第二十九話 差し出された手
アリーゼがエドガルドのもとへ向かっていた、その頃。
ベルガリア王国の王宮では。
静かに、そして確実に事態が動き始めていた。
「王妃陛下!」
王妃マチルダの私室に、医師が慌ただしく駆け込んできた。
「どうしました?」
「申し上げにくいのですが……」
医師は息を整えながら頭を下げた。
「陛下だけではありません。王妃陛下にも、高熱病の疑いがございます」
「……私にも?」
マチルダの顔から血の気が引いた。
「はい。先ほど診察したところ、発熱の兆候が確認されました」
「そんな……」
国王はすでに高熱病で寝込んでいる。
そのうえ。
自分まで感染している可能性がある。
「念のため、ただちに寝室へ移っていただきます」
「ですが、私はまだ政務が……」
「なりません!」
医師は珍しく強い口調で言った。
「万が一、王妃陛下が感染されていた場合、他の者に広げることになります。しばらくの間、面会も禁止とさせていただきます」
「…………」
マチルダは唇を噛んだ。
国王も動けない。
自分まで隔離されれば。
王宮を動かせる者が、ほとんどいなくなってしまう。
「……分かりました」
やがてマチルダは静かに頷いた。
「医師の指示に従いましょう」
「ありがとうございます」
医師が頭を下げる。
そして。
扉が閉じられた。
「…………」
一人残されたマチルダは。
不安そうに窓の外を見つめた。
◇
その頃。
王宮の別の部屋では。
ランスロットが一人、椅子に座っていた。
「…………」
母から言われた言葉が。
何度も頭の中を駆け巡っている。
『あなたには、王としての能力が足りません』
その言葉が。
胸に突き刺さっていた。
「私には……能力がない?」
ランスロットは自分の手を見つめた。
これまで。
自分が王になることを疑ったことなどなかった。
王太子として生まれた。
いずれ国王になる。
それが当然だと思っていた。
「……そんなはずはない」
小さく呟く。
「私だって……王になるために学んできた」
政務も。
外交も。
王族として必要なことも。
それなのに。
なぜ。
「……アリーゼは」
その名前が口から漏れた。
「アリーゼは……私より優秀だったのか?」
すぐに首を横に振る。
「そんなはずはない」
認めたくなかった。
アリーゼは。
自分の婚約者だった。
自分より一歩下がり。
王太子である自分を支える存在。
そう思っていた。
「私が……」
そこで。
ランスロットの表情が曇った。
「私が、アリーゼを……」
婚約破棄した。
あのときは。
自分の判断が正しいと思っていた。
シャルミナを選ぶことも。
アリーゼを遠ざけることも。
すべて。
自分の意思で決めた。
なのに。
アリーゼがいなくなってから。
国の状況は悪くなっていくばかりだった。
そして今。
国王まで倒れたままだ。
「…………」
胸の奥が冷たくなる。
「まさか……」
自分は。
取り返しのつかないことをしたのではないか。
「いや……違う」
ランスロットは立ち上がった。
「アリーゼが私より優秀だったなんて……認められるものか」
自分に言い聞かせる。
「私は王太子だ」
そう。
自分こそが。
次の王になる人間なのだ。
そのとき。
「殿下」
扉の向こうから声がした。
「レオポルドです」
「入れ」
扉が開く。
入ってきたのは。
レオポルドだった。
その後ろには。
「シャルミナ……?」
婚約者となったシャルミナの姿もあった。
「殿下」
シャルミナは。
心配そうな表情を浮かべていた。
「お悩みのようですね」
「……母上に叱られた」
「王妃陛下に?」
「ああ」
ランスロットは俯いた。
「私には王としての能力が足りないと……」
「…………」
レオポルドとシャルミナは視線を交わした。
そして。
「殿下」
レオポルドが静かに口を開いた。
「今は、そのようなことで悩んでいる場合ではありません」
「え?」
「先ほど、王妃陛下にも感染の疑いが出ました」
「母上にも……」
「はい」
レオポルドは淡々と告げた。
「王妃陛下は現在、寝室へ隔離され、面会も禁止されています」
ランスロットは言葉を失った。
「それでは……王宮は」
「事実上、指揮を執る者がいない状態です」
レオポルドは一歩前へ出た。
「だからこそ」
その目が。
ランスロットを真っ直ぐに見つめる。
「今こそ、殿下が国を動かすべきなのです」
「私が……?」
シャルミナも頷いた。
「殿下が王太子として、国をお守りください」
「しかし……」
「迷っている時間はありません」
レオポルドの声が強くなる。
「民は不安に怯えています。国王陛下は病床にあり、王妃陛下も動けない」
「…………」
「このままでは、国そのものが揺らぎます」
ランスロットは黙り込んだ。
すると。
「その通りです」
別の声がした。
「……宰相?」
扉の前に立っていたのは。
宰相マルクスだった。
「父上……」
レオポルドが振り返る。
マルクスは静かに部屋へ入ってきた。
「ランスロット殿下」
「はい」
「国王陛下は現在、政務を執ることができません」
マルクスは淡々と続けた。
「王妃陛下も隔離されました」
「…………」
「本来なら、摂政を置くべきでしょう。
ですが、王妃陛下は隔離中です。
このままでは派閥争いが起きるかもしれません。
この非常時に、王宮を二つに割るわけにはいきません」
「では……私はどうすれば?」
ランスロットが尋ねる。
マルクスは静かに答えた。
「国王陛下がご自身の意思で退位され、殿下に王位を譲られるのです」
「王位を……?」
「はい」
ランスロットの表情が固まる。
「ですが、父上はまだ……」
「ご存命です」
マルクスは頷いた。
「ですから、勝手に王位を移すことはできません」
