第二十七話 もう一度、あなたに会いたくて
アリーゼ視点。
再びルーヴェンへ向かう馬車の中で。
私は何度も窓の外を眺めていた。
見慣れた街道。
遠くに見える丘。
そして――。
少しずつ近づいてくる、ルーヴェン公国の街並み。
「…………」
胸が落ち着かない。
陛下を助けるために戻ってきた。
雪見草を手に入れるため。
それだけのはずなのに。
どうしてだろう。
ルーヴェンが近づくほど。
胸の奥が、少しずつ温かくなっていく。
そして。
頭の中に浮かぶのは――。
「エドガルド様……」
小さく名前を呟いた。
すると。
自分で言った言葉なのに。
頬が熱くなった。
「……違います」
私は慌てて首を横に振った。
陛下を助けるため。
エドガルド様にお願いするため。
それだけ。
それだけなのだから。
やがて。
馬車はルーヴェン公国の街へ入った。
以前と変わらない景色。
市場には商人たちの声が響き。
通りには人々が行き交っている。
懐かしい。
ほんの少し前まで。
私はこの街で学んでいた。
そして――。
ここで。
私は初めて、自分の力で何かを成し遂げる喜びを知った。
馬車が公爵邸へ到着すると。
私は急いで降りた。
「アリーゼ嬢!」
その声を聞いた瞬間。
私の足が止まった。
「……え?」
顔を上げる。
そこにいたのは。
「エドガルド様……」
青い髪。
紫色の瞳。
見慣れたはずなのに。
なぜか。
今までよりも、ずっと眩しく見えた。
「お帰りなさい」
エドガルド様は。
少しだけ息を弾ませながら言った。
「……はい」
私は微笑んだ。
「ただいま戻りました」
その瞬間。
エドガルド様の表情が。
ほんの少しだけ柔らかくなった。
「……よかった」
「え?」
「無事に戻ってきてくれて」
その言葉に。
胸が、きゅっと締めつけられた。
「ご心配をおかけしました」
「心配しますよ」
エドガルド様は静かに答えた。
「アリーゼ嬢のことですから」
「私のこと……?」
「ええ」
真っ直ぐに見つめられる。
その視線から。
私はなぜか目を逸らしてしまった。
「…………」
どうして。
こんなに胸が苦しくなるのだろう。
以前なら。
こんなことはなかった。
ただ話をして。
商談をして。
一緒に問題を解決して。
それだけだった。
けれど。
今は。
こうして顔を見るだけで。
嬉しいと思ってしまう。
「アリーゼ嬢?」
「は、はい!」
慌てて顔を上げた。
「どうしました?」
「いえ……何でもありません」
エドガルド様は。
少し不思議そうな顔をした。
けれど。
それ以上は尋ねなかった。
「それより」
エドガルド様の表情が変わる。
「王都から戻ってきたということは、何かあったのですね?」
「はい」
私は頷いた。
「国王陛下が病に倒れられました」
「……国王陛下が?」
「高熱病です」
私は事情を説明した。
雪見草が必要なこと。
けれど。
王家の薬草園には、もう一株も残っていないこと。
そして。
以前、ルーヴェン公国が雪見草を求めたとき。
王家から断られていたこと。
「……そうですか」
エドガルド様は黙って聞いていた。
「それで」
私は一度、息を吸った。
「エドガルド様にお願いしたくて」
「私に?」
「はい」
私は頭を下げた。
「ルーヴェン公国の薬草園にある雪見草を、分けていただけないでしょうか」
「…………」
エドガルド様は。
しばらく何も言わなかった。
やはり。
難しいのだろうか。
以前。
王家はルーヴェンからの願いを断った。
こちらから助けを求めても。
簡単に応じてもらえるとは限らない。
「……申し訳ありません」
私は顔を上げた。
「突然こんなお願いをしてしまって」
「謝る必要はありません」
エドガルド様は言った。
「アリーゼ嬢が、私を頼ってくれたことが嬉しいです」
「…………」
胸が大きく跳ねた。
「それに」
エドガルド様は。
少しだけ微笑んだ。
「困っている人を助けるのに、過去のことだけを理由に断るつもりはありません」
「エドガルド様……」
「ただ」
エドガルド様は少し考えるように目を伏せた。
「薬草園を管理している者や、公家にも確認が必要です」
「もちろんです」
「ですが」
再び。
私を見る。
「できる限りのことはします」
「……ありがとうございます」
胸の奥から。
安堵が込み上げてきた。
「本当に……ありがとうございます」
「アリーゼ嬢」
「はい?」
「そんなに嬉しそうな顔をされると」
「え?」
「私も、もっと頑張りたくなります」
「…………」
顔が熱くなった。
「そ、そういう意味では……」
言葉が続かない。
