表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
後宮の香女官は彼方を想う  作者: 鈴木しぐれ
第4章 茉莉花を見つけるとき
PR
26/33

第4章-5

 香蘭自身は外部との連絡も、見張りの許可を得なければできず、状況がわからないままだ。だが、香蘭に疑いがかけられたために、伯母の調査に信憑性がないと言いがかりをつけられていると、見張りの交代の際に話しているのは聞いた。


 幸い、騒ぎが起きた様子は見られないから、硬直状態なのだろうと推測できる。最悪の事態ではないが、最善ともいえないだろう。


 そんな監視される日々が過ぎて、夜空にある月がかなり細くなってきた夜、明龍が香を用意してほしいと香蘭の部屋にやってきた。


『どんな香がよろしいですか』

「働きを労うための香を頼む」


 香蘭は頷くと、さっそく香の準備に取り掛かった。優しく上品に香る香木である白檀(びゃくだん)と涼やかな香りが特徴の龍脳(りゅうのう)を二本柱として、乳鉢に入れて丁寧に混ぜていく。この組み合わせなら、心地よく疲れを癒してくれるだろう。


 作業を進めていると、明龍の真剣な眼差しが手元に注がれていることに気がつく。そこまで見つめられると、そわそわしてしまう。


「俺もできるだろうか」

 独り言のように呟かれた明龍の言葉に、香蘭は首を傾げて意図を尋ねた。


「俺も香を作ってみたいと思ってな。できるだろうか」


 香作りに興味を持ってくれたことが嬉しくて、香蘭は何度も頷いた。ここからの作業なら一緒にできる。香料を固めるための蜜を入れて、乳棒で練り上げた。


『これを手のひらで転がして成形します。やってみますか』

「ああ」


 香蘭は見本を見せるために、乳鉢から三本の指で香料をつまみあげて手のひらに乗せた。明龍はそれに倣って香料を手に取った。


「意外と湿っているのだな」

『作成過程のものは、手に取る機会はないですものね』


 手のひらでころころと転がして、球体にできたら円錐の形になるように先を尖らせていく。力が強すぎると崩れてしまうため、絶妙な力加減が必要だ。


「難しいな。君の手元を見ていると簡単に作っているように見えるのだが」


 褒められて香蘭は自然と笑顔になった。明龍は苦戦しながらも、円錐状に成形していった。多めに香料を作っていたから、円錐の香が皿にいくつもそびえ立っている。


『完成です。一晩ほど乾燥させたら、使えます』

「ありがとう。これは、君に」


 明龍が成形をして一番綺麗に出来上がった香を指さしてそう言った。香蘭は目を瞬かせる。てっきり勇雲や玲玲に渡すものだと思っていた。


『よろしいのですか。わたしがいただいても』

「労いのために何か用意したかったが、品物では勇雲が用意することになる。自分で何かをと思ったんだが……結局ほとんど君自身が作ったものになってしまった」


 明龍の口調は少し気まずそうな、照れたようなものだった。香蘭は胸の奥からあたたかくなるのを感じた。なんて幸せな感覚だろう。


『嬉しいです。わたしのために考えてくださって』


 香蘭は心のままに手振りで伝えた。香で皆を幸せしたいと思っていたが、明龍の作った香で香蘭のほうが幸せになった。この香に火を灯すのがとても楽しみだ。


『そうか、それならよかった』

 明龍はなぜか手振りでそう返してきた。照れ隠しなのかもしれない。香蘭は小さく微笑んだ。


『今は別の香を焚きましょうか。どういうものがよろしいですか』

「そうだな……反魂香を頼めるか」

『何か、魂に聞きたいことがおありですか』

 香蘭は反魂香と言われて事件に関わる話だと思い、反射的に背筋を伸ばした。だが、明龍は首を横に振った。


「いや、君の姉に会ってみたいと思ったんだ」


 香蘭はその予想外の言葉に少しの間、固まった。確かに反魂香を使うのは姉の春香と会うためだと言っているし、香士である春香の話も明龍にはしていたが、まさか会いたいと言われるとは思わなかった。


『少々、お待ちください』


 明龍と春香を引き合わせるというのは、想像もしていなかったが、嫌ではなかった。春香に、香蘭以外の人と、しかも皇太子と会わせることができるのは、ここへ来るはずだった春香のためにもなるだろう。


 銀の香炉を用意して、香蘭は反魂香に火を付ける。白く濃い煙に櫛をくゆらせる。金木犀と雨上がりの甘い香りが、部屋の中を包み込んでいく。煙の動きを目で追いつつ文言を口にする。


