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後宮の香女官は彼方を想う  作者: 鈴木しぐれ
第5章 龍の隣に立つとき
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第5章-4

「大丈夫か」


 心配そうに降ってくる明龍の声に、香蘭は頷き返した。明龍に支えられながらようやく立ち上がる。


『ありがとうございます、殿下』

「助けにくるのが遅くなってすまない」


 気づけば陽は沈み、空は黒く染まっている。晴れているのに月が見えない。今日は新月らしい。こういう夜は反魂香がよく見えて好きなのだが、おそらく胡姫にとっても動きやすい夜だ。


 少し遅れて、玲玲と勇雲がやってきた。どうやら勇雲が本人の姿に見える術は解けているようで、玲玲からは微妙に距離を取られている。


「二人に事情は話した。胡姫を捕まえ、小鈴を助けるぞ」

「はい」

「はっ」

 明龍はちらりと勇雲の魄を見て、香蘭に尋ねた。


「勇雲の魂を元に戻すことはできるだろうか」

『おそらくは』


 香蘭は先ほどの夢の感覚を思い出して頷いた。推測ではあるが、方法を見つけたからそれを詳しく話そうとして、玲玲の悲鳴のような声に遮られた。


「小鈴!」


 倉庫を捨て、去っていったはずの胡姫がなぜか戻ってきた。


 胡姫は玲玲の声には耳を貸さず、勇雲を――いや、その奥の誰かを食い入るように見ている。そして、焦りを隠さずに誰かに呼びかけた。


「おいっ、生きているか!」


 勇雲ではなく、本来の体の持ち主である胡人がその呼びかけに答えた。


「……姫様、あなたはあなたの道を、いってください」


 力なく笑った後、胡人の気配が、蝋燭の火が消えるようにふっとなくなったのが、香蘭にもわかった。


 途端、胡姫の顔が絶望に覆われた。目を見開き、信じたくないとゆるゆると首を振る。目に涙が滲んだが、それが零れ落ちる前に表情は激しい怒りに飲み込まれた。


「あたしたちから奪ったものを、返せ……!」


 憤怒に満ちた声とともに、胡姫は大量の小瓶を地面に叩きつけた。むせ返るほどの茉莉花の香りが夜の宮廷を包み込む。


「小鈴、待って!」

 逃げようとする胡姫を追いかけて、玲玲が駆けだす。しかし、すぐにその足が止まってしまった。


「ひいっ」


 突然に僵尸が現れた。どこからやってきたのか、何人もぞろぞろと出てくる。香蘭が軟禁されていたときに出現した、正気を失った僵尸だ。重心の定まらない歩き方で、人を目掛けて向かってくる。


 僵尸の群れに紛れるようにして、胡姫は去ってしまった。


「香蘭さん、これは、一体」


 玲玲が戸惑ったように香蘭のもとまで下がってきた。そして、宮廷のあちこちから怒号や悲鳴が聞こえてきた。どうやら僵尸が現れたのはここだけでなく、宮廷全体に及ぶようだ。

 複数の官吏が明龍の姿を見つけて、こちらに駆けてきた。


「僵尸が出現しております」

「避難を進めていますが、人に襲いかかってきます」

「香士殿、どうかお助けください」


 以前、僵尸から助けた見張りの男が香蘭にそう訴えかけた。彼が香蘭のことを教えたのだろう。香蘭ならばこの状況をどうにかできると。


 香蘭は明龍へ手振りで伝える。


『蘭草を使います。部屋に取りに――』

「香蘭さん、香道具はこちらにあります」


 玲玲が自らの近くに置いていた風呂包みを差し出した。香道具と香の一式を持ってきてくれたらしい。手振りはわからないはずの玲玲だが、香蘭が何を考えているのかきちんと読み取ってくれて頼もしい。

 香道具と一緒に筆談用のものも入っていた。香蘭は慣れ親しんだ筆で書き付けた。


『ありがとう』

「いいえ、香蘭さんの役に立つのが私の仕事です」


 にっこりと笑い返してくれた玲玲だが、不安の色が滲み出ている。


『必ず、小鈴を助けるわ』

 今度は、玲玲は声を発さずに顎を引くように頷いた。


 香蘭は蘭草の香を平皿に乗せて、火をつけた。前と同じように手のひらに皿を乗せて、僵尸に届くように勢いよく息を吹きかける。


「わ……」

 桜の葉のような香りに、玲玲が思わず声を零した。僵尸は煙を避けるように離れていった。


「よし、上手くいったか」

 明龍が頷いたが、しばらくしてその眉間にぐっと皺が寄った。


 煙の届かない後方の僵尸が変わらずこちらに向かってくる。その中に、先日、香蘭が軟禁中に現れた僵尸もいた。


 ――蘭草では追い払うことはできても、退治できるわけじゃないってこと?


