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後宮の香女官は彼方を想う  作者: 鈴木しぐれ
第5章 龍の隣に立つとき
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第5章-3


「ああ、そうだわ。あんたの魄を使うわ」


 倉庫の中に弾んだ胡姫の声が響いた。香蘭が話せなくなってから、ずっと沈黙であったのに、急にそう言いだして香蘭は訝しく胡姫を見る。


「あんたがあの官吏の姿に気がつかなければ、計画通りに進んだはずだったのよ。あんたのせいで計画が崩れたの。それくらい償ってもらわないと」


 香蘭は一歩ずつこちらに近づいてくる胡姫から後ずさる。木材のわずかな亀裂から外の光が視える倉庫の壁を、縛られた手で何度も叩く。外に音が聞こえるように、壁をどうにか壊して外に出られないかと、手が痺れるくらいに何度も叩いた。


「あんたの姿なら皇太子にも近づけるし、皇帝とも話せるのでしょう? はじめからこうすればよかったのね」


 抵抗したもののまた顎を掴まれて、喉に流し込まれてしまう。茉莉花の香りの液体を無理やり飲まされた。意識がぐらつく。手と足の拘束が解かれいくが、飲まされたものの影響か、力が入らない。


「特別に内側から見せてあげるわ。あんたの魄を使って、あたしが復讐するところをね」


 香蘭は意識を完全に失うことはなく、紗がかかったようなぼんやりとした視界になる。目の高さに手が上がり、閉じたり開いたりする自分の手が見える。だが、動かしているのは自分の意志ではない。


 ――嘘、勝手に体が動いている


 香蘭の姿をした胡姫が、倉庫から出た。すでに陽が傾き、周囲は橙色に染まっている。

歩いていると前から明龍が辺りを見回しながら、こちらに向かってくるのが見えた。胡姫は急に走り出して、息を切らしているふりをして、明龍に駆け寄った。


「香蘭、無事だったか……!」


 明龍の安堵の表情が向けられているが、それは香蘭の姿をした胡姫に向いているのだ。香蘭は、必死に体を動かそうとするが、自分の意志ではまったく動いてくれない。


 胡姫は頷いてから、怖かったとでもいうように体を震わせて、明龍にしなだれかかった。明龍は驚いた様子だったが、慰めるように胡姫の肩をしっかりと腕で抱きとめた。香蘭は胸が苦しくなるのを感じた。明龍が触れているのは、香蘭であって香蘭ではない。


「香蘭、地面に枝で書くので構わないから、どこに捕らわれていたか教えてもらえるか。すぐに人を向かわせる。小鈴もいなくなっているんだ」


 胡姫は、ふるふると首を横に振って何も答えようとしなかった。香蘭自身は、今すぐ倉庫へ行って小鈴を助けてほしいのだが、なすすべがない。


「だいたいの方向だけでもいい。実は皇帝陛下の体調が思わしくないんだ。見舞いにも行かなければならない」


 皇帝の体調がよくないことは心配だが、それをよりにもよって胡姫に知らせてしまったことに、香蘭は顔面蒼白になった。外から見れば、むしろ香蘭の顔をした胡姫の顔色はよくなっているのだろうか。


 怖いと、なおも胡姫は明龍にしがみついた。上目遣いでわざとらしく見上げていて、明龍は戸惑った表情を浮かべている。だが、明龍の大きな手が目の前にやってきて、頭を優しく撫でられた。


「……で、お前は誰だ」


 突然、冷え切った声が降ってきて、撫でていたはずの手が頭ごと掴んで上を向かされた。氷のような冷ややかな表情で見下ろされていて、胡姫の背中が反射的に震えていた。


「お前は香蘭ではない。誰だと聞いている、香蘭をどこへやった」

 胡姫は慌てて明龍から離れると、地面に落ちた枝を拾って書き付けた。


『何を言っているのですか、わたしは香蘭です』

「字が違うな」

『手縄をされていて、上手く書けないのです』


 実際、壁を壊そうと打ち付けていたので、手は痛い。が、そこはもはや問題ではない。明龍は疑っているのではなく、明らかにこの香蘭が別人だと確信して言い切っているのだ。


 ――わたしではないと、気づいてくださっているの


「では、これに答えろ」


 明龍は手振りで、『胡姫はどこにいた?』と聞いてきた。もちろん香蘭にはわかるが、乗っ取った者の以前の記憶までは引き継げないため、胡姫は手振りのことは答えられない。胡姫は顔をしかめていた。


「来い」


 明龍は胡姫の腕を掴むと、連れていこうと足を進める。


「お前が胡姫だな。西方地域の出身で、国を奪われたと思っているのだろうが、あれは合意のもとで――痛ッ」


 胡姫が、明龍の腕を思いっきり噛んで手を振りほどいたのだ。明龍はすぐに再び腕を伸ばすが、唐突に動きが固まってしまった。


「……ッ」


 胡姫は地面に文字を書いていた枝で、自らのつまり香蘭の喉元を刺すぎりぎりに向けていた。近付くなと手で制して、明龍の動きを止める。香蘭の体を人質に取って、胡姫は少しずつ後ずさり、充分な距離を取ってから逃げ出した。






