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この無能!仕事が遅いぞ!と罵られた公爵令嬢は、婚約破棄されて自由を手に入れる。今まであなたの仕事もしていたのは私ですよ~どうなっても知りませんわ  作者: 山田 バルス


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第二十八話 アーサー視点 雪見草に託された想い ――雪見草。

「雪見草……」


 その言葉を聞いた瞬間。

 私は、忘れたことのない一人の女性を思い出した。


 まだ、私が幼かった頃。

 私は高熱を出して、何日も寝込んでいた。


 身体は熱く、息をすることさえ苦しい。

 父も母も、医師も、皆が心配そうな顔をしていた。


 そんなとき。

 一輪の白い花が、私の枕元に置かれた。


「これは……?」

「雪見草です」


 母が微笑んだ。


「ルーヴェンで古くから使われている薬草よ。あなたを助けてくれるかもしれないわ」


 その花を煎じた薬を飲んだ。

 苦かった。


 けれど。

 数日後。

 私は熱から解放された。


「アーサー……!」


 母が泣きながら抱きしめてくれたことを、今でも覚えている。

 あのときの私は知らなかった。


 雪見草が、私の命を救ったことを。

 そして。

 その花が、後に私の人生を変えることになるなど。


     ◇


 時が流れた。

 私は成長し。


 一人の女性と出会った。

 彼女はよく笑う人だった。

 庭園に咲く花を見るたびに立ち止まり。


「この花、綺麗ですね」


 そう言って、嬉しそうに微笑んだ。

 私はそんな彼女を見るのが好きだった。


 婚約が決まったとき。

 彼女は泣いて喜んでくれた。


「これからも、ずっと一緒ですね」

「ああ」


 私はそう答えた。

 それが、当たり前の未来になると思っていた。

 ――あの日までは。


「アーサー様……」


 彼女が病に倒れた。

 高熱だった。


 医師の診断を聞いた瞬間。

 私は思い出した。


 幼い頃。

 私を救ってくれた白い花。


「雪見草は……?」

「申し訳ありません」


 薬草園の管理者は、苦しそうに首を振った。


「現在、雪見草の在庫はありません」

「……一株も?」

「はい」


 私はすぐに父へ願い出た。


「どうにかして手に入れられないのですか?」

「他国に問い合わせよう」


 そして。

 隣国のベルガリア王国へ、使者が送られた。


 雪見草を分けてほしい。

 その願いを託して。


 しかし――。

 返ってきた答えは。

 冷たいものだった。


『我が国も余裕がない』


 それだけだった。


「……そんな」


 私は信じられなかった。

 人の命がかかっている。


 それなのに。

 たった一輪の花を分けてもらえない。


 私は何度も願った。

 けれど。

 答えが変わることはなかった。


     ◇


「アーサー様……」


 ベッドの上で。

 彼女が私を見つめていた。


「大丈夫です」


 私は笑った。


「必ず治します」

「……嘘つき」


 彼女は、ほんの少し笑った。


「泣いているではありませんか」

「これは……」


 頬に触れる。

 いつの間にか、涙が流れていた。


「……ごめんなさい」

「謝らないでください」


 彼女は弱々しく首を振った。


「アーサー様が謝ることではありません」

「だが……私は……」


 何もできなかった。

 幼い頃。


 私の命を救ってくれた花があった。

 なのに。


 愛する人を救うための花は、どこにもなかった。

 そして――。


 彼女は静かに目を閉じた。

 握っていた手から。

 少しずつ温もりが消えていった。


「……待ってくれ」


 私はその手を強く握った。


「まだ……」


 声が震えた。


「まだ、行かないでくれ……」


 けれど。

 彼女が再び目を開けることはなかった。


     ◇


 それから。

 私は政治の世界から離れた。


 父から何を言われても。

 誰に説得されても。


 戻ることはなかった。

 私にできることは、一つだけだった。


 ――雪見草を育てる。

 あの花がなかったことで。


 救えなかった命がある。

 ならば。


 二度と同じことを起こしてはいけない。

 何年も。

 私は研究した。


 土を変え。

 水を変え。

 日当たりを変え。

 何度も失敗した。


 枯れてしまったことも、一度や二度ではない。

 それでも。

 諦めなかった。


 そして――。

 ようやく。

 小さな白い花が咲いた。


「……雪見草」


 私はその花を見つめた。

 あの日から。


 ずっと待っていた花だった。

 やがて。


 少しずつ株を増やしていった。

 今では。

 ルーヴェンの薬草園には、十分な数の雪見草がある。


 もう。

 誰かが同じ思いをしなくて済むように。


     ◇


「兄上……」


 エリザベートの声で。

