第十八話 「あなたとなら、この商売ができる」
翌朝。
私はいつもより早く目を覚ました。
「……眠れなかった」
昨夜から、胸がずっと落ち着かない。
昨日、自分の考えた商品が売れた。
ほんの小さな成功だった。
けれど。
私にとっては、大きな一歩だった。
鏡の前で髪を整えながら、私は小さく笑う。
「今日も頑張ろう」
以前なら。
朝起きた瞬間から、王太子妃としての予定を確認していた。
今日は何を勉強するのか。
どんな仕事を任されるのか。
ランスロット殿下のために、何を準備しなければならないのか。
そんなことばかり考えていた。
けれど、今は違う。
今日は何を学べるのだろう。
どんな商品に出会えるだろう。
どんな人と話せるだろう。
そう考えるだけで、胸が弾む。
◇
学院へ着くと。
「アリーゼさん!」
声をかけられた。
振り返る。
昨日、商業の授業で一緒だった令嬢たちが立っていた。
「おはようございます」
「おはよう」
一人の令嬢が私の腕を取る。
「ねえ、本当なの?」
「何がですか?」
「昨日のお茶」
「……お茶?」
「ベルガリアのお茶よ」
彼女は目を輝かせている。
「あなたが売り方を考えたって聞いたわ」
「ええ……まあ」
「昨日、母が買ってきたの!」
「本当ですか?」
「ええ。すごく香りが良かったわ」
「ありがとうございます」
別の令嬢が笑った。
「あなた、本当に商売が好きなのね」
そう言われて。
私は少し照れた。
「はい」
素直に答える。
「最近、とても楽しいと思うようになりました」
「へえ……」
令嬢たちの目が変わった。
以前は。
「ベルガリアから来た公爵令嬢」
「元王太子妃候補」
そんな目で見られていた。
でも今は。
「商売に詳しい令嬢」
「外国語が上手な留学生」
そんなふうに見てもらえている気がする。
それが、嬉しかった。
「アリーゼさん」
すると。
昨日、私に嫌味を言った茶髪の令嬢が近づいてきた。
「……あなた」
「おはようございます」
「昨日のことだけど」
「はい」
彼女は少し言いにくそうにしている。
「……あの」
「はい?」
「とても美味しかったわ」
「ありがとうございます」
「それから……」
彼女は少しだけ視線を逸らした。
「昨日は失礼なことを言って、ごめんなさい」
「……」
私は驚いた。
まさか謝られるとは思っていなかった。
「気にしていません」
「本当に?」
「はい」
私は笑った。
「私も、昨日までは商売のことをこんなに好きになるなんて思っていませんでしたから」
「そう……」
令嬢は少しだけ笑った。
「私、シャルロット=ヴァレンヌよ」
「アリーゼ=アントワープです」
「知っているわ」
「ふふっ」
「……笑わないで」
「ごめんなさい」
シャルロットは頬を膨らませた。
「でも、また商売の話を聞かせてほしいわ」
「もちろんです」
こうして。
私には、ルーヴェンで初めて新しい友人ができた。
◇
昼休み。
私は学院の中庭で昼食を取っていた。
すると。
「アリーゼ嬢」
「エドガルド様?」
エドガルド様がやってきた。
「午後、少し時間をいただけますか?」
「もちろんです」
「先日の商会から、正式に相談したいことがあるそうです」
「……!」
胸が高鳴った。
「また商談ですか?」
「はい」
「分かりました」
私は思わず笑ってしまう。
「楽しみです」
「……本当に商売が好きになったのですね」
「はい」
自分でも驚くほど、自然に答えていた。
エドガルド様も笑う。
「では、午後に迎えに来ます」
「よろしくお願いします」
彼が去っていく。
私はその背中を見送った。
「……不思議」
なぜだろう。
エドガルド様に「一緒に商売をしましょう」と言われると。
胸が少しだけ温かくなる。
◇
午後。
私たちは、先日の商会を訪れた。
「お待ちしておりました」
商会長が笑顔で出迎えてくれる。
「先日の商品ですが」
「はい」
「予想以上の売れ行きでした」
「本当ですか?」
「ええ」
商会長は一枚の帳簿を見せてくれた。
「試験販売の予定でしたが、すでに追加注文が入っています」
「……!」
私は思わず身を乗り出した。
「こんなに?」
「ええ」
胸が熱くなる。
