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この無能!仕事が遅いぞ!と罵られた公爵令嬢は、婚約破棄されて自由を手に入れる。今まであなたの仕事もしていたのは私ですよ~どうなっても知りませんわ  作者: 山田 バルス


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第二十四話 雪見草のない薬草園


 ――ベルガリア王国。

 王宮では、国王陛下の容体が急激に悪化していた。


「陛下の熱が、さらに上がっています!」


 医師たちが慌ただしく動き回る。


「雪見草はどうした?」

「……それが」


 薬草園の管理を任されている男が、青ざめた顔で答えた。


「現在、薬草園に雪見草はほとんど残っておりません」

「なんだと?」


 王妃マチルダが立ち上がった。


「雪見草がなければ、陛下を救えないのでは?」

「はい……。高熱病には、雪見草が最も効果があるのですが……」


 部屋に沈黙が落ちた。

 その様子を。

 一歩離れたところから、マルクスは静かに見つめていた。


「…………」


 雪見草。

 その名前を聞いた瞬間。


 胸の奥に、古い痛みが蘇った。

 ――あの日も。

 医師は同じことを言った。


『雪見草があれば、助かる可能性があります』


 だが。

 雪見草は王族のためのものだった。


 マルクスの妻には、使われなかった。

 そして。

 愛する人は、帰ってこなかった。


「…………」


 マルクスは、そっと目を伏せる。

 何年経っても。


 忘れられるはずがなかった。

 最後に妻が見せた、あの笑顔も。


 弱々しく握り返してくれた、あの手の温もりも。

 すべて。


「……そうですか」


 マルクスは小さく呟いた。


「今度は、陛下が雪見草を必要とされるのですね」


 その声は穏やかだった。

 あまりにも穏やかだった。


 だからこそ。

 その瞳に浮かんだ冷たい光に、レオポルドだけが気づいた。


「父上……」

「何だ?」

「……いえ」


 レオポルドは、それ以上何も言わなかった。

 マルクスは、再び王の寝室へ視線を向ける。


「……人を減らせば、こうなることくらい分かっていた」


 ランスロットが人件費削減を命じたとき。

 マルクスとレオポルドは、止めなかった。


「ランスロット殿下が削ったのは、人件費だけではない」


 マルクスは、静かに王の寝室を見つめた。


「王国が守ってきたものまで、削ってしまったのだ」


 マルクスは、かすかに笑った。


「昔は、私の妻には与えられなかった」


 拳が、ゆっくりと握り締められる。


「ならば……」


 静かに息を吐く。


「今度は、王族がその苦しみを味わえばいい」


 そこにあったのは。

 怒りだけではなかった。


 妻を失った悲しみ。

 救えなかった悔しさ。

 それらは長い年月をかけて、憎しみへと変わっていた。


「……これで終わりです」


 マルクスは静かに呟いた。


「私の妻を奪った、この国の仕組みを……」


 ◇


 その頃、王宮の別の部屋では。


「シャルミナ」

「はい、殿下」


 ランスロットは、侍女に小さな箱を運ばせていた。


「これは君に」

「まあ……!」


 箱を開けると、中には美しい宝石の髪飾りが入っていた。


「素敵……!」


 シャルミナの顔がぱっと明るくなる。


「気に入ったか?」

「はい! ありがとうございます、ランスロット様」


 シャルミナは髪飾りを両手で大切そうに包み込んだ。

 その姿を見て、ランスロットも満足そうに笑った。


「最近、王宮の予算を見直しているんだ」

「予算を?」

「ああ。使われていない部署や、必要性の低いものに金をかける必要はないからな」


 ランスロットは何気なく続けた。


「まあ……では、これからは必要な薬だけ買えばいいのですね」

「ああ。王宮の金を無駄にする必要はない」


 ランスロットはそう言って、シャルミナの髪飾りを見た。


「節約した金は、もっと大切なことに使えばいい」

「ふふっ。嬉しいです」


 シャルミナは満面の笑みを浮かべた。


 ◇


 一方、その頃。

 ルーヴェン公国。


 父が王都へ戻ってから。

 数日が経っていた。


 私は学院で授業を受けながらも、どこか落ち着かなかった。

 国王陛下の容態。


 王都の状況。

 そして。


 王宮へ戻った父のこと。

 気になることは、いくつもあった。


 けれど。

 それとは別に。

 もう一つ、気になっていることがあった。


「……エドガルド様」


 私は小さく呟いた。

 なぜだろう。


 父が王都へ戻ってから。

 以前よりも、彼のことを考える時間が増えていた。


 ◇


「アリーゼ嬢」


 放課後。

 学院を出たところで、声をかけられた。

 振り返る。


「エドガルド様」


 そこには。

 いつもの穏やかな笑顔を浮かべたエドガルド様が立っていた。


「今日はお疲れのようですね」

「分かりますか?」

「ええ」


 エドガルド様は少し心配そうに私を見る。


「お父上のことが気になっているのでしょう?」

「……はい」


 私は素直に頷いた。


「王都の状況も分からなくて」

「心配になりますよね」


「はい」

「ですが」


 エドガルド様は優しく微笑んだ。


「きっと大丈夫です」

「……そうでしょうか?」