エドガルド様は。
そんな私を見て。
小さく笑った。
「分かっています」
優しい声だった。
「アリーゼ嬢が王国のために頑張っていることくらい」
「…………」
その言葉を聞いて。
私は少しだけ胸が痛くなった。
そう。
私は陛下を助けるために戻ってきた。
国のため。
父のため。
そして。
王国に暮らす人々のため。
それなのに。
どうして私は。
エドガルド様の顔を見ただけで。
こんなにも安心してしまうのだろう。
「……ありがとうございます」
私はもう一度言った。
「戻ってきてよかったです」
その言葉が口から出た瞬間。
エドガルド様が目を見開いた。
「…………」
しまった。
今の言い方では。
まるで――。
「……私も」
エドガルド様が呟いた。
「アリーゼ嬢が戻ってきてくれて、嬉しいです」
「…………」
胸が。
大きく鳴った。
まるで。
自分の気持ちを見透かされたようで。
私は思わず視線を逸らした。
「……陛下を助けなければいけませんから」
それだけを。
小さな声で言った。
「ええ」
エドガルド様は頷いた。
「分かっています」
けれど。
その声は。
どこか嬉しそうだった。
そのとき。
私を待っていてくれる人がいることが。
こんなにも嬉しいのだと知った。
私は陛下を助ける。
そのために。
私はこの場所へ戻ってきたのだ。
けれど。
胸の奥にある。
もう一つの気持ちだけは。
まだ。
自分でも名前をつけられないままだった――。
◇
その夜。
エリザベートは、兄アーサーのもとを訪れていた。
公宮の温室。
そこには、夜になっても小さな明かりが灯っている。
「兄上……」
「エリザベートか」
アーサーは、緑色の髪を揺らしながら、いつものように植物の手入れをしていた。
土をならし。
枯れた葉を取り除く。
まるで。
植物だけが。
自分にとっての世界であるかのように。
「少し話してもいいかしら?」
「ああ」
エリザベートは兄の隣に立った。
「今日、アリーゼ様が戻ってきたの」
「……そうか」
アーサーの手が止まる。
「エドガルドが出迎えていたわ」
「エドガルドも?」
なぜか。
その名前を口にすると。
胸の奥が少しだけざわついた。
「二人とも……楽しそうだった」
「そうか」
アーサーは、それだけ答えた。
けれど。
しばらくして。
「お前は、どう感じた?」
「え?」
「アリーゼ嬢とエドガルドを見て」
エリザベートは黙り込んだ。
どうして。
兄はそんなことを聞くのだろう。
「……楽しそうだと思ったわ」
「それだけか?」
「…………」
エリザベートは視線を落とした。
そして。
小さく笑った。
「……羨ましい、と思った」
「何が?」
「……分からないわ」
「アリーゼ嬢がか?」
「それもあると思う。でも……」
エリザベートは胸元に手を当てた。
「誰かの前で、あんなふうに笑えることが……羨ましかったのかもしれない」
自分で口にすると。
少し恥ずかしかった。
「アリーゼ様は、婚約を失ったばかりなのに……」
エリザベートは窓の外を見た。
「それでも、自分の力で前へ進んでいる」
「…………」
「商売をして。
学院で学んで。
新しい人たちと出会って」
そして。
「エドガルドと一緒にいるとき、とても幸せそうな顔をしていたの」
「…………」
エリザベートは苦笑した。
「私は、ずっと公女でいなければならなかったから」
政務をする時も。
人と話す時も。
いつも。
正しく。
強く。
完璧でいなければならなかった。
「だから……羨ましかったのかもしれない」
アーサーは。
黙って妹を見つめていた。
やがて。
「お前は、ずっと自分のことを後回しにしてきた」
「兄上……」
「父上のことも。公国のことも。すべて自分一人で背負おうとしている」
アーサーは妹を見つめた。
「だが、それでお前自身が幸せになれないのなら……」
「…………」
「……やはり、そうか」
アーサーは小さく笑った。
「ならば……検討しよう」
「何を?」
「お前の未来についてだ」
「私の……?」
エリザベートが目を瞬かせる。
けれど。
アーサーは、それ以上何も言わなかった。
「兄上?」
「今日はもう遅い。部屋へ戻れ」
「……分かったわ」
エリザベートは首を傾げながら、温室を後にした。
扉が閉まる。
静かになった温室。
アーサーは、一人で植物を見つめていた。
「…………」
アーサーは。
そっと白い花に触れた。
指先が、わずかに震えている。
何年経っても。
この花を見るたびに、胸の奥が痛んだ。
「……雪見草」
その名前を口にした瞬間。
遠い記憶が。
心の奥から蘇った。




