第二十一話 捨てられた公女エリザベート
公都を走る馬車の中で。
エリザベート=ルーヴェンは、窓の外を眺めていた。
流れていく景色には、見慣れたものが多かった。
幼い頃に母と歩いた市場。
父に連れられて何度も通った商人街。
そして――。
婚約者と初めて出会った庭園。
どれも。
昨日までは、幸せな思い出だった。
けれど。
今は、何もかもが違って見える。
「……本当に、婚約破棄されたのね」
昨日。
隣国の帝国、その第二皇子である婚約者から告げられた言葉を。
エリザベートは、もう一度思い出した。
『すまない、僕は、別の女性を愛している』
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥が、凍りついたようだった。
しかし、頷くしかなかった。公国と帝国では国力に差がある。
皇子の決定に異を唱えるのは難しかった。
『君は僕との交流よりも、父君の政務を優先している』
『婚約者として、君と過ごす時間がほとんどなかった』
『……僕には、もっと僕を理解してくれる女性が必要なんだ』
「……」
エリザベートは唇を噛んだ。
悔しかった。
悲しかった。
けれど。
反論できなかった。
確かに。
自分は婚約者との時間よりも、政務を優先していた。
父が病に倒れてからは。
なおさらだった。
けれど――。
「……私だって、好きでそうしていたわけではないわ」
小さく呟く。
ルーヴェン公国は、二人の兄弟によって支えられてきた。
父アンザックは内政を。
エドガルドの父スペキュロスは外交を。
二人がそれぞれの役割を担うことで、小さな公国は帝国や周辺諸国との関係を保ってきた。
特に。
大国である隣国の帝国との関係は重要だった。
だからこそ。
エリザベートは帝国の第二皇子と婚約した。
ただ愛されるためではない。
公国と帝国の結びつきを強くするため。
父から託された未来のためだった。
それなのに。
「……私は、間違っていたのかしら」
一粒の涙が頬を伝った。
慌てて拭う。
誰にも見られてはいけない。
侍女にも。
護衛にも。
公女が婚約破棄され、馬車の中で泣いているなど。
知られてはいけない。
「私は……公女なのだから」
そう言い聞かせる。
けれど。
その言葉は。
今の自分には、ひどく寂しく聞こえた。
◇
数刻後。
ルーヴェン公宮に到着した。
「お帰りなさいませ、エリザベート殿下」
大勢の侍女や騎士たちが出迎える。
エリザベートは微笑んだ。
「ただいま戻りました」
いつもの公女の顔。
完璧な笑顔。
背筋を伸ばし。
優雅に歩く。
誰にも弱みを見せない。
それが。
公女として生きるということだった。
「殿下……」
長年仕えている侍女、フローレンスが心配そうに見つめている。
「どうしましたか?」
「いえ……」
フローレンスは何かを言いかけた。
けれど。
「何でもありません」
そう微笑んだ。
エリザベートも。
「そう」
笑って返した。
それ以上は。
何も言わなかった。
◇
自室に戻る。
扉が閉まった。
その瞬間。
「……疲れた」
エリザベートはベッドに腰を下ろした。
公女の仮面が。
ゆっくりと剥がれていく。
「……本当に、疲れたわ」
誰もいない部屋。
そこでようやく。
自由に息ができた。
机の上には。
婚約者から贈られた花が飾られている。
数日前までは。
見るだけで嬉しかった。
今は。
見るだけで胸が痛い。
「……捨てられたのね、私」
小さく呟く。
何のために。
あれほど努力したのだろう。
礼儀作法。
商業。
領地経営。
そして政務。
幼い頃から。
父の背中を見ながら学んできた。
父、アンザックは。
娘をただ大切に育てるだけの人ではなかった。
公女だからこそ。
国のことを知ってほしい。
そう考えていた。
まだ幼かった頃。
エリザベートは父の執務室で地図を広げていた。
『お父様。この街道は、どうしてこんなに大切なの?』
『北部で作った小麦を、南部へ運ぶためだ』
『小麦が届かなかったら?』
『パンの値段が上がる』
『それは困ります』
『そうだろう?』
父は笑った。
『だから、公族は公宮だけを見ていてはいけない』
『国民が何を食べ、何を作り、何に困っているのかを知らなければならない』
幼いエリザベートは。
真剣に頷いた。
『私も勉強します』
『ああ』
父は優しく頭を撫でた。
『国を支える人間になるために、学びなさい』
その言葉は。
今も胸に残っている。
「……お父様」
けれど。
そんな父も。
今は病床に伏している。
病気になってから。