私の提案したものが。
知らない国で。
知らない人たちに受け入れられている。
それが嬉しくて仕方なかった。
「そこで」
商会長が言った。
「一つ、ご相談があります」
「何でしょう?」
「ベルガリアから、別の商品を仕入れたいのです」
「……!」
「あなたの公爵領には、他にも特産品がありますよね?」
「はい」
「それらをルーヴェンで販売したい」
私は思わずエドガルド様を見る。
彼は頷いた。
「ぜひ、話を聞いてみてください」
私は商会長に向き直る。
「分かりました」
商談が始まった。
提示された金額。
輸送費。
関税。
販売価格。
生産量。
私は一つずつ確認していく。
そして。
「……申し訳ありません」
「何か問題がありますか?」
「この条件では、少し難しいと思います」
商会長が眉を上げた。
「価格が高すぎますか?」
「いいえ」
私は首を横に振る。
「むしろ逆です」
「逆?」
「この価格では、私の領地の生産者が長く生産を続けられません」
商会長が黙った。
「確かに、ルーヴェン側には利益があります」
私は資料を指差した。
「ですが、生産者の利益が少なすぎます」
「……」
「一度だけ大きく売るのではなく、何年も続けられる取引にしたいです」
商会長が私を見る。
「あなたは……」
「はい?」
「商売人なのですか?」
「……まだ勉強中です」
私は少し恥ずかしくなった。
「ですが、私の領地の人たちが作ったものですから」
その言葉に。
商会長は静かに頷いた。
「なるほど」
しばらく考えたあと。
「では、条件を変えましょう」
「え?」
「輸送費はこちらが一部負担します」
「ですが、それでは商会の利益が――」
「構いません」
商会長が笑った。
「長く取引したいのはこちらも同じですから」
私は目を見開いた。
「……ありがとうございます」
「こちらこそ」
商談は成立した。
◇
商会を出る。
夕暮れの街を歩きながら、私は何度も先ほどの商談を思い返していた。
「……終わりました」
「ええ」
「本当に、成立したんですよね?」
「はい」
「私が話をして?」
「そうです」
私は胸に手を当てた。
「なんだか……夢みたいです」
「夢ではありませんよ」
エドガルド様が笑う。
「あなたが自分で掴んだ結果です」
「……」
その言葉に。
胸が熱くなった。
「私……」
少しだけ考える。
「今まで、自分に何ができるのか分かりませんでした」
「はい」
「王太子妃になるために勉強して」
「……」
「役に立つことが、私の価値だと思っていたんです」
エドガルド様は黙って聞いている。
「でも」
私は顔を上げた。
「今日、少しだけ分かった気がします」
「何がですか?」
「私は……私のままで、誰かの役に立てるんですね」
エドガルド様の表情が柔らかくなる。
「ええ」
短い返事だった。
でも。
その言葉が、心に残った。
「あなたは、誰かの妻になるためだけに生きる必要はありません」
「……」
「あなた自身の人生を選んでいい」
胸が震えた。
その言葉は。
今の私にとって、何よりも嬉しい言葉だった。
「ありがとうございます」
「礼を言われることではありません」
「それでも……」
私は笑った。
「嬉しいです」
エドガルド様が少しだけ目を細める。
「……では」
「はい?」
「これからも、私と一緒に商売をしてくれませんか?」
心臓が跳ねた。
「私と……?」
「ええ」
「……」
「あなたとなら、面白い商売ができそうです」
私は思わず笑ってしまった。
「はい」
気がつけば。
自然に答えていた。
「ぜひ、一緒にやらせてください」
◇
その夜。
私は部屋に戻ると、手帳を開いた。
『今日は商談が成立した』
『領地の人たちのために、条件を交渉した』
『私の考えを認めてもらえた』
そして。
少し迷ってから。
『エドガルド様から、一緒に商売をしようと言われた』
そこまで書いて。
私はペンを止めた。
「……どうして、こんなに嬉しいのかしら」
頬が少し熱くなる。
「……変なの」
私は慌ててページを閉じた。
◇
一方。
ベルガリア王国。
王太子宮。
「……五人、ですか?」
ランスロットが目を丸くしていた。
「はい」
目の前にはレオポルドが立っている。
