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後宮の香女官は彼方を想う  作者: 鈴木しぐれ
第5章 龍の隣に立つとき
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第5章-1

 香蘭が目を覚ましたのは、大小さまざまな箱が乱雑に置かれている倉庫だった。あまり人が出入りしていないようで、埃が積もっている。


 胡姫の声が聞こえて、気を失ったところまでは覚えている。どこかに連れてこられたらしいというのはわかるが、手足が縛られていて身動きができない。必死に視線を動かして、中の様子を探る。すると、見覚えのある小さな後ろ姿があった。


 ――小鈴!


 小鈴とは、香蘭の自作自演の誤解が解けたあとも筆談で話かけてもあまり答えてくれなくなっていた。小鈴が病み上がりなこともあり、少しずつと思っていたらどうにも距離が縮まらなかった。


 まさか、小鈴も捕まっていたなんて。玲玲が小鈴の姿が見えないと言っていたときに一緒に探していればよかったと、香蘭は奥歯を噛んだ。


「おや? 起きたの」


 視線を感じてか振り返った小鈴の声には、別の声が重なっていた。気味の悪い重なる声は胡姫のものだ。

 香蘭は、喉の奥で悲鳴を上げた。小鈴が絶対にしない不敵な笑みを浮かべていることが恐怖で、不自由な体で後ずさる。


「ああ、話せないんだったわね。これでどう?」


 顎を掴まれて強引に上を向かされ、湯を沸かす茶器で何かを無理やり流し込まれる。金木犀と雨の香りがして、香蘭は目を見開く。これは反魂香の煙だ。


「牡丹灯籠のときに、使えるかもと思って集めておいたのよね。結局これ、本人じゃないと使えないみたいで捨てようと思ったけど、この使い方は良さそうね」


 抵抗しようとするが、手足が動かないから思うようにいかない。喉を煙が通っていき、咳き込んでも、また無理やり流し込まれる。


「けほっ、胡姫……!」


 咳き込んだ勢いで声が外に出ていった。反魂香を飲まされて、一時的に声が出るようになったらしい。だが、わずかな時間だと感覚でわかった。


「あら慣れ慣れしいこと。あんたより長く生きているのよ」

「胡姫、あなたは西方地域の姫だったのですね」

「ええ、そうよ」


 今更隠す気もないのか、胡姫はあっさりと認めた。香蘭はさらに続ける。


「そして、道士でもあります。僵尸を作り出して、宮廷を混乱に陥れた犯人です。……どうしてそんなことを」

 思わず問いかければ、胡姫は射抜くような目線で睨みつけてきた。


「目的は一つ。奪われたから奪い返す」


 脅迫状に書かれたことと同じことを口にした。やはり、明龍とともに追ってきた脅迫状を送り付けた人物は、目の前にいる人物だ。もっとも、姿は小鈴だけれど。


「へえ、その顔は知っているって感じね。あの男はあんたにも脅迫状を見せたのね」


 胡姫は憎しみを剥き出しにして、皇帝のことを『あの男』呼ばわりする。身動きのできない香蘭の前にしゃがみ込んで視線を合わせた。


「あたしは、道士の中でも、魄を扱うことを専門にする、魄士(はくし)


 魄、つまりは屍を扱う、とんでもない禁術だ。伯母から名前を聞いたこともない。それだけ忌避されているのだろう。

 香蘭は伯母から講義として聞いたことを口に出した。


「魂は天に帰る、だから上にのぼる煙の力を借りる。魄は地に帰る、つまり土の力を借りる」

「それで?」

「あの赤土は西方地域では葬儀に使われる土だそうです。魄を扱うには最適な力でしょう。だから、あなたは最初に赤土の雨を降らせて、宮廷全体を僵尸のための土地に変えたんです」


 可愛らしい小鈴の顔で、胡姫はにやりと笑みを浮かべた。


「へえ、さすがは皇太子殿下のお気に入りの香士殿ね。雲を出すくらいは道士なら大概できるけれど、土を混ぜて血の雨を降らせたのはあたしが初めてじゃあないかしら」


 満足そうに言う胡姫に対して、香蘭はふつふつと体の内側から怒りが込みあげてくるのを感じた。彼女の計画に巻き込まれた人たちのことを思う。


「沈婕妤様は、恋しい人を想い続ける素敵な方でした」

「へえ」

「羽瑛さんは、娘のためを想って叱咤できる方でした」

「そう」

「涼雨だって、どうして巻き込んだんですか。彼女は魄ではなく、生者でしょう」


 自分の髪をいじって興味のない返事を続ける胡姫が、ようやく香蘭を見た。


「生者を乗っ取れるか実験したのよ。この国の大事な宝剣を地面に叩きつけるくらいしたかったけれど、案外長くは持たなかったわね。あとは、あたしを追う子がいるから挨拶しておこうかと思ってね、お嬢さん」


