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後宮の香女官は彼方を想う  作者: 鈴木しぐれ
第2章 沈丁花を見つけるとき
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第2章-3

 香蘭をまどろみの中から引き揚げたのは、甘い香りだった。


「香蘭さん、いらっしゃいますか」


 部屋の外から玲玲の声が聞こえてきた。牀から体を起こして戸を開けると、どこか嬉しそうな玲玲と目が合った。


「皆さんでお菓子を食べませんか」


 玲玲は香蘭が頷く前に手を引いて歩きはじめる。部屋まで届く甘い香りに香蘭は心が浮き立つのを感じていた。菓子は基本高価なもので滅多に口にできるものではない。


「遅いぞ」

 執務室に入ると、勇雲に短く非難された。明龍、勇雲、小鈴も揃っていて、いないのは香蘭だけだったらしい。


『遅くなって申し訳ありません』

「構わない。休めと言った後で呼び立てたのだから」


 明龍は特に気にした様子はなかったが、勇雲が不満げな表情でちらりと香蘭を見やった。


「殿下の命ならばいつでも駆けつけるのが配下の者の務めでございます」


 言葉と視線自体は明龍に向けられたものだが、香蘭へ釘を刺しているのは明らかだ。わずかに空気がひりつく。


「ねえー、早く食べようよー」

 しかし、小鈴の待ちきれない可愛らしい声に吹き飛ばされた。


「はいはい。ちょっと待ってね」


 卓には菓子と茶が人数分用意されていた。皿に二種類の菓子がちょこんと行儀よく並んでいる。席につくと、ふわりと甘い香りが鼻をくすぐる。


「じゃあ、一応説明いたしますね。右側にあるのが桂花餅(けいかもち)、金木犀を練り込んだ香り高い餅です。左側が鳳梨酥(ほうりそ)、鳳梨を餡として使った焼き菓子です」

「随分と豪華な並びだな、勇雲が用意したのか」


 明龍の言う通り、桂花は茶や香にも使われる人気の高い花ゆえ、菓子に練り込むほど使うのは贅沢だ。鳳梨――パイナップル――は産地が限られるためなかなか手に入らない。


「いえ、私が作りました」

 誇らしげに玲玲が胸を張って答えた。香蘭は驚いて、早く伝えたくて走り書きを玲玲に見せる。


『すごい……!』

「えへへ、ありがとうございます。お菓子が好きすぎて、自分で作ったほうが早いと思って、いろいろ習得しました」

「姐姐の作るお菓子はすっごくおいしいんだよ」


 玲玲が褒められているのを見て、小鈴も同じように胸を張る。姉が褒められていると自分まで嬉しくなる気持ちは香蘭にもよくわかる。笑顔で小鈴に頷き返すと、小鈴はさらに誇らしそうだった。


「えっへん」


 威張らないの、と小鈴をたしなめつつも玲玲は嬉しそうだ。そして、明龍へ必要な説明を追加した。


「殿下にもお出ししたいと勇雲殿に相談したら、食材を揃えてくださいました」

「殿下の口に入るものであれば、最高級のものをとご用意したまでです」

「貴重な食材をふんだんに使えて幸せでしたあ」


 玲玲は頬に手を当ててうっとりとした表情を浮かべた。明龍は苦笑いをしつつ、勇雲へ一言たしなめた。


「ほどほどにするように」

「はっ。……もちろん作っている過程はそばで見張っておりましたので、毒の心配はございません」

「せっかくのお菓子に毒なんて入れません!」


 玲玲が間髪入れずに反論していたが、そこは主君の食事に毒は入れない、と言うべきところでは、と香蘭は一人はらはらした気持ちで明龍を見つめる。


「必要ないがな」


 明龍はそれだけ返した。毒には慣らしてあるから効かないと以前話していた。それに、毒を入れていないという玲玲の言葉に嘘がないと明龍の耳はわかっているのだから、警戒をする必要もないのだろう。


「ふふふ、おいしい~」

 話をしている間に、小鈴が一足早く桂花餅を頬張っていた。


「こら、先に食べないの」

「だって、お話長いんだもん」

「それは……そうね、ごめんね。では、改めまして皆さんお召し上がりください」

 玲玲の言葉を合図に香蘭たちも菓子に手を伸ばした。


 桂花餅は、その名の通り金木犀の花と同じ、橙色と黄色の間の鮮やかな色をしていて、華やかな香りが一口食べたらふわりと広がる。その香りと餅の甘さで、意識せずとも顔がほころぶ。