「アントワープ公爵閣下は、とても頼りになる方です」

「ふふっ」


 思わず笑ってしまう。


「そうですね」

「それに」


 エドガルド様が私を見る。


「アリーゼ嬢が心配していることも、きっと分かっているでしょう」

「……はい」


 その言葉が。

 不思議なくらい胸に響いた。


 しばらく二人で歩く。

 夕暮れのルーヴェンの街は、いつもより静かに見えた。


「そういえば」


 エドガルド様が言った。


「先日の商談は、素晴らしかったですね」

「ありがとうございます」


「公爵領と商会との契約まで成立させてしまうとは」

「父が喜んでくれたのが、一番嬉しかったです」


「……そうですか」

「はい」


 私は少しだけ笑った。


「以前は、父とこんなふうに話すことなんて、ほとんどありませんでしたから」

「ですが、今は違う」


「はい」

「それは、アリーゼ嬢が変わったからでしょうね」


「私が?」

「ええ」


 エドガルド様は頷いた。


「自分の考えを持って、自分の足で歩いている」

「…………」


「私は、そんなあなたを素敵だと思います」

「……え?」


 思わず足が止まった。

 エドガルド様も立ち止まる。


「どうしました?」

「い、いえ……」


 胸が。

 どくん、と鳴った。


「今……何と?」

「素敵だと」

「…………」


 顔が熱くなる。


「そ、そういうことを、簡単に言わないでください」

「簡単に言ったつもりはありませんが」


 エドガルド様は、少し困ったように笑った。


「……本当に思ったことを言っただけです」

「…………」


 そんな顔で言われたら。

 ますます、何も言えなくなる。


 私が俯くと。

 エドガルド様は、それ以上何も言わなかった。


 ただ。

 私が歩き出すまで、静かに待っていてくれた。


 ますます顔が熱くなる。

 私は視線を逸らした。


 ――ずるい。

 そんなふうに言われたら。

 意識してしまう。


 しばらく歩いたところで。

 エドガルド様が、ふと口を開いた。


「アリーゼ嬢」

「はい?」

「もし……」


 彼は少しだけ言葉を選んだ。


「もし王都の状況が落ち着いたら」

「はい」


「また、こちらへ戻ってきますか?」

「もちろんです」


 私はすぐに答えた。


「ルーヴェンで学びたいことは、まだたくさんありますから」

「……そうですか」


 エドガルド様が微笑む。


「それなら、よかった」

「何がですか?」

「いえ」


 彼は前を向いた。


「戻ってきてくれるのなら、それで」

「…………」


 また。

 胸が高鳴った。


 どうしてだろう。

 エドガルド様の言葉一つで。

 こんなにも嬉しくなってしまう。


 ◇


 その夜。

 私は自分の部屋で、窓の外を眺めていた。


「……戻ってきてくれるのなら、それで」


 昼間のエドガルド様の言葉が、頭から離れない。

 私は胸に手を当てた。


 どくん。

 また。

 心臓が大きく鳴った。


「……どうして?」


 今までだって。

 エドガルド様と話すことはあった。


 一緒に商談をしたことも。

 学院で顔を合わせることも。


 それなのに。

 今日は違った。


 彼の言葉が。

 笑顔が。

 何度も頭に浮かんでくる。


「……変なの」


 私は小さく笑った。

 そして。


 ふと気づく。

 もし。


 このまま王都へ戻って。

 ルーヴェンへ帰ってこられなかったら。


 ――私は。

 寂しいと思うだろうか。


「…………」


 考えただけで。

 胸が苦しくなった。


「……帰ってきたい」


 私は小さく呟いた。

 王都へ戻るのは、仕方のないことだ。


 父のことも心配だ。

 王国のことも気になる。


 それでも。

 私がここへ戻ってきたいと思う理由の中に。

 エドガルド様がいるのだと。


 ◇


 翌朝。

 一人の使用人が私の前にやってきた。


「アリーゼ様」

「はい?」


「アントワープ公爵閣下より、書状が届いております」

「お父様から?」


 私は急いで封を開けた。

 短い手紙だった。


 王都の状況。

 国王陛下の容態。

 そして最後に。


『必要になれば迎えを寄越す』


 そう書かれていた。


「…………」


 私は手紙を握りしめる。

 

 ◇


 その日の夕方。

 王都から正式な知らせが届いた。


『王都へ戻るように』


 その文字を見た瞬間。

 胸が締めつけられた。


 王国で何が起こっているのか。

 国王陛下は大丈夫なのか。


 考えなければならないことは、たくさんある。

 けれど。


 それとは別に。

 私の胸の奥には。

 一つの感情があった。


「……寂しい」


 まだ出発してもいないのに。

 もう。


 エドガルド様と離れることが寂しかった。

 私は窓の外を見る。


 夕暮れのルーヴェン。

 ここで過ごした時間。


 父と笑ったこと。

 学院で学んだこと。


 そして。

 エドガルド様と過ごした時間。


「……戻ってきたい」


 私は胸の中で、もう一度呟いた。

 けれど。


 このときの私は、まだ知らなかった。

 エドガルド様の元へ戻ることが。

 こんなにも難しいことになるなんて――。

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