 香蘭は明龍に手振りですばやく伝えた。


「ああ、そのようだな。騒動の範囲はわかるか」

 前半は香蘭へ、後半は報告に来た官吏たちに向けて言った。


「外廷、そして後宮にも出現している模様です」

「広いな」


 明龍は苦い顔をして呟いた。香蘭は蘭草で僵尸を追い払いつつ、どうすればいいのか考える。


『反魂香で、魂の声を聞きます。おそらく僵尸の近くにいると思いますし、根本を解決しないと危険かと思いますので』

「外廷と後宮のすべての範囲に反魂香を使うのは難しいだろう」


 そう指摘をされて、香蘭はその通りだと俯く。いくら反魂香の煙が濃いとはいえ、そこまでの広範囲では煙が霧散して効果が得られないだろう。


『どうすれば……』

「だから、蘭草をあるだけ用意してくれ」

『蘭草では退けるだけで、話は聞けません……』


「それでいい。蘭草を使って端から内へ僵尸を集めるんだ。できるだけ範囲を狭めてから反魂香を使う。工夫をしたとて、君への負担が大きいことは理解している。いけるか」


 香蘭は明龍にそう問いかけられ、迷うことなく頷いた。多くの人が今まさに危険に晒されているのだ。できるできないではない、反魂香を扱う者として必ずやらなくてはならない。


「玲玲、後宮を頼めるか。皇太子の名を使って構わない。できるだけ早く、被害が出る前にこちらへ誘導したい」

「心得ました」


 得体の知れないものを相手にしても、玲玲は頷いた。明龍を、そして香蘭を信頼してくれているのだ。それに応えなければならない。


「勇雲、お前には外廷を任せる」

「はっ」


 体が別人でも、明龍は勇雲と呼んだ。勇雲は頭を下げてそれに答える。短い言葉のやり取りに二人の間の長い信頼を感じる。


 香蘭は平皿に蘭草を乗せ、予備の蘭草も小袋に入れて渡す。


『玲玲、気をつけて。無理はしないで』

「行って参ります」


 玲玲を見送って、香蘭はもう一つ同じものを用意して、勇雲にも手渡す。だが、勇雲は香蘭の手元を見つめて受け取ろうとしない。どうしたのかと問うように香蘭が首を傾げると、勇雲はようやく口を開いた。


「……申し訳なかった」

『?』

「香士……殿がこの姿を認識できていたから、つい警戒をして、強く当たってしまった。知られてはいけないと、それが第一になっていた」

 勇雲は膝に手をついて、深々と頭を下げた。


「宮廷を、殿下をどうか助けてほしい」

 香蘭は蘭草を勇雲の手に握らせて、筆を走らせた。書き付けた紙を勇雲の目の前に差し出す。


『勇雲殿のことも、助けますから』


 香蘭が笑いかければ、勇雲も力が抜けたように笑い返してくれた。そして、勇雲は真剣な表情になり、他の官吏も連れて外廷の対処に向かった。





「殿下、後宮での僵尸の誘導、完了しました」

「早かったな」

 後宮に駆けていった玲玲が早々に戻ってきた。急いできたのだろう、息があがっている。


「淑妃様がご協力くださいましたので、円滑に進みました。淑妃様から香蘭さんへ、涼雨を助けてくれたように、僵尸を助けてやってほしいとの伝言です」


 香蘭はもちろんだという意を込めて頷いた。だが、少し気になる言葉が含まれていて、筆を取った。


『淑妃様は、僵尸を助けてほしいと仰せだったの?』

「はい。私も気になったのですが、淑妃様によると僵尸が苦しそうに見えた、とのことでした」


 見張りの者が襲われたときには、魄の表情まで確認する余裕はなかった。今も退けることに手一杯だ。もしあのとき、見張りの者に手を伸ばしていたのが襲うためではなく、助けを求めていたと言われればそのようにも思えてきた。


「もうすぐ誘導完了します。準備を」


 蘭草の煙を吹きかけながら、勇雲と官吏たちがこちらに戻ってきた。彼らの前にはたくさんの僵尸が暴れながら進んできている。その数は二十から三十はいるだろうか。よく見れば、彼らの顔は苦悶の表情や涙を浮かべた者が多いことがわかる。


 ――わたしが、声を聞かなくちゃ


「香蘭。君なら大丈夫だ」

『ありがとうございます』


 明龍の心強い言葉に背中を押されて、香蘭は銀の香炉を手に取った。いつもより多めに反魂香を入れて火を付ける。一気に濃い煙が広がっていき、金木犀と雨上がりの香りが集められた僵尸を包み込む。


「魂在何許(魂はどこにあるのか) 香煙引到焚香處(香の煙に導かれ、香の焚かれるところ)」


 一瞬、僵尸の動きがピタリと止まった。そして、大量の魂の声が空気を震わせた。


「助けてくれ!」

「もう嫌よ」

「誰か止めてくれ」

「苦しい、助けて」


 香蘭はその声の圧に思わず後ずさり、尻餅をついてしまった。こんなにもたくさんの苦痛に満ちた声を聞いたことなどない。暴れている魄の側にそれを止めようとしている魂の姿があった。どうしようもできないと泣き叫ぶ者もいる。自らの意思で暴れているのではないと、理解した。香蘭は立ち上がってしっかりと両足で踏ん張る。