以前のように政務を行うことはできなくなった。
だから。
学生だったエリザベートが。
父に代わって内政を手伝うようになった。
最初は簡単な書類の確認だけだった。
けれど。
次第に任される仕事が増えていった。
商人との交渉。
税の問題。
港の管理。
公国の未来に関わることばかりだった。
エリザベートは目を伏せる。
自分は政務から逃げることができなかった。
婚約者と過ごす時間を削ってでも。
父の代わりをしなければならなかった。
「それでも……」
涙がこぼれた。
「それでも、私を選んではくれなかったのね」
婚約者には。
そんな事情など関係なかったのかもしれない。
愛する人と過ごしたかった。
自分を見てほしかった。
ただ、それだけだったのだろう。
「……仕方ないわ」
エリザベートは涙を拭った。
「私は、皇子より公国を選んだのだから」
それは。
自分自身への言い訳だった。
◇
翌朝。
「本日のご予定を」
フローレンスが予定表を読み上げる。
「午前は商務官との会議。その後、北部の街道整備について報告を受けます」
「分かりました」
「午後は外国商人との面会です」
「それも予定通りに」
フローレンスが心配そうにエリザベートを見る。
「……殿下。本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫よ」
エリザベートは微笑んだ。
「仕事をしている方が、今は気が楽なの」
「……承知しました」
フローレンスは深く頭を下げた。
◇
執務室。
エリザベートが席につく。
机の上には大量の書類が積まれていた。
小麦の輸入量。
織物の輸出状況。
街道の整備計画。
港の使用料。
どれも。
公女として以前から目を通してきたものだった。
「北部からの小麦の輸送量が減っていますね」
「はい。先月の大雨で街道の一部が使えなくなっています」
「別の経路を検討してください」
「承知しました」
「それから、輸送費が上がっているなら、商人たちへの支援策も必要です」
「はい」
次の書類。
さらに次の書類。
仕事をしている間は。
不思議と胸の痛みが薄れていく。
婚約者のことを考えなくて済む。
自分が捨てられたことを考えなくて済む。
だから。
エリザベートは働いた。
必死に。
いつも以上に。
まるで。
仕事をしていれば。
自分の心まで忘れられるかのように。
◇
昼頃。
商務官が声をかけた。
「殿下、本日の案件は以上です」
「そうですか」
エリザベートは書類を閉じた。
窓の外を見る。
もう昼になっていた。
「……こんなに時間が経っていたのね」
「お疲れでしょう」
「ええ」
少しだけ笑う。
悲しみが消えたわけではない。
婚約者への未練がなくなったわけでもない。
ただ。
「私には……まだできることがある」
そう思えた。
公女だからではない。
自分自身が。
この国を支えたいと思っているからだ。
「父が病床にいる今、私が頑張らなければ……」
エリザベートは呟いた。
けれど。
ふと。
兄のことを思い出した。
「……アーサー兄上」
兄のアーサーは、かつては政務にも関心を持っていた。
けれど、ある出来事を境に、政治から距離を置くようになった。
今では公宮の温室にこもり、植物を育てている。
妹の私でさえ。
兄が再び政務に戻るとは思っていなかった。
「……兄上が政務をしてくだされば、学院に行けるのに……」
そう思ったことは。
一度や二度ではない。
けれど。
兄には兄の事情がある。
だから。
エリザベートは何も言えなかった。
そして。
そんな事情もあって。
将来的には。
エドガルドがルーヴェン公国を継ぐ可能性もあった。
エリザベートは窓の外を見つめる。
「……エドガルド」
幼い頃から知っている青年。
今では。
外交を担う父のもとで学び。
自分自身でも商業や政治について学んでいる。
昔は。
ただの幼馴染だと思っていた。
けれど。
最近は少し違う。
彼が。
将来この国を背負うかもしれない。
そう考えると。
以前とは違った目で見てしまう。
「……いけないわ」
エリザベートは首を振った。
「今は、私が父の代わりをすることだけを考えなければ」
そう言い聞かせる。
けれど。
その言葉の奥には。
自分でも気づいていない不安があった。
◇
それから数日。
エリザベートは以前にも増して政務に打ち込んだ。
そんなある日の午後。
「殿下」
フローレンスが一冊の報告書を持ってきた。
「何かしら?」
「ルーヴェン公国へ留学している令嬢についてです」
「留学生?」
