第二十三話 父と過ごす、幸せな時間
それから。
父はすぐに王都へ戻ることはなかった。
「せっかくルーヴェンまで来たのだ。もう少し滞在する」
「本当ですか?」
「ああ」
父は少し照れたように頷いた。
「お前の話も、もっと聞きたいからな」
「……はい!」
私は嬉しくなった。
父とこんなふうに話すのは、いつ以来だろう。
王太子妃教育を受けていた頃。
父と話すことといえば。
勉強の進み具合。
王宮での仕事。
社交界での振る舞い。
そんな話ばかりだった。
けれど。
今は違う。
「今日はどんな授業だった?」
「商業学です」
「商業学か」
「はい。それで――」
私は今日学んだことを話した。
父は黙って聞いてくれる。
途中で質問をしてくれたり。
私の考えを聞いてくれたり。
それが。
とても嬉しかった。
◇
数日後。
私は父を商会へ案内していた。
「こちらが、最近取引をしている商会です」
「ほう」
父は店内を見渡す。
「随分と大きいな」
「ルーヴェンでも有数の商会だそうです」
商会長が出迎えてくれる。
「アントワープ公爵閣下。お会いできて光栄です」
「こちらこそ」
父は商会長と握手を交わした。
その後。
私たちは公爵領から輸出できる商品の話をした。
「アントワープ公爵領では、小麦の生産が盛んだと聞いております」
「その通りだ」
「もし輸送経路を見直せば、ルーヴェンへ安定して輸出できる可能性があります」
私は資料を広げた。
「こちらをご覧ください」
輸送経路。
必要な費用。
販売価格。
そして、生産者へ還元される利益。
一つずつ説明していく。
「……なるほど」
商会長が頷く。
「この条件なら、長期的な取引が可能ですね」
「はい」
「公爵領としても問題はありません」
父が口を挟んだ。
「むしろ、安定した販路ができるなら歓迎したい」
「では――」
商会長が契約書を取り出した。
「アントワープ公爵領産の小麦について、長期輸出契約を結ばせていただけますでしょうか」
「……!」
私は思わず父を見る。
父は私を見て。
小さく笑った。
「ああ。よろしく頼む」
「ありがとうございます」
こうして。
アントワープ公爵領とルーヴェンの商会との間で、小麦の輸出契約が結ばれた。
「やりましたね、お父様!」
「ああ」
父は笑った。
「だが、これは私の功績ではない」
「え?」
「アリーゼが繋いだ話だ」
「…………」
胸が熱くなる。
「よくやったな」
「……はい!」
私は笑った。
◇
商談が終わった翌日。
「今日は仕事を忘れよう」
父が突然言った。
「え?」
「せっかくルーヴェンへ来たのだ。街を見て回ろう」
「いいんですか?」
「ああ」
私は嬉しくなった。
「行きたいです!」
父と二人で街を歩く。
市場を見たり。
色鮮やかな菓子を買ったり。
広場で音楽を聴いたり。
「お父様、見てください!」
「ああ」
「あのお店、珍しい香辛料を売っています!」
「本当だな」
「少し寄ってもいいですか?」
「もちろんだ」
気づけば。
私は何度も父の袖を引いていた。
昔のように。
父も嫌そうな顔をしない。
むしろ。
楽しそうに笑っている。
「……楽しいですね」
「そうだな」
「こうして二人で街を歩くの、久しぶりですね」
「ああ」
父は少し黙って。
やがて、小さく呟いた。
「もっと早く、こうしておけばよかったな」
「……お父様?」
「いや」
父は首を横に振った。
「なんでもない」
けれど。
その横顔は。
少しだけ寂しそうだった。
◇
その日の夕方。
私たちは学院近くの広場にあるベンチに座っていた。
「疲れましたね」
「お前があちこち歩き回るからだ」
「だって、見たいものがたくさんあるんです」
「昔からそうだったな」
「そうでした?」
「ああ」
父が笑う。
「屋敷の庭でも、気になるものを見つけると、すぐに走っていった」
「……覚えているんですか?」
「当然だ」
私は少し驚いた。
父は。
ちゃんと私を見ていたのだ。
ただ。
私の「やりたいこと」には、気づいていなかっただけで。
「……お父様」
「何だ?」