「アリーゼ嬢が抜けたことで、王太子宮の事務処理に負担が生じています」
「そうだな」
「そこで、事務官を五名増員します」
「五人も?」
「はい」
レオポルドは淡々と答えた。
「一人ですべてを処理していたから大変だったのです」
「……」
「仕事を分担すれば問題ありません」
ランスロットは机の上の書類を見る。
確かに。
以前は、アリーゼがほとんど一人で処理していた。
だが。
それを五人で分担すれば。
「……そうか」
ランスロットの表情が少し明るくなった。
「それなら、アリーゼがいなくても大丈夫なのだな」
「はい」
レオポルドは微笑んだ。
「問題ありません」
「そうか……」
ランスロットはほっとしたように息を吐く。
「なら、安心した」
その言葉を聞いて。
レオポルドは頭を下げた。
「お任せください」
◇
その日の午後。
五人の事務官が王太子宮へ入った。
「本日より、王太子宮で勤務させていただきます」
「よろしく頼む」
ランスロットは事務官たちを見回した。
皆、礼儀正しく、書類の整理も的確だった。
「……優秀だな」
ランスロットが感心する。
「ありがとうございます」
「これなら問題なさそうだ」
レオポルドが笑う。
「はい」
ランスロットは椅子に座った。
「アリーゼがいなくても、王太子宮は回る」
「その通りです」
レオポルドは答えた。
「人手が足りなかっただけです」
「……そうだったのか」
ランスロットは納得したように頷いた。
「ならば、もう心配する必要はないな」
「はい」
レオポルドは微笑んだ。
そして。
ランスロットには見えない角度で。
事務官たちと一瞬だけ視線を交わした。
五人とも。
小さく頷く。
彼らは、ただの事務官ではない。
その目には、王太子に仕える者としての忠誠ではなく。
別の主に仕える者だけが見せる、冷たい光があった。
レオポルドが選び。
父、マルクスの指示を受けて王太子宮へ送り込んだ者たちだった。
だが。
その事実を。
ランスロットは知らない。
◇
その日の夜。
宰相執務室。
「五人とも、無事に入れました」
レオポルドが報告した。
「そうか」
マルクスは満足そうに頷く。
「王太子殿下は?」
「完全に安心されています」
「それは結構」
マルクスは笑った。
「人は、自分が安心した瞬間に最も隙が生まれる」
「はい」
レオポルドも頷いた。
「王太子宮の重要な書類は、これから少しずつこちらへ流せます」
「急ぐ必要はない」
マルクスは静かに言った。
「まずは、王宮の温室の庭師を替えろ」
「承知しました」
「王太子殿下には、詳しく説明せずに了承させろ」
「はい」
レオポルドは迷いなく答えた。
「殿下には、最後まで気づかせません」
マルクスは不気味に笑った。
「それでいい」
◇
翌日。
王太子宮。
「ランスロット様」
シャルミナが微笑んでいた。
「今日はお疲れではありませんか?」
「ああ……少しな」
ランスロットは疲れたように椅子へ座っている。
だが。
以前ほどの不安はなかった。
「でも、大丈夫だ」
「まあ」
「事務官が増えたからな」
ランスロットは笑った。
「これなら、もう問題ない」
シャルミナも微笑む。
「それは良かったです」
「アリーゼがいなくても、王太子宮はちゃんと回る」
「はい、私もできるだけお手伝いします」
シャルミナは頷いた。
その言葉を。
ランスロットは疑わなかった。
そして。
誰も知らなかった。
王太子宮を支えている五人が。
すでに、別の誰かの手の中にいることを。
◇
その頃。
私は、また学院へ向かう馬車の中にいた。
窓の外には、ルーヴェンの街並み。
昨日まで知らなかった景色が。
今では少しずつ、身近なものになっている。
私は手帳を開いた。
『私は、私の人生を選んでいい』
昨日、エドガルド様に言われた言葉を書き写した。
そして、その下に。
『今日も、新しいことを知ろう』
そう書いた。
ペンを置く。
私は笑った。
もう、怖くない。
王太子妃になれなかったことも。
婚約を失ったことも。
今では、過去のことになりつつある。
私には。
これから選べる未来がある。
そのことが。
何よりも嬉しかった。




