第二十二話 アリーゼと祖父ヨーゼフの小さな商売教室
まだ私が十歳だった頃。
「おじい様!」
私は屋敷の玄関を飛び出した。
「アリーゼ。廊下を走るんじゃない」
後ろから侍女の声が聞こえる。
けれど。
私は止まらなかった。
今日は特別な日だった。
大好きな祖父――ヨーゼフが、王都の市場へ連れて行ってくれる日なのだから。
「おじい様、今日はどこへ行くの?」
「市場だ」
「また?」
「まただ」
祖父は笑った。
白い髭を蓄えた大きな身体。
公爵家の当主だった祖父は、屋敷ではいつも厳しい顔をしていた。
けれど。
私と二人になると、いつも優しい。
「市場には面白いものがたくさんあるぞ」
「お菓子も?」
「もちろんだ」
「じゃあ行きます!」
「最初から行く気だっただろう?」
「……ばれました?」
「顔に書いてある」
祖父は笑った。
私は祖父の手を握った。
◇
市場は。
今日も大勢の人で賑わっていた。
「おじい様、すごい!」
野菜。
果物。
パン。
肉。
香辛料。
色とりどりの商品が並んでいる。
商人たちの声が響き。
買い物をする人たちが行き交っている。
「アリーゼ」
「はい?」
「今日は一つ、勉強をしよう」
「勉強……?」
私は少しだけ顔を曇らせた。
せっかく市場へ来たのに。
「算術ですか?」
「違う」
「外国語?」
「違う」
「じゃあ何?」
祖父は市場の端を指差した。
「あの店を見てみろ」
そこには。
一軒の果物屋があった。
たくさんのリンゴが並んでいる。
けれど。
客はほとんどいない。
「どうして、あのお店は暇なの?」
「それを考えるのが今日の勉強だ」
「ええ……」
私は店をじっと見つめた。
リンゴは美味しそうだった。
値段も。
それほど高くない。
「値段が高いのかな?」
「隣の店と比べてみろ」
私は隣の店を見る。
「……同じくらい」
「では、品質か?」
「傷んでいるリンゴは……少しあるけど」
私は考えた。
そのとき。
一人の女性が果物屋の前で立ち止まった。
「うーん……」
女性はリンゴを手に取った。
そして。
すぐに戻した。
「どうして買わなかったのかな?」
「それを考えてみろ」
私は女性の様子を見た。
女性は隣の店へ行った。
そこでは。
小さな籠に入ったリンゴを買っている。
「……あっ」
「気づいたか?」
「はい」
私は果物屋を指差した。
「リンゴが全部、大きな箱に入ってる」
「それが?」
「たくさん買う人にはいいけど……あの女性は一人暮らしなのかも」
祖父が目を細める。
「続けてみろ」
「それに……」
私は隣の店を見る。
そこには小さな籠があった。
「隣のお店は、一個から買える」
「なるほど」
「だから……」
私は、さっきの女性をもう一度見た。
その人は、隣の店で買ったリンゴを一つだけ籠から取り出していた。
「……たくさん欲しい人ばかりじゃないんだ」
私は呟いた。
「小さな籠に分けたらいいんじゃないかな?」
祖父は黙っていた。
「……違う?」
「いや」
祖父は笑った。
「やってみよう」
「え?」
祖父は果物屋の店主のところへ向かった。
「少し話をしてもいいか?」
「これはヨーゼフ様!」
店主は驚いた。
「どうしてこちらへ?」
「この子の考えを聞いてほしい」
「お嬢様の?」
私は少し緊張した。
けれど。
自分の考えを話した。
「小さな籠を作って、一人で暮らしている人にも買いやすくしたらどうでしょう?」
「なるほど……」
「それから」
私はリンゴを一つ持ち上げた。
「少し傷があるものは、ジャム用として売るのはどうですか?」
店主が目を丸くした。
「ジャム用?」
「はい。傷が少しあるだけなら、捨てる必要はないと思います」
祖父が頷いた。
「いい考えだ」
店主はしばらく考えた。
「……やってみます」
◇
三日後。
私と祖父は。
再び市場を訪れた。
「おじい様!」
果物屋を見る。
「見て!」
小さな籠に入ったリンゴ。
そして。
『ジャム用リンゴ 一籠○○銅貨』
という看板。
店の前には。
たくさんの客がいた。
「売れてる……!」
私は思わず声を上げた。
「そうだな」
「私の考えが役に立ったの?」
「そうだ」
胸が。
ぽかぽかした。
店主が私たちに気づいた。
「ヨーゼフ様! お嬢様!」
嬉しそうに駆け寄ってくる。
「おかげさまで、リンゴがよく売れるようになりました!」
「よかったですね」
私は笑った。
店主も笑っている。
お客さんも笑っている。
その光景を見ていると。
なんだか。
自分まで嬉しくなった。
「おじい様」
「何だ?」
「商売って……面白いね」
祖父は。
しばらく私の顔を見つめていた。
そして。
優しく笑った。
「そう思ったか」
「うん」
「なら、覚えておきなさい」
祖父は私の頭に手を置いた。
「商売は、誰かからお金を奪うことではない」
「……?」
「相手が何を欲しがっているのかを考えることだ」
私は黙って聞いた。
「売る側も嬉しい」
「買う側も嬉しい」
「作る側も嬉しい」
祖父は市場を見渡した。
「その三つが揃ったとき、商売は長く続く」
「三つ……」
「そうだ」
祖父は笑った。
「自分だけが得をする商売は、いつか誰かに嫌われる」
「じゃあ……みんなが得をする商売なら?」
「きっと、みんながお前を必要としてくれる」
私は。
その言葉をずっと覚えていた。
◇
帰り道。
「おじい様」
「何だ?」
「私、大きくなったら商人になれるかな?」