 一人の女性の魂が、香蘭に近づいてきた。明龍は反射的に追い払おうとするが、魂のほうは正気を失っていない。香蘭は明龍を止めて自分の声で彼女に問いかける。


「これはあなたの意思ではありませんね」

「そうよ! 茉莉花の香りに起こされて、無理やり体を動かされているの。静かに眠っていただけなのに。お願い! 助けて」


 今この場は、反魂香の香り、蘭草、そして茉莉花の香りが混ざり合って、頭がくらくらする。


「――ッ!」


 僵尸のうちの一人が、香蘭に向かって両手を上げて突進してきた。男は目を見開いて、噛み付くかのごとく口を大きく開けている様を見て、香蘭は恐怖で体が動かなくなってしまう。目の端でこの魄の主の魂が、やめろ、と叫んでいるのが見えた。


「香蘭!」


 明龍の声がすぐ近くでしたと思ったら、香蘭を背中に庇うように立ちはだかった。香蘭の視界は明龍の背中でいっぱいになった。


「痛くても我慢しろよ」


 地に響くような低い声で言うと、明龍は迫る僵尸の腹に向かって手のひらを突き出した。突進してきた勢いが反転して、男の魄が後ろへ飛んでいった。


「殿下、危険なことはなさらないでください!」


 勇雲が抗議をしていた。とはいえ勇雲本人も蘭草で退けるのが面倒になったようで、襲ってくる僵尸をぶん投げて別の僵尸にぶつけている。一時的に動きを封じているから、魂たちが驚き半分呆れ半分で、泣き叫んでいた者の涙が引っ込んでいる。


「さっきよりも動きが少し鈍くなっていないか?」


 明龍がじっと僵尸を見つめながらそう呟いた。言われてみれば、ここに集められたときよりも、動きが遅くなっているような気がする。勇雲に投げられたからとも思ったが、そうでない僵尸も踏み出す足の動きが緩慢だ。


「……そういえば、反魂香を使ったとき魄の動きが一瞬止まったように見えました」

「反魂香に効果があるかもしれないな」

「今のままでは足りないとしたら」


 香蘭は反魂香をさらに取り出した。直接的に反魂香を僵尸に与える方法を考える。


「蘭草はまだ持っていますか。もっと彼らを寄せてください!」


 勇雲をはじめとした官吏、玲玲にもそう問いかける。全員頷いて、迫ってくる僵尸を囲むように蘭草を吹きかけていく。徐々に僵尸が寄り集まっていく。


 香蘭はそれを見つつ、反魂香を乳鉢に入れてすり潰す。火をつけてからゆっくりと煙が長時間かけて立ちのぼるのを待っていられない。短時間で直接、大量に与えるのなら、粉にして火をつけたほうがいい。


「これを僵尸へ! 使い方は蘭草と同じでいきましょう」


 香蘭は、乳鉢から小皿に移して火をつけ、短時間に大量の煙をあげる反魂香を各人へ託す。動きが遅くなっているとはいえ、不気味な僵尸に対峙してくれる彼らは本当に頼もしい。


「俺もやろう」

「お願いいたします」


 明龍にも反魂香を託し、最後は香蘭自らも手にした。


「いきます、せーのっ!」


 香蘭の声を合図に一斉に反魂香の煙を魄たちに吹きかける。さらに濃い甘い金木犀の香りと雨上がりの香りがその場を包む。


 僵尸は、煙に包まれたことで動きがさらに遅くなり、そして、糸が切れたようにバタバタと倒れ込んだ。最後の一人が少し微笑んだように見えたのも束の間、魄は地面に突っ伏した。


「止まった、のか……」


 勇雲の気の抜けた声で、その場の全員が長い息を吐いた。何とか、僵尸を止めることができた。本当に良かった。


「助けてくれてありがとう、香士さん」


 香蘭に助けてと懇願していた女性の魂は、穏やかな表情だった。香蘭はゆるく首を振った。


「わたしだけではできませんでした。皆さんのおかげです」

 皆がそれぞれに頷く中、玲玲が険しい顔をしていた。まだ反魂香の残る中で、香蘭は問いかけた。


「玲玲?」

「こんなの死者への冒涜です……! 怪談は作り話だからよいのです。こんな、人を貶めるようなこと、許せません。私は胡姫を、許しません」


 玲玲は泣き出しそうな顔で、怒りのこもった声を吐き出した。女性の魂が目を伏せてもう一度、ありがとうと呟いた。


「あの人のことも、助けてあげてね。とても、苦しそうだわ」

『――っ』


 香蘭はあの子とは、小鈴のことかと問いかけようとして、反魂香の煙が霧散して声が出なくなってしまった。女性の魂は見えなくなる直前、口を動かして伝えてきた。


 茉莉花の人を、と。


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