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後宮の香女官は彼方を想う  作者: 鈴木しぐれ
第2章 沈丁花を見つけるとき
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第2章-2

 まずは、突き落されかけた文官に話を聞きに行くこととなり、その道中で池にも寄ることにした。沈婕妤の姿が目撃された場所だ。水が澄んでいて水草がゆらりと揺れる様子が見えて、水面では陽光を跳ね返してキラキラと水そのものが輝いているようだ。


――この香りは、何?


 まだ少し茉莉花の香りが確認できる。それともう一つかすかに、本当にかすかに別の香りが残っている。細い糸のような残り香を手繰り寄せようとするが、上手く掴めない。


「この池は元々あったものを利用しているから、中央はかなり深いはずだ」

「はい。岩も天然のままらしいので、打ち所が悪ければ……」


 勇雲はその先を言わなかったが、後ろから突き落とされたなら、岩にぶつけて即死か溺れての溺死か、どちらにしても命が脅かされるだろう。


「ある程度埋めるか、柵を設置してもいいかもしれないな」

「指示を出しておきますか」

「いや、この件が収まってからがいいだろう。僵尸が人を突き落そうとするなら、作業をする者が危険だ。ここへは近づかないよう触れを出せ」

「はっ」


 よく見ているし、対策を考える早さも実行の時期を見極める判断も、さすがは未来の皇帝といったところか。もしくは明龍自身の性格か。香蘭は二人のやり取りを一歩下がって聞いていた。


 明龍が香蘭に視線を向けて何か手掛かりは、と問うてきたが、香蘭は首を横に振る。今ここでわかるのは茉莉花の香りだけだ。


「文官に話を聞きに行こう」


 襲われたという文官の元へ向かう。勇雲によって事前に訪問を知らせていたのだが、本人は現れなかった。代わりに隣の部屋の同僚だという文官がやってきた。


「申し訳ございません、殿下。珀静(ハクセイ)は体調を崩しておりまして……。様子を見に行きましたが、とても殿下にお会いできる状態ではございませんでした」

「そうか」


 残念そうではあるが、明龍は一言だけ返していた。隣に立つ香蘭にだけ聞こえるように、小声で教えてくれた。


「嘘はついていない」


 体調不良と嘘をついてわざと出てこないのではなく、本当に寝込んでいるということ。嘘かどうかわかれば、無駄に疑う必要はないのだ。


「お前から見て、珀静とはどのような人物だ?」

 明龍からの問いかけに、文官は恐縮しながらもはきはきとした口調で答える。


「彼は地方の出身で、科挙(かきょ)で宮廷に入った優秀なやつでございます」


 科挙とは、官吏を登用する試験制度のことだ。家柄や身分に関係なく誰でも受けることができ、才能のある者を登用することが目的である。その分、倍率も高くなり、通過した者は官吏としての出世の道を歩み始める。


「彼自身が真面目ですし、意欲もあるので上官も期待を寄せているようです」

「わかった。本人の体調が戻れば改めて話が聞きたいと伝えておいてくれ」

「承知いたしました。……ただ、珀静は恨まれるようなやつじゃありません。ましてや、関わりのない後宮妃になんて」


 途端、明龍がこめかみを押さえながら苦い顔をした。何か言いたげだったが、結局何も言わずにそのまま去る。香蘭は一礼をしてからそのあとを追った。勇雲が心配そうに声をかける。


「殿下」

「……関わりのない、というところだけが嘘だ」


 話している文官の表情に変化はなかった。他の者にはわからないことがわかる、すごいことだと香蘭は思った。だが同時に辛そうだとも感じた。嘘を聞いたときに表情を歪めたこと、それから自分にしか聞こえないという特異性は、誰かに理解を求めるのはきっと難しい。


 ――人が嫌いになるのもわかるかもしれない




 一度、部屋に戻って休むようにと明龍から言われた。明龍自身も私室に戻るようだったから、香蘭はその指示に従った。


「こっちへ」

 勇雲がわざわざ部屋まで案内をしてくれている。


『勇雲殿、とお呼びすればよいでしょうか』

「呼びやすいように」


 書き付けたものを見せれば、にこにことそう返された。笑顔であることは変わらないが、明龍に対したときのほうが笑顔の深さが段違いな気がする。明龍のことを尊敬しているのだと全身から伝わってくるような。

改めて前を歩く勇雲の姿を見て、体格のよさに感嘆する。


『勇雲殿は、武術に通じていらっしゃるのですか』

「……なぜ、そのように思うんだ」

『立派な体格をなさっているので、殿下のそばで武官のような役割も担っていらっしゃるのかと思いまして』


 香蘭の書いた文字を追う勇雲の目が見開かれていくのがわかった。一瞬、表情が凍りついたのは見間違いではないだろう。


「いや、特にはなにも」

 にこやかにそう返されたけれど、勇雲の目の奥は笑っていなかった。


 問い返す前に部屋に到着し、勇雲はそのまま踵を返した。去り際にゆっくり休んでと言われたときにはいつもの笑顔で、先ほどの表情が気のせいだったのかとも思えた。




 香蘭は部屋の戸を開けて思わず息を飲んだ。


 ――すごく綺麗な部屋、いいのかな


 部屋は、一人で過ごすには充分すぎる広さがあり、(ベッド)まで置いてある。薬棚に似た棚も用意されている。香料を整理するのにちょうど使えそうだ。大きく作られた窓は柔らかく光りが差し込んでくる。


 皇太子付きの女官とはこんなにも待遇がよいのかと感心した。だが、すぐに気がついた。以前まで過ごしていた部屋は尚香局の同僚たちによって追いやられた物置部屋で、比較するのも失礼だ。


 ――何だか安心する


 隙間風など通ることはなく、陽光が部屋に差し込む守られた空間だ。香蘭がここにいていいとそう言ってもらえているような心地だった。


 香蘭はふわふわに整えられた牀に腰掛けて、さきほどの文官の言葉に考えを巡らせる。彼の言った『関わりのない』という点が嘘ならば、後宮妃つまり沈婕妤と関わりがあるということなのか。


 後宮妃は、明確に位階制度がある。皇帝の正妻にあたる皇后を頂点とし、四夫人と呼ばれる貴妃(きひ)淑妃(しゅくひ)徳妃(とくひ)賢妃(けんぴ)を冠する四人の上級妃が続く。九嬪と呼ばれる中級妃が文字通り九人、その下に二十七世婦という二十七人の下級妃が続く。


 『婕妤』は二十七世婦に含まれている。この妃の位が常にすべて埋まるわけでもないが、この規定を上回る妃がいる御代もあったらしい。


 いくら下級妃であっても、帝の妃であることは変わりない。他の男性と関係を持つことなんてあり得るのだろうか。そもそも外廷と後宮という絶対に越えられない隔たりがあるというのに、どういうことだろう。


 考え始めたものの、疲れで頭が溶けるようだった。いつの間にか牀に体を預けて眠気に誘われてしまった。


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