「…………」
「王位継承法では、基本的には国王陛下ご本人の意思による退位と、王位譲渡の宣言が必要となります」
マルクスは続けた。
「国王陛下の意識が戻られた際、医師立ち会いのもとで意思を確認する。そのうえで、退位文書にご署名いただく」
「……父上が署名すれば」
「正式に手続きを進められます」
ランスロットは黙っていた。
病床にある父。
その父から。
王位を譲り受ける。
「私には……父上を追い落とすつもりなどありません」
「もちろんです」
マルクスは穏やかに答えた。
「これは国王陛下を追い落とすための手続きではありません」
「…………」
「病に倒れた国王陛下に代わり、王太子殿下が国を支えるためのものです」
シャルミナが静かに口を開いた。
「殿下」
「……何だ?」
「陛下がお元気になられたとき、改めてお考えいただけばよいのです」
「…………」
「今は、国を守ることを優先なさるべきです」
その言葉に。
ランスロットは長く黙り込んだ。
そして。
「……分かった」
ゆっくりと顔を上げる。
「父上の意思を確認する」
「はい」
「本人の意思がなければ、私は王位を受けない」
マルクスは深く頭を下げた。
「ご立派なご判断です」
その夜。
国王の病室には。
王位譲渡に必要な書類が準備された。
ただし。
まだ国王本人の署名はない。
それがなければ。
正式な退位とは認められない。
「…………」
マルクスは書類を見つめた。
あとは。
国王が意識を取り戻すのを待つだけだった。
しばらくして。
医師が口を開いた。
「実は先ほど、一度だけ意識が戻られました。その際に……」
「何と?」
「『殿下に王国を頼む』と……そう、おっしゃられました」
「そのようなお言葉が……」
マルクスは静かに頷いた。
「はい。間違いございません」
その言葉を直接聞いたのは、医師だけだった。
だが、そのままランスロットに伝えられた。
医師が国王を確認する。
「あれから、意識は戻りません」
ランスロットは父の手を握った。
その手は。
驚くほど冷たかった。
ランスロットが顔を上げる。
「父上は、王位を私に譲るとおっしゃったのか?」
マルクスは少しだけ沈黙した。
「……明確に『退位する』とは、おっしゃっておりません」
「ならば……」
「ですが、『殿下に王国を頼む』という言葉はございました」
「それは……」
「国王陛下が殿下に、国を託されたということです」
マルクスは静かに続けた。
「もちろん、正式な退位には手続きが必要です」
「……」
「ですが、今の王宮には時間がありません」
ランスロットは頷いた。
「それでも……」
「もし不安なら、国王陛下が再び意識を取り戻された時に確認すれば良いかと」
マルクスは用意していた書類を取り出した。
ランスロットは。
しばらく書類を見つめていた。
「……分かった」
さらに。
ランスロットと重臣からなる王位継承評議会が緊急招集された。
「国王陛下は意識を取り戻された際、殿下に『王国を頼む』とおっしゃられた」
マルクスが静かに告げる。
「これは、陛下が殿下に王国を託されたものと考えます」
一部の重臣が反論を述べた。
「しかし、それは明確な退位の言葉ではないのでは……」
「ならば、陛下の言葉を我々が無視してよいのか?」
「それは……」
「なにより、このまま王国の政務を停滞させることは、危険です」
「…………」
「殿下が王位を望んでいるからではありません。陛下の御言葉を受け、国を守るためです」
重臣たちは互いに顔を見合わせた。
やがて。
「……異議なし」
その声を皮切りに。
王位継承評議会は、ランスロットへの王位継承を承認した。
こうして。
当然の結果のような短い議論の末。
王太子ランスロットへの王位継承が正式に決定した。
◇
翌朝。
王宮には。
一つの知らせが響き渡った。
「国王陛下は、ご病気のため退位される!」
「国王陛下ご本人のご意思により、王太子ランスロット殿下への王位継承が決定された!」
「ランスロット殿下が、新たな国王となられる!」
王宮にいた者たちが。
一斉に頭を下げる。
「新国王陛下、万歳!」
「新国王陛下、万歳!」
ランスロットは。
玉座に座っていた。
その隣には。
新たな王妃となったシャルミナ。
そして。
その少し後ろには。
宰相マルクスとレオポルドが立っている。
「…………」
ランスロットは。
ゆっくりと前を見た。
自分が。
ついに王になった。
ずっと望んでいた場所だった。
なのに。
なぜだろう。
胸の奥に浮かんだのは。
アリーゼの顔だった。
「…………アリーゼ」
小さく呟く。
その瞬間。
ランスロットの胸に。
一つの疑問が突き刺さった。
もし。
あのとき。
アリーゼを手放していなかったら。
今の自分は。
違っていたのだろうか――。
けれど。
ランスロットは首を左右に振る。
一瞬、浮かんだその考えを振り払った。
アリーゼなど必要なかった。
私にはシャルミナがいる。
それで十分だ。
現に。
自分は王になった。
「……私が、この国を変える」
ランスロットは。
自分自身に言い聞かせるように呟いた。
◇
その頃。
ルーヴェン公国では。
「アリーゼ嬢」
エドガルドが、彼女に手を差し出していた。
「こちらです」
「ありがとうございます」
アリーゼは、その手を取った。
思っていたよりも。
その手は温かかった。
「…………」
なぜだろう。
ただ手を取っただけなのに。
胸の奥が、ほんの少しだけ高鳴った。
アリーゼは、その理由が分からないまま。
小さく目を伏せた。
まさか。
自分の知らないところで。
ベルガリア王国の運命が、大きく変わっているなど。
このときのアリーゼは。
まだ何も知らなかった――。