祖父が足を止めた。
「公爵令嬢が商人になるのか?」
「だめ?」
「そんなことはない」
祖父は笑った。
「お前が本当にやりたいのなら、誰にも止められない」
「本当?」
「ああ」
私は嬉しくなった。
「じゃあ、外国の人とも商売したい!」
「外国人と?」
「うん!」
「なら、外国語も覚えなくてはいけないな」
「覚える!」
「本当に?」
「うん!」
「難しいぞ?」
「商売のためなら頑張る!」
祖父は声を上げて笑った。
「そうか、そうか」
そして。
私の頭を優しく撫でた。
「お前ならできるかもしれんな」
「本当?」
「ああ」
祖父は少しだけ真面目な顔になった。
「ただし、一つだけ忘れるな」
「何?」
「商売が上手い人間とは、たくさんお金を稼げる人間のことではない」
「……?」
「人の欲しいものを見つけて、人と人を繋げられる人間だ」
私は。
その言葉の意味をまだ完全には理解できなかった。
けれど。
いつか分かる日が来る。
そんな気がした。
◇
――そして、今。
「この小麦なら、輸送経路を変えることで二割ほど安くできます」
私は市場で商人と話していた。
「ですが、生産者への支払いは減らしません」
「それでは、あなたの利益が減るのでは?」
「少しだけです」
私は笑った。
「でも、その分だけ長く取引できます」
「……なるほど」
商人が頷く。
「確かに、その方がお互いに得ですね」
「はい」
商談がまとまる。
商人が嬉しそうに笑った。
「アリーゼ嬢。ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございます」
商人が去っていく。
私は。
ふと空を見上げた。
あの日の市場を思い出す。
祖父と一緒に見た。
小さな果物屋。
売れ残っていたリンゴ。
そして。
嬉しそうに笑っていた店主。
「……おじい様」
私は小さく呟いた。
「私、少しは立派な商人になれたでしょうか?」
返事はない。
もう。
祖父はここにはいない。
それでも。
あの日の声だけは。
今も胸の中に残っている。
『商売は、人と人を繋げるものだ』
私は微笑んだ。
「だったら……」
目の前の街を見つめる。
「もっとたくさんの人を、笑顔にしたい」
婚約者に捨てられた。
王太子妃になる未来も失った。
かつての私は。
自分には何の価値もないのだと思っていた。
けれど。
違った。
私には。
私にしかできないことがある。
祖父からもらったもの。
父から教えられたこと。
そして。
これまで自分自身で積み重ねてきたもの。
それらは。
誰かに奪われるものではない。
「……おじい様」
もう一度だけ。
私は空を見上げた。
「私、もう少し頑張ってみますね」
その顔には。
昔のような怯えはなかった。
自分の足で。
自分の人生を歩く女性の笑顔があった。
◇
――その頃。
ベルガリア王国。
王宮の一室。
夕暮れの光が、静かな部屋へ差し込んでいた。
その中で。
宰相マルクスと、息子のレオポルドが向かい合っている。
机の上には。
王宮内の人事。
軍部の報告。
貴族たちの動向。
いくつもの書類が並べられていた。
「……準備は、ほぼ整いました」
レオポルドが静かに告げる。
「王宮内の主要な役職には、我々に従う者が増えています」
「軍部は?」
「こちらに協力する高官が、すでに何人も」
「貴族たちは?」
「王家よりも、我々を頼る者が増えています」
マルクスは、満足そうに頷いた。
「そうか」
そして。
机の上の書類を、一枚ずつ指でなぞる。
「これだけ揃えば……」
マルクスは小さく笑った。
「王家が何を命じようと、実際に動かす者がいなければ意味はない」
「ええ」
レオポルドも微笑む。
「……あとは、時を待つだけですね」
「ああ」
マルクスは窓の外へ目を向けた。
夕暮れの王都。
人々はまだ知らない。
王宮の中で。
自分たちの知らない力が、少しずつ広がっていることを。
「ところで」
レオポルドが、机の上に一枚の報告書を置いた。
「ルーヴェン公国のアリーゼ嬢について、報告が届いています」
マルクスが視線を落とす。
「……あの娘か」
報告書には。
商人たちとの交渉。
小麦の取引。
輸送費の削減。
そんな文字が並んでいた。
マルクスは、しばらく目を通す。
「……思っていたより、やるようだな」
「ですが、今はこちらに戻る気配はありません」
「ならば、放っておけばいい」
マルクスは報告書を閉じた。
「今は、あの娘よりも優先すべきことがある」
「王家……ですね」
「ああ」
マルクスの目から。
温かさが消える。
「まずは、王家を完全にこちらの手の中へ入れる」
窓の外にある王宮を見つめる。
やがて。
ゆっくりと口を開いた。
「そろそろ――」
一拍。
「国王陛下には、病気になっていただこうか」
「……では」
レオポルドの表情から、一瞬だけ笑みが消えた。
「ついに始めるのですか?」
レオポルドは。
一瞬だけ目を伏せた。
そして。
「……承知しました」
静かに微笑んだ。
夕暮れの王宮を見つめながら。
マルクスは、薄く笑った。
「玉座は、王家に残しておけばいい」
「……ええ」
「国を動かす力さえ、こちらが握っていればな」
その言葉を最後に。
二人は沈黙した。
王宮の外では。
夜が静かに訪れようとしていた。
――そして。
ベルガリア王国では。
誰も知らないところで。
王家の崩壊が、静かに始まろうとしていた。