「魂在何許(魂はどこにあるのか) 香煙引到焚香處(香の煙に導かれ、香の焚かれるところ)」


 二人が見守る中、煙の奥に春香の姿が浮かび上がった。春香はやわらかく微笑んで小首を傾げる。


「今日はお客様がいるのね、香蘭」

「うん。姐姐、こちらは皇太子殿下」

 明龍が春香に話しかけようとしていて、香蘭は慌ててそれを止めた。


「お待ちください! 殿下」

「ああ、会話をしてはならないのだったか」

「はい。面倒でも伝言してください」

 明龍と春香の間に香蘭が入る形で落ち着いて、話をすることになった。


「殿下、お初にお目にかかります。董香蘭の姉、董春香でございます。妹がお世話になっております」

 春香の言葉を香蘭が伝えた。そして、明龍が香蘭に話す形でそれに答える。


「優秀な香士であったと聞いている」

「もったいなきお言葉でございます。香蘭は近頃少しずつ笑顔が増えてきました。殿下のおかげですわ」


「いや、助けられているのはこちらのほうだ」

「殿下のお役に立てているなんて、姉としても誇らしい限りですわ」


 二人の言葉を伝言している香蘭は、だんだんと恥ずかしくなってきた。二人して香蘭の話で、しかも伝言するために自分を自分で褒めるような形になっているのだ。


「もう姐姐、それくらいにしてよ……」


 香蘭がたまらずそう口にすると、明龍も春香もきょとんとしてから小さく笑っていた。明龍が素直に笑っているのが珍しくて、香蘭のほうがきょとんとした表情になった。調査で張り詰めていたから、軟禁状態で逆に少し気の抜ける時間になったのだろうか。


「ふふっ、私は少し外を散歩してこようかしら。香蘭、反魂香はそのままにしておきなさい。煙のあるうちは自分の声で話せるでしょう」

 春香はどこか楽しそうにそう言うと、本当に庭へ出ていった。


「他の人に見つからないようにしてね」

「ええ」


 反魂香に火が灯ったまま、部屋の中は質量を保ったままの甘い煙が包み込んでいた。目の前で渦を巻いて上っていく煙に、明龍はそっと手を伸ばしていた。明龍の指に押されて、煙はゆらりと香蘭のほうへ流れてくる。


「いい姉だな」

「ありがとうございます」


 春香のことを褒められて、香蘭はくすぐったい気持ちになった。亡くなった姉を紹介できるなんて、反魂香がなければ無理なことだった。誇らしく思うとともに、相反する気持ちが香蘭の心の奥からどろりと溢れ出す。


 亡くなってからは、両親も春香の話をあまりしなくなったから、反魂香を使って春香と会い続けているとは言えなかった。香蘭は、姉の死を向き合うことから逃げ続けているのだ。それを言われることが怖くて、言えない。


「殿下、反魂香をどう思いますか」

 香蘭は弱々しくそう明龍に尋ねた。筆談でも、手振りでもない言葉で明龍に問いかけるのは少し緊張した。


「姉の魂と話すことを、ずっと続けるわけにはいかないとわかってはいます。でも、どうしようもないんです……」

 明龍は、香蘭の言葉を噛みしめるように聞いていた。そして、まっすぐに目を見て言葉の一つ一つを紡いだ。


「すぐに絶つ必要はない」

「ですが……」

「少しずつでいい。週に一度、月に一度、季節に一度、などゆっくりと間隔を空けていけばいい。続けたければ、続けてもいい。無理をするものではないだろう」


 瞬きをした拍子に、香蘭の頬に一筋の雫が落ちた。悲しくて、というよりは驚きのほうが合っている。良くないことだと否定されると思っていたのだ。少しずつでいいなんて、肯定されるとは。香蘭の心に安堵が満ちていく。


「ありがとうございます……」

 香蘭はそれだけを何とか言葉にした。香蘭の涙に驚いた様子だった明龍が、ほっとしたように頷いた。


「少し話しただけだが、君の姉はきっと君が反魂香を使い続けても、使わなくなっても、変わらずに君を大切に想っているだろう」


 明龍は強い口調でそう断言した。春香が香蘭のことを想ってくれているのは、それを受け取る香蘭自身が一番よくわかっているはずだ。明龍にその想いを後押ししてもらったような感覚になる。香蘭は最近、胸の奥に現れた気持ちを外に出してみた。


「声が出なくなったとしても、姉と話すためなら構わないと思っていました。でも、近頃は殿下と手振りでお話ができるようになって、もっとお話ができればと。こうして声を使えたらと思うことが増えました。玲玲や小鈴、そして勇雲殿ともお話したいと思うのです」


