第2章-1
反魂香を日常的に使うようになってから、頻繁にみる夢がある。
それは夢をみているのだという自覚がある夢。香蘭はまるで雲の中にいるような、真っ白な世界に立っている。白い世界には反魂香の煙も漂っていた。濃い蜜に、金木犀と雨上がりの香りはこの身に親しんだ安心する香りだ。
――あ、蝶が飛んでいる
反魂香の煙の中を、悠々と飛ぶ蝶の姿があった。蝶は迷うことなく、まっすぐに飛んで見えなくなる。まるで自分が帰るべき場所をわかっているよう。
しかし、夢の中の香蘭はどこへ進んだらいいのかわからない
ふわふわした心地のまま、目が覚める。
*
皇帝への脅迫状の件を調査することになり、それに伴って香蘭は尚香局を離れることとなった。代わりに、皇太子付きの女官という立場を得る。長官には形式的に挨拶をしたが、同僚たちは遠巻きに見ているだけだった。口も手も出して来ない様子に、皇太子付きという立場の重さを思い知る。
――そうか、これからは物を投げられたり、蹴られたりしないんだ
香蘭はそう思い至り、ゆっくりと息を吐く。耐えるしか術がないと思っていた日常から解放されて、息がしやすくなった。隙間風の通る部屋で荷物をまとめて、尚香局に背を向けて歩き出す。
明龍の執務室は、女官が十人は暮らせるほどの広さがあり、壁には庭の風景を絵画のように切り取った、花窓が並んでいる。置いてある調度品はその光沢やわずかに香る檜や紫檀など木材の香りからも、すべてが一級品であることがよくわかる。
執務室には明龍と二人の少女が香蘭を待っていた。
「改めて、よろしく頼む。香蘭」
明龍の呼びかけに、香蘭は拱手をもってそれに答える。続けて、少女たちが香蘭の前に進み出てきた。片方は香蘭と同年代に見える女官らしき少女、そしてもう一人は幼さが目立つ少女だ。
「この者は、君の世話係になる。一緒にいるのが彼女の妹だ」
「はじめまして、香蘭様。玲玲とお呼びくださいませ」
明龍だけでなく、香蘭にまで拱手をもって礼をしながら、玲玲は名乗った。香蘭は思わず首を何度も横に振る。筆談用のものを取り出して慌てて書き付けた。
『わたしはただの女官です。世話係なんて必要ありません』
「皇帝陛下からの命令を遂行することが最優先事項だ。それ以外のことを投げる先が必要になる」
『ですが……』
「口が利けないといろいろと不便なこともあるだろう」
尚香局での同僚たちからの仕打ちのことを言っているのだろう。気遣ってくれていると理解しているが、それを受け取るには申し訳なさが上回ってしまう。自分は皇太子にそこまでしてもらうような者ではない。
香蘭が再び首を横に振ると、明龍はわざとらしく困った顔をして少しだけ黙り込んだ。
「では、玲玲は職を失うということになるな」
「えっ」
思わずといった様子で、玲玲が声を上げた。すぐに、失礼いたしました、と礼をしていたが不安そうな顔のままだ。
香蘭が断ったら、目の前の少女が職を失ってしまう。そうなったら彼女自身も、さっきからずっと彼女の裙を掴んでこちらを見ている妹も、暮らしに困ってしまうのだろう。罪悪感がじわりと香蘭の中に広がっていき、ついには頷くことにした。
『よろしくお願いします』
そう書き付けてみせると、玲玲が表情を明るくさせた。人懐っこい笑みで香蘭にぺこりと頭を下げた。
「彼女は、先回りをして動くから、毎回君から指示を出す必要もない。仲良くやってくれ」
「よろしくお願いいたします、香蘭様」
さすがに様付には違和感しかない。香蘭は、玲玲に向けて書き付けてお願いをした。
『様はやめてください。呼び捨てで構いません』
「ええと、では、香蘭さんとお呼びしますね」
戸惑いつつも、玲玲は折衷案を出してくれた。香蘭は様と呼ばれるよりはまだましだと思い、受け入れると頷いた。
香蘭の耳元に、玲玲が口を寄せて小声で話してきた。
「今回の世話係は、殿下が直々に人選をなさったんです。私も勇雲様からの推薦で殿下にお会いして。私は香蘭さんの二つ下ですが、年齢の近しい者が候補のようで、その中でもかなり熟考されたようです」