「私、ルーヴェンへ来てよかったです」
父は黙って私を見る。
「ここへ来てから、いろいろなことを知りました」
私は空を見上げた。
「商売のことも」
そして。
「自分のことも」
「……そうか」
「それに」
私は少しだけ笑った。
「お父様とも、こんなに話せるようになりました」
父は目を伏せた。
「……そうだな」
「だから」
私は父を見る。
「来てくれて、ありがとうございます」
「……礼を言うのは私の方だ」
「え?」
「お前に会いに来てよかった」
父は優しく笑った。
「今のお前を見られて、本当によかったと思っている」
胸が。
じんと熱くなる。
「……お父様」
私は父の肩に、そっと頭を寄せた。
「もう少しだけ、一緒にいたいです」
「ああ」
父は頷いた。
「私もだ」
その時間は。
私にとって、とても幸せなものだった。
けれど。
その幸せは。
突然、終わりを告げることになる。
◇
数日後。
公爵邸として借りている屋敷に。
一人の騎士が駆け込んできた。
「公爵閣下!」
「どうした?」
父が立ち上がる。
騎士は息を切らしながら、一通の書状を差し出した。
「王都から緊急連絡です」
「緊急……?」
父が封を開く。
その表情が。
次第に変わっていく。
「……何が書いてあるんですか?」
私は思わず尋ねた。
父はしばらく黙っていた。
そして。
「……国王陛下が倒れられた」
「…………え?」
頭の中が真っ白になる。
「お父様……今、なんと?」
「国王陛下が病に倒れられたそうだ」
「そんな……」
私は胸の前で手を握った。
「お命は……?」
「まだ分からん」
父の声も重い。
「詳しい状態については、王宮からの報告を待つしかない」
「私も行きます」
「アリーゼ」
「私も王都へ戻ります」
私は父を見つめた。
「王太子殿下のことも……王妃陛下のことも心配です」
父は少しだけ迷った。
けれど。
「……今は、お前を連れて行くべきではない」
「でも――」
「陛下の容態も分かっていない」
父は静かに言った。
「王都が今後どうなるかも分からない」
「…………」
「必要になれば、すぐに迎えを寄越す」
私は唇を噛んだ。
「……分かりました」
本当は。
一緒に帰りたかった。
けれど。
父がそう言うなら。
「お父様」
「ああ」
「気をつけてください」
「心配するな」
父は私の頭に手を置いた。
「必ず戻ってくる」
「……はい」
私は頷いた。
父が馬車へ向かっていく。
その背中を。
私はずっと見つめていた。
「お父様……」
馬車の扉が閉じる。
やがて。
馬車は王国へ向かって走り出した。
私は。
その姿が見えなくなるまで、動けなかった。
◇
――その頃。
ベルガリア王国。
王宮。
国王の寝室では。
医師たちが慌ただしく動いていた。
「陛下の容態は?」
「非常に危険です」
「原因は?」
「……まだ、分かりません」
その部屋の外。
一人の男が静かに立っていた。
宰相。
マルクス。
「…………」
その顔には。
心配しているような表情が浮かんでいる。
けれど。
誰も気づいていなかった。
その目の奥に。
冷たい光が宿っていることに。
「……始まったな」
マルクスは小さく呟いた。
誰にも聞こえない声で。
そして。
その少し離れた場所では。
レオポルドが王宮の廊下を歩いていた。
「父上」
「何だ?」
「国王陛下の容態ですが」
「ああ」
「医師たちは、まだ原因を特定できていません」
「それでいい」
「……はい」
「陛下が倒れた以上、王太子は動くしかない」
マルクスは静かに笑った。
「そして、王太子が動けば――我々の計画も進む」
マルクスは微笑んだ。
王国の人々は。
まだ知らない。
国王の病が。
偶然ではないことを。
そして。
この日を境に。
ベルガリア王国が。
大きく揺れ始めることを。
――そのときの私は。
まだ何も知らなかった。
この出来事が。
私の人生を、もう一度大きく変えることになるとは。
最後まで読んでいただき、誠にありがとございました。(*- -)(*_ _)ペコリ
感謝です。m(__)m
山田 バルス