 胡姫は倉庫に駆け戻ると、後ろ手で荒々しく扉を閉めた。香蘭の意識は紗の中から唐突に戻された。ひどい酔い方をしたみたいに頭がくらくらとするが、手足は自分の意志で動く。


「何なのよ! 見破るなんてどんな目してんのよ」


 小鈴の魄に戻ったらしい胡姫が悪態をついていた。明龍にせっかく見つけてもらえたのに、胡姫の居場所も小鈴のことも伝えられなかった。状況は決して良くないのだが、明龍が、香蘭の姿をした胡姫を違うと断言してくれたことは嬉しかった。


 ――早く、殿下のところに帰らなくちゃ


 香蘭は力の入らない自分の体を必死に起こす。ここから出なければならない。扉に手を伸ばすが、胡姫にその腕を弾かれて床に転がされた。背中が痛むが、声は出ない。


「……もう時間がない。これ以上はあいつがもうもたない」


 胡姫は何かを耐えるような表情で呟いた。しかしすぐに非情な顔になって香蘭を見下ろした。


「じきにここも見つかるわね。その魄が役に立たないなら、あんたはもういい。消えて」


 胡姫は茉莉花の香りの液体を、倉庫の床に撒き散らした。強すぎる香りに吐き気がしてくる。


「金木犀は月の樹に咲く花で、不死の意味を持つでしょう? 茉莉花よりもよっぽど、死なない体である魄を扱うのに向いているわよね。まあ、反魂香の本質も知らないあんたでは無理でしょうけど」


 胡姫は、床に火を付けた。茉莉花の液体を巻き込んで徐々に火が広がっていく。香りと煙が合わさって息が苦しくなっている。


「じゃあね」


 胡姫は扉を閉め、外から閂をかける音がした。香蘭は、何とか体を起こして勇雲の魄が入った棺を確かめる。このままここにいては命が危険だと肌に触れる熱さでひしひしと感じる。勇雲の魄は動けない。どうにか外へ出さなければ、急がなくては、と気持ちが急く。


 ――絶対、誰も死なせたくない


 棺の蓋を引きずりながら持ってきて、亀裂のある壁に叩きつける。少しずつ亀裂が広がり、ぎりぎり人が一人通れる大きさまで開けられた。勇雲の魄を持ち上げて隙間に押し込むように外へ出した。だが、もう香蘭の体は力が入らず、床に倒れ込んだ。目の前の隙間から外へ出るだけなのに、それがものすごく遠いものに思えた。


「しっかりしろ!」


 外に、焦った様子でこちらを見る明龍の顔が見えた。力を振り絞って手を伸ばせば、しっかりと握り返され、片手で香蘭の体を救い出した。


「遅くなってすまない」


 横抱きで抱えられていて、明龍の腕の中にすっぽりと香蘭の体が収まっている。大きく息を吸い込めば、綺麗な空気が体の中に入っていく。何度か繰り返して、ようやく呼吸が落ち着いた。火を見て駆けつけた官吏がすばやく消火にあたっている。


 香蘭は動くようになった手で、手振りを使って『胡姫は小鈴』と伝えた。


「ああ、大丈夫だ」

 明龍は力強く香蘭の手を握ってくれた。


「勇雲の遺体も助け出してくれたんだな、ありがとう」


 横たわっている勇雲の体を見て、明龍は悲しみを押し殺した声音で礼を言った。どうやら勇雲の事情は知っているようだが、おそらく思い違いをしている。勇雲本人も死んでいると思っているようだから、無理もない。


 明龍の目を見て、手振りで伝える。


『勇雲殿は、生きています』

「本当か……!?」


 明龍は驚きと、それから泣き出しそうな喜びを顔いっぱいにたたえた。その顔を見て、香蘭は極度の緊張から解放されて、意識を手放した。


 ――蝶がいる


 いつもみる夢だ。濃い蜜に、金木犀と雨あがりの香りのする、白い世界。悠々と飛んでいく蝶は迷うことなくまっすぐに飛ぶ。


 一匹の蝶が香蘭のもとへと飛んでくる。じっと見つめていると、声が聞こえてきた。初めて聞くけれど、ずっと知っていたような声。


「魂を、正しく導いて」


 蝶は魂の象徴の姿といわれる。香蘭の中で何かが、かちりと音を立てて噛み合った。胡姫の言った反魂香の本質が、ここにあるかもしれないと、本能で感じた。


 その蝶に触れようと手を伸ばしたら、強く掴まれた。


『……!』

 

 手を掴まれた感覚で、香蘭は目を覚ました。明龍の腕の中にいて、気を失っていたのはほんの少しの時間だったらしい。

 あの声は反魂香の声だったのかもしれない、とそんな夢心地なことを考える。


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