玲玲はすっと体を離して、内緒話を楽しむようににっこりと笑った。明龍は、わざわざ世話係を用意するだけでなく、香蘭のことを考えて選んでくれた。香蘭は胸の奥があたたかくなるのを感じた。今まで後宮の冷たさばかりに触れてきたから、それが少しずつ溶けていくような感覚になる。
「何だ、何を話していたんだ」
「私が香蘭さんの二つ年下で歳も近いので、気軽にお話くださいとお伝えを」
嘘ではないが誤魔化した言葉で玲玲は返していた。明龍はそうか、とだけ言って特に気にしていなかった。
「妹の小鈴も一緒にお世話になるのですが、構いませんか……?」
玲玲が裙を握りしめる小さな手を離させて、一歩前に出させた。幼い少女は、香蘭を見上げて元気のいい声を響かせた。
「小鈴です! 七歳です!」
にんまりと笑った顔は、姉の玲玲とよく似ている。どうやら人見知りをしていたわけではなく、こちらをじっと観察、値踏みをしていたようだ。その行動には少し覚えがあった。姉の春香が話している大人たちが春香にとって危険な人物ではないか、とじっと見つめていた。幼い香蘭にとっては自分が姉を守っている心持ちだったのだ。
「お許しいただけますか? もしも幼子が苦手であれば、仕事中は部屋に置いてきますので」
「なんでなんでー、あたしも一緒におしごとするのー!」
頬をぷくっと膨らませて小鈴は不満を訴えている。小動物のような愛らしさで、その場の空気が和んだのを感じた。
『大丈夫です。よろしくね、小鈴』
前半は玲玲に、後半は小鈴に向けて書いて見せた。だが、小鈴は少し警戒している様子だった。置いていく、と言われたことを気にしているようだった。
香蘭は荷物の中から手のひらに収まる小さな巾着袋を取り出した。何の変哲もない白い布で作られたものだが、中身はしっかり詰まっている。
『これをどうぞ』
「なあに?」
小鈴はこてんと首をかしげて、聞いてくる。玲玲が先に気がついて驚いた様子で聞き返してきた。
「匂い袋でございますよね。こんな高価なものをいただくわけには」
「本当だ、いいにおい」
匂い袋に顔を近づけて、小鈴が顔をほころばせた。気持ちを落ち着ける安息香と乳香の欠片が中に入っているから、緊張を解くにはちょうどいいと思ったのだ。
「なんでこんないいにおいがするの? なんで?」
興味津々といった様子で小鈴は香蘭を見上げてきた。筆談で香料の種類を説明することはできるが、それではその少女の疑問を解決できなさそうだ。悩んでいると、玲玲がすかさず答えた。
「香蘭さんはとても香がお上手な方なの。だからいい香りのものを作れるの」
「へえ! すごいね!」
目を輝かせた小鈴に見つめられて、香蘭はつい照れてしまう。玲玲が少し申し訳なさそうに囁いた。
「近頃、小鈴は何でも、なんでなんでと聞いてくるのです。流してもらって構いませんので」
『好奇心旺盛なのは、いいことだと思いますよ』
「恐縮です。……それから、私に対しての敬語は不要でございます。香蘭さん」
『わか、った』
香蘭はいつも通りに書きかけて、筆を留めた。玲玲はわざわざ強めに香蘭の名前を呼んで、様と付けるのをやめたのだから、香蘭も敬語をやめて、と言葉の外で主張していた。そのやんわりとした主張は不快ではなかったから、香蘭はそうすることにした。
「ん。仲良くやれそうで何よりだ」
明龍が軽くそう言ったが、ほっとした表情が一瞬見えて、香蘭はそっと口元に笑みを浮かべた。やはりこの人は優しい人だ。
「さて、顔合わせは済んだから、玲玲は香蘭の部屋を整えておいてくれ」
「はい。かしこまりました」
玲玲は揖礼をしてから、小鈴を連れて執務室を後にした。さりげなく香蘭が持ってきた大きな荷物も運んでいってくれた。
「玲玲は、俺たちが皇帝陛下からの命令を受けていることは知っているが、内容は知らないし、知らせないように」
『かしこまりました』
「では、脅迫状の犯人をどう捜すか、の方針を決めておこうと思う」