 私は現在へ引き戻された。

 彼女は私を見つめていた。


「……もう夜ですよ、まだ休まれないのですか?」

「戻ってきたのか?」


「まだ明かりが見えたので……体に悪いですわ」

「わかった、すぐ休むとしよう」

「無理はしないでくださいね」


 エリザベートは悲しそうに微笑んだ。


「兄上の心の一部は、あの日からずっと、ここに……」

「そうかもしれない」


 私は薬草園を見渡した。


「私にできることは、雪見草を育てることぐらいだった……」


 しばらく沈黙が続いた。

 やがて。

 エリザベートが、小さな声で言った。


「……そういえば、アリーゼ様が、雪見草を求めてきましたわ」

「ああ」


「王様を助けるために」

「そうだろうな」

「もし……この薬草でベルガリアの王が助けられたら……」


 エリザベートは少しだけ顔を伏せた。


「兄上は……許せますか?」


 私は、しばらく答えなかった。


 あの日。

 私はベルガリアを憎んだ。

 愛する人を救えなかったことを。


 何度も恨んだ。

 あの国を許せないと思った。


 けれど。

 長い年月を経て。

 私は一つのことに気づいた。


 過去を憎み続けても。

 失った人は戻ってこない。


「……復讐をするつもりはない」


 私は静かに答えた。


「そうなのですか……」

「だが」


 私は、ふっと口元を上げた。


「何もせずに渡すつもりもない」


 エリザベートが目を瞬かせる。


「兄上?」

「雪見草は、ルーヴェンの貴重な薬草だ」


 私は白い花へ視線を向ける。


「それを求めて、わざわざアリーゼ嬢が来るのだな」

「そのようですわ」

「ならば――」


 私は小さく笑った。


「交換条件くらいは、提示してもいいだろう」

「……何をお求めになるつもりなのですか?」


 私は、妹の顔を見た。

 エリザベートは、婚約者との別れ以来、以前のように笑うことが少なくなっていた。


「お前にとっても悪くないことだ……」


 エリザベートが呆れたように私を見る。


「兄上らしくないですね」

「そうか?」

「ええ」


 私は笑った。


「確かに昔とは変わったのかもしれないな」


 それから。

 私は薬草園の奥へ歩き出した。


 そこには。

 まだ誰にも見せていない雪見草があった。


 白く。

 静かに。


 朝露をまとっている。

 私は、その花を見つめた。


「それに――」


 ふと。

 アリーゼ嬢の顔が脳裏に浮かんだ。


 真っ直ぐな瞳。

 迷いながらも、自分の言葉で未来を切り開こうとする姿。


 そして――。

 ふと見せた、柔らかな笑顔。


「……銀髪が雪のようで、不思議な女性だったな」

「え?」


 エリザベートが振り返る。


「何か言いましたか?」

「いや」


 私は何でもないように答えた。


「独り言だ」


 そして。

 もう一度、雪見草を見る。


「……あの娘には、何か人を惹きつけるものがあるな」


 口元に、不敵な笑みが浮かんだ。


 ――さて。

 どんな交換条件を提示するとしようか。

 少しくらい、彼女を困らせてもいい。


 もちろん。

 雪見草は渡す。

 彼女が王を救うために必要なものなのだから。


 ただし――。

 簡単には渡さない。

 私は雪見草を一輪、丁寧に摘み取った。


◇


 その頃。

 エドガルドの屋敷では。


「……アリーゼ嬢」


 エドガルドが、一人で窓の外を見つめていた。

 先ほど再会した彼女の姿が、頭から離れない。


 無事に戻ってきてくれた。

 そのことが、嬉しかった。


 けれど。

 それだけではない。


「……私は」


 自分の胸に手を当てる。

 なぜ、彼女のことばかり考えてしまうのだろう。

 なぜ、彼女が笑うと。


 こんなにも嬉しくなるのだろう。

 そして――。


「アリーゼ嬢は……今、何を考えているのだろうな」


 小さく呟いた。

 そのとき。

 扉の向こうから、声が聞こえた。


「エドガルド様」

「どうした?」


「従兄のアーサー様に出された手紙の返信がございます」

「……早いな?」

「はい」


 エドガルドは振り返った。


「何と?」


 侍従は一礼して告げた。


「アリーゼ嬢との話し合いについて、明日の昼、同席してほしいとのことです」

「……私が?」


 エドガルドの心が、わずかに騒いだ。

 アーサーが。

 いったい何を考えているのか。


 そして。

 アリーゼ嬢に何か条件を付けるのだろうか――。


 エドガルドは、窓の外へ視線を向けた。

 夜の薬草園。


 その奥には。

 白い雪見草が静かに咲いている。


「……明日、か」


 アーサーが、アリーゼ嬢に何を求めるのか。

 それが気になって仕方がなかった。


 けれど――。

 本当に気になっているのは、それだけではない。


 明日、アリーゼ嬢に会える。

 そのことを思うと。

 なぜか、胸が少しだけ高鳴った。

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