「気に入っていただけましたか」

『ええ、とても美味しい。玲玲はすごい』


 紙へ書き付けながら、香蘭は玲玲に向けて何度も頷く。本当にとても美味しくて、こんなに素敵なものを作ることのできる玲玲を尊敬する。


「ありがとうございます――うん? どうしたの小鈴」

 すでに鳳梨酥を食べはじめている小鈴が、玲玲の服の裾を引いていた。


「なんでお菓子ってこんなに甘いの? なんで?」

 小鈴のなんでなんでが発動したようだ。玲玲はうーん、と少し悩んでから答える。


「鳳梨そのものが甘いし、蜂蜜も使ったからね」

「なんでなんで」

「熱を加えて煮詰めていくと甘さが凝縮されて……ってそういうことじゃないか。えっとね、私が心を込めて作ったから、かな」

「そっか!」


 小鈴は満足したように再び鳳梨酥を口に頬張った。玲玲は少し困ったように肩をすくめた。


『本当に、玲玲の心がこもっていて美味しい』

「喜んでいただけてよかったです。香蘭さんのために作ったので」

「何? 殿下のためではないのか」


 玲玲の言葉に、にこにこと嬉しそうに菓子を口にしていた勇雲があからさまに嫌そうな視線を向けてきた。玲玲はその視線を躱して香蘭の手を取って答えた。


「皇帝陛下からのご命令を受けて、急に後宮からこちらへ移動なさって、緊張なさっていたので。少しでも気晴らしになればと思ったんです」


 玲玲の気遣いが温かくて、香蘭は自然と笑顔になった。手を取ってくれている玲玲の手をぎゅっと握り返した。そして、筆に持ち替えて丁寧に文字を書いた。


『ありがとう、玲玲』

「いえ、とんでもございません」


 玲玲ははにかみながら香蘭の礼を受け取った。そのやり取りを見ていた明龍は、茶を一口飲むと満足そうに口を開いた。すでに彼の皿には菓子はなくなっていた。


「玲玲、かなりの腕だ。また作ってくれ」

「は、はい! もちろんです」


 皇太子からの賞賛の言葉をもらい、照れ隠しのように自分の作った桂花餅を口に運んでいた。二口、三口と食べたところでもまだ視線が注がれていることに、気まずくなったのか、玲玲はそういえばと話し出した。


「そういえば、沈婕妤様の幽霊の話はご存知ですか」

 唐突に執務室の空気が鋭くなる。調査をはじめたばかりのその名が玲玲の口から出てくることに驚きを隠せない。


「なぜ、それを知っているんだ」

「今、一番話題の怪談ですもの!」


 玲玲が幼子のように目を輝かせてそう言った。予想していなかった返しに、明龍も勇雲も一瞬固まってしまう。香蘭も一拍置いてから、書き付ける。


『玲玲は怪談が好きなの?』

「はい、とても」

「何というか、対照的な趣味だな」


 勇雲が言葉を選びつつ、結果あまり選んでいない感想を述べていた。玲玲はにっこりと笑って返す。


「甘いのも怖いのも、大好きですよ」

「玲玲、沈婕妤様の幽霊の話、聞かせてくれ」

 明龍が静かに命令を下すようにそう言った。玲玲は少し緊張した面持ちで、しかし慣れた様子で話し出した。


「――血の雨が、眠っていた沈婕妤様を起こしてしまった……。沈婕妤様は夜な夜な宮廷を歩き回り、道ずれにする人を探している。だから、夜歩きにはお気をつけて……。池に映った自分の顔の横に、彼女の姿があったのなら、振り返ってはならない。目が合えば……そのときは……」


「キャーー」


 小鈴のつんざくような悲鳴が執務室に響いた。顔をくしゃくしゃにさせて、玲玲から逃げるように香蘭にしがみついてきた。


「こわい話、きらい……」


 そう不満そうな声で言い、香蘭の服をぎゅっと掴んでいる。どうやら、玲玲が話し慣れているのは小鈴を相手に怖がらせているからのようだ。


 香蘭は小鈴の頭を優しく撫でて、もう大丈夫だと書き付けて伝える。小鈴はほっとした表情を浮かべた。


『玲玲、小鈴のいるところでの怖い話はほどほどにね』

「うう、はい。気をつけます」


 香蘭がたしなめると、玲玲はしゅんと落ち込みつつも素直に頷いた。


『わたしが代わりに聞くから』

「本当ですか! ありがとうございます」


 途端に笑顔に戻る玲玲は、可愛らしい。明龍の前では一番の笑みを浮かべる勇雲と少し似ているかもしれない。


「……勇雲と玲玲は似ているな」


 ぼそりと呟いた明龍の言葉に、香蘭は自分と同じことを考えていたと、驚きの表情を浮かべる。そして、香蘭は目が合った明龍へ頷き返した。明龍はふっと表情を緩めた。


 それが彼の笑顔なのだと気がつくのに少し時間がかかった。


 明龍はすぐに眉間に皺の寄った険しい顔に戻ると玲玲に尋ねた。


「その怪談は、玲玲が作ったものか。それとも広く知られている噂か」

「あちこちで聞いた話を繋げたものです」

「沈婕妤本人のことは何か知っているか」

「いいえ。お会いしたことはございませんので」


 明龍は考え込んでいる。思っている以上に、噂の広まりが速い。噂が広がっていると、混乱を招く可能性もあるが、情報が集まりやすいとも言える。


「殿下」

 勇雲が短く、今後の動きについて指示を仰いだ。


「できるだけ早く文官に話を聞けるよう、手配を」

「はっ」

 緊迫した空気に、玲玲は不安そうな声を上げる。


「あの、私、何か余計なことを申しましたか……」

「いや、むしろ有益だ。何かあれば知らせてくれ」

「承知いたしました」


 玲玲は戸惑いつつも拱手を持って答えていた。調査に玲玲も加わると同義だ。明龍の中できっと玲玲は結果を出した人物となったのだろうと推測できた。菓子の腕も、情報収集の腕も。


 香蘭は鳳梨酥の最後の一口を味わって食べる。


 ――うん、やっぱりとても美味しい


 玲玲が香蘭の世話係になったのはついさっきのことだが、玲玲が認められたことが自分のことのように嬉しく思えた。


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