 涼雨を乗っ取って初めて会話をしたときのように、呼びかけられて、香蘭の腕には鳥肌が立つ。同時に、それだけのために関係のない涼雨を巻き込んで暴室に入れたのかと思うと、吐き気がする。


 そして、現在進行形で小鈴の顔で意地の悪い笑顔を浮かべることにも、香蘭は怒りを覚える。


「早く、小鈴から出ていって」

「嫌よ、あたしはずうっとここにいたもの」


 胡姫は口角をたっぷり上げた。香蘭は、一体何を言っているのかと眉間に皺を寄せた。


「……いつからです」

「あんたと会う前からずっとよ。初対面のとき、あたしは奥にいたから本人だったけどね。淑妃のお茶会では、西方地域がどう認識されているか聞くために、あたしが表にいたわよ。乗っ取る前の知り合いがいたから、代わるか迷ったけど、なんとかなったわね」


 そのときのことを思い出してか、胡姫は誇らしげな笑みを浮かべた。そして、香蘭の頬をなぞるように触れる。


「あたしが、だいきらいって言ったときのあんたの顔は傑作だったわね!」

「そんな……」


 香蘭は絶句した。今まで香蘭が話していた小鈴のどこからどこまでが本人で、胡姫なのか、わからなかった。少なくとも、匂い袋を喜んでくれた小鈴は、小鈴自身だ。あの笑顔を取り戻さなければならない。


「ついでに教えてあげる。この子本人のときは『なんで』が口癖で、あたしのときはそれを真似て『どうして』って言っていたわ。覚えているなら思い出してみなさい」

「なぜ、そんなことを」

「仲間に知らせるためよ、今あたしが表にいるかってね」


 胡姫に仲間がいることに、香蘭は寒気がした。こうしている間にも仲間が動いている可能性がある。

 胡姫がにやりと笑って会話を楽しむように声を弾ませた。


「あんたも知っているやつよ?」

「……勇雲殿のこと?」


 先ほど見た、弟と似ても似つかない風貌から、そう疑惑を持ってしまう。


 しかし、勇雲も僵尸の調査をしていたし、何も知らない様子だった。明龍が勇雲の嘘に気がつかないはずがない。

香蘭は目の前にいる、小鈴の姿をした別人の姿を凝視する。


「勇雲殿に、何をしたのです」

「当ててご覧なさいよ」


 胡姫はそう言うと香蘭の背後を指さした。体を引きずって移動してみれば、それは棺で、その中に男性が横たわっていた。棺に入っているのは勇雲の弟と似た男性だった。腹部には傷があり、手当の痕跡はあるが、治ってはいない。


 勇雲は、半年前に怪我をして地方任務から帰ってきたと言っていた。


 ――帰ってきたのは本当に勇雲殿?


 これはおそらく勇雲本人の体だ。いや、胡姫が扱うのなら、魂が入っていない魄と言うべきなのか。すでに死んでいるのかと最悪の可能性が頭をよぎったが、顔色は悪いものの屍のそれとは違う。


「ねえ、まだあ?」


 胡姫の煽るような声には耳を貸さず、香蘭は考え続ける。先ほど胡姫は、乗っ取る前の知り合いがいたから、代わろうとしたと言った。乗っ取る以前の本人の記憶は把握できないのだろう。小鈴の場合、しばらく本人の言動を観察して真似ることはできるかもしれない。


 だが、勇雲なら地方任務から戻って、その話をしないわけがない。皇太子の側近としての仕事も一朝一夕で覚えられるものではない。もしも別人なら明龍が気づくはずだ。


 ――勇雲殿は乗っ取られているわけじゃない


 話しているのが本人なら、違うのはむしろ体のほう。魂は勇雲で、魄は別人ということになる。


「……勇雲殿の魂を入れているあの武官のような男性は、誰ですか」

「へえ、なかなかやるわね」


 胡姫はどこか楽しそうに返してきた。動けない香蘭の周りを軽い足音を立てて、飛び跳ねている。


「あの勇雲とかいうのが大怪我して倒れているのを故郷の近くで偶然見つけたのよ。宮廷の官吏なのは服装ですぐにわかった。瀕死だったけど、本人は死んだと思ったみたいで、魂が出ていたのよ」

「反魂香を使わずに、魂が見えるのですか」


「抜け出た瞬間だけよ。魄を使うから、抜けたことがわからないと意味ないでしょう。殿下のもとへ帰らなくては、って彷徨っていた。そのまま元の体に戻すよりもいいことを思い付いたの」


 胡姫はにんまりと笑っていた。思い出し笑いにしては鮮明で、その思い付きが今も続いているのだと察した。


「こちらの用意した魄に入ってもらうことにしたわ。命を助けてやる交換条件だと言ってね。それから、あたしを宮廷に連れていかせて、空になった魄も念のために持ってきたわ。操って自分で歩かせたけどね」