 明龍の目がゆっくりと見開かれていくのがわかった。そしてまっすぐに香蘭を見つめた。


「君のその言葉に嘘が一切ないことを、嬉しく思う。小鈴は――今は少し機嫌を損ねているが、きっとわかり合えるだろう。玲玲は絶対に喜ぶだろう」


 明龍の口端が少し上がっているから、彼も喜んでくれているのだろうか。そうだったなら嬉しい。


「ただまあ、勇雲は少し言葉が強くて迷惑をかけてすまない」

「わたしが未熟なせいですし、殿下を第一に考えるゆえだと思います」

「君の認識が大人で助かったな。勇雲は」


 明龍は肩をすくめてここにはいない勇雲への態度をたしなめた。


 ただ、香蘭が筆談や手振りを使うから、明龍は嘘を気にせず話せて助かるとも言っていた。それを香蘭自身も喜ばしく思ったのも本当のことだ。


「殿下とでしたら、声がなくても手振りでお話できますから、お気になさらず話してくださいね」

「俺のために声を封じる必要はない」


 ゆるりと首を振って、明龍はきっぱりと否定した。言葉の割に声音は穏やかで、香蘭の思いを尊重した明龍の優しい心が見える。


「まあ、ただ嘘を聞くことは嫌になることもあるな」

「いつ頃から聞こえるのですか」

「今の小鈴よりも幼い頃だったな。この力が判明したときには、幼いながらに廃太子にされるかと思ったものだ」


 七、八歳の子どもが廃太子にされると思うその恐ろしさはどれほどだろうか。周りの大人たちは当時の明龍に何を言ったのだろう。思い出すだけで明龍の顔を曇らせるほどのことなんて想像もしたくない。


「この頃に皇帝陛下の暗殺計画があったらしく、俺が嘘を聞き分けたことでその計画が明るみに出た。そこから、調査を請け負うことでどうにかここにいることを許されているんだ」

「あなたは皇太子殿下です。誰に許されることなく、ここにいる御方です」


 明龍があまりにも淡々と話すから、香蘭は怒りや悲しみ、悔しさ、それらすべてが混ざり合った感情に突き動かされて香蘭は声を発した。


「皇帝陛下に許されなければ、宮廷にはいられないだろう?」

「許す許さないなど関係なく、皇帝陛下は殿下を大切に想っておられるはずです」


「どうして言い切れるんだ」

「あなたの名前は、明龍様でしょう。龍は皇帝の証でございます。その名の示す通り、皇帝陛下に愛されています。生まれたときからずっと」


 納得していない表情の明龍に、香蘭はさらに言葉を重ねる。声を発することのできる今は、嘘をつけば明龍にすぐわかってしまうが、話すのはすべて本心なのだから気にする必要はない。


「教えていただいた手振りは覚えるのが大変でした。ですが、考えるのはもっと大変でしょう。ご政務をこなしながら考え、覚えたのは息子と話がしたかったからです。それは深い愛情ではございませんか」

「それは……」


「皇帝陛下と皇太子殿下というご関係はわたしには理解の及ばないところがあるかと思います。ですが、殿下が姉の思いを汲み取ってくださったように、わたしも恐れながら申し上げると、陛下の思いは変わらないと思います」


 明龍はしばらく香蘭の言葉を咀嚼しようとしているのか、腕を組んだまま動かなかった。香蘭は今更ながらに大それたことを言ったと、勢いで殿下と呼ぶべきなのに明龍の名を呼んでしまったと、じんわり背中に汗をかいた。


 それでも、嘘を言ってはいない。それは明龍が一番よくわかっているはずだ。


「もう一度、名を呼んではくれないか」

「えっ、失礼ではございませんか」

「構わない」


 明龍は短くそう言うと、香蘭が名前を呼ぶのを待っている。じっと見つめられながら名前を呼ぶのは気恥ずかしいが、香蘭は口を開く。


「……明龍様」


 ふっと明龍の表情が柔らかくなった。眉間の皺がないのを見たのは初めてかもしれない。香蘭は思わず見惚れて何も言えなくなる。


「明龍と、父上はずっと呼んでくれていたと、思い出した。立場にこだわっていたのは俺のほうだったんだな。この件が片付いたら、親子として話をしてみようと思う」

「はい」


 香蘭は、ただ一言そう返した。もはや多くの言葉はいらないだろう。


「香蘭、ありがとう」

「感謝するのはわたしのほうでございます。ありがとうございます」


 明龍は香蘭に握手を求めるように手を差し出した。皇太子である明龍と対等に向き合ってよいと言われているようなものだ。香蘭は明龍の手をしっかりと握った。同じ分だけ、握り返してくれた。


 皇太子と女官で、背負うものも、育ってきた環境も違う。だが、お互いの間には確かな繋がりを感じる。完璧でなくとも、足りないところがあっても、それが他人と奇跡的に噛み合うことがあるのだ。


 ――この人のために、わたしは役に立ちたい



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