない……」


 私は額に手を当てた。

 最近、眠れていない。


 毎日の妃教育。

 その合間に押しつけられる大量の仕事。


 夜遅くまで書類を確認し、朝は六時から教育が始まる。

 それでも、間違えないように気をつけていた。


 王太子妃になるのだから。

 国のために働くのだから。

 一つでも間違いがあってはいけない。


「……もう一度、確認しましょう」


 私は気持ちを切り替え、資料を一枚ずつ確認していった。

 数字。

 日付。

 契約先。

 署名。


 何度も照らし合わせる。

 そして――。


「やっぱり、違う」


 私は息を呑んだ。

 昨日の書類には、確かに別の数字が書かれていた。


「じゃあ……誰が?」


 その瞬間。


「アリーゼ様」


 背後から声がした。


「ひっ……」


 驚いて振り返る。

 そこには、レオポルドが立っていた。


「……レオポルド様」

「どうされました?」

「この書類なのですが……」


 私は二枚の書類を見せた。


「昨日確認したものと、今日届いたものの数字が違うのです」

「そうですか」


 レオポルドは書類に目を落とした。

 そして、ほんの一瞬だけ目を細めた。


「アリーゼ様」

「はい」


「昨日、こちらを確認されたのですか?」

「ええ」

「でしたら……」


 レオポルドは困ったような笑みを浮かべた。


「確認の際に、見落とされたのではありませんか?」

「……」

「最近はお忙しいようですから」


 責める口調ではない。

 むしろ優しい。

 だからこそ、私は何も言えなかった。


「……そうかもしれません」

「お気になさらず」


 レオポルドは書類を取り上げた。


「こちらは私の方で処理しておきます」

「ですが――」

「アリーゼ様は、ほかにも仕事がたくさんあるでしょう?」


 そう言って、彼は笑った。


「どうかご無理をなさらないように」

「……ありがとうございます」


 レオポルドが部屋を出ていく。

 扉が閉まった。


 私はしばらく、その扉を見つめていた。

 なぜだろう。

 今の会話が、どうしても引っかかる。


「私が……見落とした?」


 私はもう一度、机の上を見た。

 けれど、いくら考えても納得できなかった。


 昨日、私はこの書類を三度確認した。

 間違いがないことを確認してから、処理を終えたはずなのだ。


「……気のせいよね」


 私は自分に言い聞かせた。


「私が疲れているだけ」


 そう呟いて、再びペンを握った。


 ◇


 一方、その頃。

 王宮の廊下。

 レオポルドは、手にした書類を見つめながら歩いていた。


「……気づいたか」


 レオポルドは書類を封筒にしまった。


「だが――」


 その口元に、かすかな笑みが浮かぶ。


「もう遅い」


 そこへ、一人の侍従が近づいてくる。


「レオポルド様」

「何だ?」

「こちらを」


 侍従見習いから封筒を受け取る。

 レオポルドは中身を確認した。


「……予定通りだ」

「はい」


「明日の朝までに、次の書類を準備しておけ」

「承知しました」


 侍従見習いが去っていく。

 レオポルドは、再び口元に薄い笑みを浮かべた。


 ◇


 その日の夕方。


「アリーゼ様、お疲れではありませんか?」


 侍女マリアが心配そうに尋ねてきた。


「少しだけ」


 私は笑った。


「でも、大丈夫よ」

「本当に?」

「ええ」


 鏡を見ると、目の下にうっすらと隈ができていた。


「……ひどい顔ね」

「そんなことありません」


 マリアはすぐに否定した。


「アリーゼ様は、十分に頑張っていらっしゃいます」

「……ありがとう」


 私は微笑んだ。

 けれど――。


 鏡に映る自分を見ていると、不安になった。

 私は、本当に王太子妃になれるのだろうか。


 こんなに疲れて。

 こんなに失敗して。


 学院にも行けなくて。

 殿下からも、能力がないと言われて。


「……私、もっと頑張らなくちゃ」

「アリーゼ様」

「大丈夫よ」


 私は自分に言い聞かせるように笑った。


「明日は、もっと早く起きるわ」


 けれど。

 その言葉を聞いた侍女の顔は、悲しそうだった。


 ◇


 その夜。

 王妃マチルダの私室。


「こちらが、アリーゼ嬢の妃教育の記録です」


 侍女が一冊の分厚い記録簿を差し出した。


「ありがとう」


 王妃はページをめくった。

 礼儀作法。

 王国史。

 外国語。

 外交。

 法律。

 どの項目にも、ほとんど欠点がない。


「……やはり、おかしいわ」


 王妃は呟いた。


「これだけの教育を受けている令嬢が、突然『何もできない』人間になるなんて……」


 ありえない。

 そう思った。


「アリーゼ嬢の執務記録は?」

「現在、確認しております」

「そう」


 王妃は窓の外を見た。

 夜の王都。

 無数の明かりが輝いている。


「調べてください」

「何をでしょうか?」


「アリーゼ嬢が、いつから王太子宮の執務を手伝うようになったのか」

「……承知いたしました」


「あと、アリーゼ嬢が学院を休んだ日をすべて出して」

「はい」


「それから、その日に王太子宮へ届けられた書類の一覧も」

「……まさか」

「ええ。比較します」


 王妃は少し考えた。


「王太子が処理したことになっている書類も、すべて確認して」

「すべて、ですか?」

「ええ」


 王妃の声が低くなる。


「もしランスロットが言っていることが本当なら、記録を見れば分かるはずです」

「はい」

「そして、もし……」


 王妃は言葉を止めた。

 胸の奥に、嫌な予感が広がる。


「もし誰かが、アリーゼ嬢を陥れようとしているのなら」


 王妃は静かに目を細めた。


「私は、その人間を見つけます」


 ◇


 翌朝。

 私はいつもより早く目を覚ました。


「……眠い」


 けれど、起きなければならない。

 今日も妃教育がある。


 その後には、殿下から頼まれた仕事も待っている。

 私はベッドから起き上がった。


 昨日、殿下は言っていた。

『君では王太子妃は務まらない』


 その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。

 私は幼い頃から、殿下の隣に立つために勉強してきた。

 それなのに――。


「……私、何のために頑張ってきたのかしら」

「お嬢様、お目覚めでしょうか?」


 侍女マリアが着替えを手伝ってくれる。

 鏡の前に座る。

 銀色の髪を整え、緑色の瞳を見る。


「大丈夫」


 私は小さく呟いた。


「今日も頑張ろう」


 王太子妃になるのだから。

 そう思って、部屋を出た。


 そして。

 廊下を歩いている途中だった。


「アリーゼ様!」


 一人の侍女が、慌てた様子で駆け寄ってきた。


「どうしたの?」

「国王陛下から、お呼び出しです」


「……私が?」

「はい」


 心臓が、大きく跳ねた。


「何のお話でしょうか?」

「申し訳ありません。私には……」


 侍女も不安そうな顔をしている。

 私は胸元に手を当てた。


 嫌な予感がする。

 昨日の書類。


 レオポルドの言葉。

 そして――。

 国王陛下からの呼び出し。


「……分かりました」


 私は背筋を伸ばした。


「参ります」


 不安で、足が震えそうになる。

 それでも私は歩き出した。


 まだ知らなかった。

 国王が私を呼び出した理由を。


 そして――。

 私を「無能」にするために仕組まれた罠が、もうすぐ動き始めることを。




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