「はい」
エリザベートは書類を受け取った。
そこには。
一人の令嬢の名前が記されていた。
「アリーゼ様……?」
「はい」
フローレンスが頷く。
「ベルガリア王国から留学している令嬢です」
「ベルガリア王国……」
エリザベートの手が止まった。
「どうして、この方が?」
「先日、公都の商人たちと商談をされたそうです」
「商談?」
「はい」
フローレンスが報告書をめくる。
「輸送経路を見直し、小麦の仕入れ価格を大幅に下げたとか」
「……」
「しかも、生産者への支払いを減らさず、購入者にも安く提供できる仕組みを提案したそうです」
エリザベートは報告書を見つめた。
「若い令嬢が……?」
「はい」
さらに。
報告書の下には小さな追記があった。
『ベルガリア王国の元王太子殿下の婚約者』
エリザベートの瞳が止まる。
「……王太子妃の元婚約者?」
「どうやら、以前は王太子殿下の婚約者だったようです」
「……そう」
胸の奥が。
ほんの少しだけ痛んだ。
自分と同じだ。
婚約者を失った。
そして。
それでも異国へ来て。
新しいことを始めている。
「この方も……婚約を解消されたの?」
「はい」
フローレンスは頷いた。
「詳しい事情までは分かりません。ただ、ベルガリア王国を離れ、ルーヴェン公国へ留学されたと」
「……」
エリザベートは黙り込んだ。
知らない女性。
会ったこともない。
顔さえ知らない。
それなのに。
なぜか。
その名前が気になった。
「アリーゼ様……」
もう一度。
その名前を口にする。
婚約を失った。
国を離れた。
そして。
異国で自分の力を証明しようとしている。
「……私と似ているわね」
エリザベートは小さく笑った。
「殿下?」
「なんでもないわ」
けれど。
その日の午後になっても。
アリーゼという名前が頭から離れなかった。
◇
夜。
エリザベートは一人で窓辺に立っていた。
ルーヴェンの街明かりが。
遠くまで広がっている。
「私も……変われるのかしら」
婚約を失った。
自分の価値まで否定されたような気がした。
けれど。
異国で商売を始めた女性がいる。
アリーゼという女性が。
同じように傷つきながら。
前を向いて歩いている。
「……会ってみたい」
自然に。
その言葉が口からこぼれた。
「どんな人なのかしら」
強い人なのだろうか。
優しい人なのだろうか。
それとも。
自分と同じように。
本当は泣きたいのに。
無理をして笑っている人なのだろうか。
「少しだけ……話してみたいわ」
そのとき。
「エリザベート」
「……兄上?」
振り返ると。
扉のところにアーサーが立っていた。
「こんな時間まで起きていたのか」
「ええ。少し考え事をしていたの」
アーサーは妹の顔を見る。
そして。
「アリーゼ嬢のことか?」
「……どうして知っているの?」
「フローレンスから聞いた」
「そう……」
アーサーは小さく笑った。
「お前が自分から誰かに会いたいと言うなんて、珍しいからな」
エリザベートは少しだけ視線を逸らした。
「あの方と話してみたいの」
「なぜ?」
「きっと……私たちにしか分からないことがあると思うから」
婚約を失った痛み。
居場所を変える決意。
そして。
自分自身の力で未来を切り開こうとする気持ち。
それは。
きっと彼女にもある。
アーサーはしばらく妹を見つめていた。
「……そうか」
そして。
「そういえば、エドガルドも最近、アリーゼ嬢とよく一緒にいるらしいぞ」
「……エドガルドが?」
エリザベートが振り返る。
「……どうして?」
「商談や学院での交流があるらしい」
「そう……」
なぜだろう。
胸の奥が。
ほんの少しだけざわついた。
アーサーが意味ありげに笑う。
「エドガルドが気になるのか?」
「ち、違うわ!」
思わず声を上げてしまう。
「ただ……幼馴染だから、少し意外だっただけよ」
「そうか、そうか」
「……その笑い方、嫌だわ」
「いや。面白いと思っただけだ」
アーサーは笑いながら部屋を出ていく。
一人残されたエリザベートは。
「……エドガルドが、アリーゼと……」
なぜか。
その名前が。
胸に引っかかった。
けれど。
「……違うわ」
エリザベートは首を振る。
「……エドガルドが、アリーゼ様と」
なぜだろう。
その事実が、少しだけ気になった。
けれど。
それが何を意味するのか。
今のエリザベートには、まだ分からなかった。
「……私は、ただアリーゼ様に会ってみたいだけ」
そう自分に言い聞かせる。
けれど。
なぜか胸の奥は、少しだけ落ち着かなかった。