「なんてこと……」


「あの官吏は自分が死んだと思っているから、別の魄を与えられて感謝していたわ。善意で助けてくれたとでも思っているんでしょうね、見返りなく人を助けるなんて、あり得ないのに」


 勇雲を小馬鹿にした言い方に腹が立つが、その言葉の裏に見返りなく人を助ける者を羨むような感情が滲み出ているように思えた。香蘭の勘違いかもしれないが。


「勇雲殿は、あなたの正体を最初から知っていたのですか」

「まさか! あたしがこの子どもに入っていることも、胡姫って名前も言っていないわよ。ただ利用しただけのものに言うわけないじゃない」

「さっき、仲間だと……」


 胡姫の目が不愉快そうに細められた。


「外側の魄のことよ。あんな官吏と一緒にしないで」


 そうだ。魄は勇雲とは似ても似つかない姿だ。


「見た目が違うから、魄を貸したってすぐにわかるはずです」

「元々知っている者にはその姿で見えるように術をかけてある。あの官吏にも絶対に知られるな、知られたら今度こそ死ぬという嘘で、脅してあるわ。あんたは元の姿を知らなくて効き目がなくて、こんな面倒なことになっているのよ。まったく……」


 検討違いな批判を聞き流して、香蘭はさらに胡姫を問い詰める。話せるうちに、情報を聞き出しておかなければならない。脱出を考えるのはそのあとだ。


「あの武官のような男性にも魂があるはず。一つの魄に二つの魂なんて、共存できるはずがありません」

「あいつのことは胡人(こじん)とでも呼んで。二つの魂はね、片方が仮死状態であれば可能よ。茉莉花の香りの液体はそのためもの。まあ、仮死状態が続けばいずれ死ぬけれどね」


 香蘭は、自分の知らないことの多さに言葉を失った。香だけを、反魂香を極めていればそれでいいと思っていた。でも、知らないせいで身近な人が危険な目に遭ってしまう現状が歯がゆい。


「仮死といっても、たまに起こしてあたしの言う通りに動かしたけどね。あんたの世話係に、この子どもの姉を推薦させたり、あんたを軟禁させるよう仕向けたり」


 刑部侍郎に進言した勇雲は、勇雲のふりをした胡人だったのだ。だから、玲玲の調べも嘘ではなかった。


「わたしが邪魔だったからですか?」

「そうよ」

「でも、僵尸が出てわたしの疑いは晴れました」


 そう畳みかければ、胡姫は少し苦い顔をした。


「あいつが勝手にしたのよ。あたしがやったんじゃないわ。この子が熱を出して寝込んだから、あたしはあいつに指示ができなくなって、それで慌てて僵尸を動かしてしまった。はあ……」


 胡姫の表情が一瞬、柔らかく揺らいだのが見えた。


「何かあれば使えと言っておいた僵尸を使うなんて、あたしはもうそんな心配される柄じゃないのに……まったくもう」

 そう呟く声が、優しい色を持っているように聞こえて、香蘭は思わず問いかけた。


「その、胡人のことは、脅して従わせているのではない、のですか」

「あいつは言うことを聞く便利な従者だからね、『あたしのために死んでくれる?』って聞いたら頷いたわ」


 仮死状態のままだと死んでしまうというのなら、目の前にいるこの子はどうなる。


「小鈴は……」

「おや、察しがいいことで。この子どもも仮死にしてたまに起こしてはいるけど、いずれ死ぬだろうね。この姿は警戒されなくて重宝しているわ」

「小鈴を返して!」


 香蘭は声を荒らげたが、少し声がかすれていた。もうあまり時間がない。


「あんたのものじゃあないでしょ」

「あなたのものでもない」


 姉妹を引き裂くなんて、許されない。春香を亡くしたときの気持ちを香蘭は今も覚えている。玲玲に同じ思いはさせたくない。


「自分の体に帰ってください」

「そんなもの、もうないわ」

「え……」


 香蘭の戸惑いの声は、胡姫を苛立たせたらしい。


「はあ、あんたも相当面倒な女ね。反魂香とか邪魔なもの持ってきやがって。魄は物言わぬ傀儡だから扱いやすいのに、声なんて聞けたら厄介だわ。本当に迷惑」


 癇癪を起したように胡姫が喚く。だが、はたと何かに気がついたような表情になった。


「いや、使いようによっては役立つのかしら。確か、あんたが言っていたのは『魂在何許 香煙引到焚香處』だったわね。……あはは、あんたは本質をわかっちゃいないってわけね。魄も魂も似たようなものだものね」


 香蘭は声を発しようとして、空気だけが喉を通り抜けた。


「時間切れね。おしゃべりもまあまあ楽しめたわ」


 香蘭が話せなくなった途端、胡姫は興味を失ったようにこちらを見なくなった。香蘭はどうにか声を出せないか、もがくもののそれは叶わない。


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