執務室に香蘭と明龍だけとなり、明龍の切り出しで空気がぴりっと締まった。そのために、香蘭はここに来たのだ。気を引き締めて筆を持つ手に力を込める。
『血の雨、そして脅迫状から茉莉花の香りがしました。手掛かりになるかと思います』
茉莉花は甘く華やかな濃い香りが特徴で、ものによっては動物性のエキゾチックな香りも同居していて複雑さもある。
「ふむ、茉莉花の香りか。茉莉花茶と同じものか?」
『元は同じものです。ですが脅迫状から香ったのは香料そのものに近いので、お茶よりも強い香りと思ってくださって構いません』
「なるほど。証言を集めてみよう。それから――」
明龍が方針を続けようして、言葉を止めた。執務室に向かってくる勢いのいい足音が聞こえてきた。明龍は、戸の向こうから声がかかる前にこちらから声をかけた。
「勇雲、入れ」
「はっ」
戸が開かれると、本当に勇雲が立っていた。足音だけで判断していたことに香蘭は驚いた。
「あの勢いで執務室に来るやつは、こいつしかいないからな」
明龍は肩をすくめながらそう教えてくれた。勇雲は、指示を待つ犬のようにそわそわと話すタイミングを窺っている。明龍が一つ頷くと、勇雲は手元の走り書きを見ながら報告を始めた。
「一年前に亡くなった下級妃の幽霊が目撃されたという報告がいくつか上がってきました。文官を池に突き落そうとしており、人が駆け付けるといなくなるそうです」
「文官を? 外廷に下級妃の幽霊が出たのか」
宮廷は、内廷――後宮と外廷に分けられる。ここは外廷にあたり、皇太子である明龍や、官吏たちが政務を行う場だ。対して後宮は、皇帝の居所であり、未成年の皇族血縁者と妃たちが暮らし、その暮らしを支えるために香蘭のような女官たちが数多く仕えている。後宮には皇帝以外の男性は入ることはできない。そして外廷に後宮妃が出ることは禁止されている。
血の雨の際には、調査のために特例として明龍は後宮に出入りをしていた。調査の目的があり、皇太子という身分であるから許可が出たのだろう。ああいう事件では、規則はいいから解決をしてほしいと、後宮妃や女官の側から願い出ることも多い。
「いや、そもそも幽霊――魂は視認できるものなのか」
『反魂香を使う以外では、見ることはできないはずです』
香蘭は明龍の問いに答えた。明龍は腕を組んで考え込んでいて、報告途中の勇雲は様子を窺っているようだ。
「亡くなった妃が目撃されている、つまりまた魄が動いたということか。それで幽霊が出たと噂になっていると」
香蘭は背筋がぞっと震えた。魄が動くという特徴は血の雨と脅迫状の二つの事件と、共通している。こんなにすぐにまた同じことが起こっていることに恐ろしさを感じる。
「魄から話を聞くことはできないのか」
香蘭は怖さを押し込めて、明龍の問いに首を横に振った。
『魄は魂が抜けたあとの殻のようなもので、話はできません。動いていること自体が異常です。――もしかしたら、僵尸と言ったほうが合うかもしれません』
香蘭はかつて伯母から聞いた言葉を思い出し、口にした。
「僵尸?」
『まるで生きているかのように動く死体のことです。大地の精気を吸って自然と成ることもあるそうです』
明龍はわずかに首を傾げた。
「ならば、自然現象で生まれたものが脅迫状を? 信じがたいな」
『自然と成る場合と、人為的な場合があります。地方で出稼ぎに出た者が亡くなったとき、遺体をその人の家まで運ぶ方法として、遺体を自分で歩かせる術が存在します。今回はこちらかと』
明龍はなるほどと唸るように頷いている。勇雲も大きな体を縮めながら香蘭が書き付けたものを覗きこむ。僵尸、と小さく繰り返すように呟いてから言った。
「関係あるかはわかりませんが、甘い花のような、茶に似た香りがしたとの報告もありました」
香蘭は思わず目を見開いた。茉莉花の香りのことに違いない。明龍は香蘭の言わんとすることを受け取り、頷いてから勇雲へ問いかけた。
「その妃の名は?」
「沈婕妤様です」




