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後宮の香女官は彼方を想う  作者: 鈴木しぐれ
第3章 牡丹を灯すとき
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19/33

第3章-5


 翌日、勇雲がある報告を持って帰ってきた。

 香蘭は明龍に呼び出されて一緒にその報告を聞くことになった。


「羽瑛の事故後、特に不審な動きはありませんでした。しかし、あるはずの動きがなかった、ということがわかりました」

「詳しく話せ」


「はい。診察の要請が上がった記録は残っているのに、実際に医官が羽瑛のもとを訪ねた記録がありませんでした」

「当時担当だった医官は?」

「医官の名前ごと記録が消されております」


 明龍が眉間の皺を深める。


「作為的なものを感じるな」

 勇雲の話からは、一つの推測が成り立つ。


『もしも、受けられるはずの治療を受けられなかったなら……殺されたと思うのは、おかしくないですね』

「ああ」


 玲玲が、遅れて執務室へやってきた。後宮内での噂の広まり方を確認していたのだ。


「噂のまわりは相当早いです。皇太子殿下が、というところがやはり衝撃的だったようで」

「よし、狙い通りだな」

「……」

 納得の表情の明龍とは対照的に、不服そうな顔をしている勇雲。


「不服か、勇雲」

「いえ……その、不服です」


 嘘をつけば明龍にはわかってしまうからか、勇雲は素直に認めていた。香蘭は二人のやり取りをはらはらと見守る。


「作戦の内であっても、このような不名誉な噂が流れるなど、不服以外の何物でもないです」

 勇雲はちらりと香蘭を見やると、小声で呟いた。


「さっさと香士が犯人を見つければこんなことには……」

「勇雲」


 明龍が多くは語らず、名を呼ぶだけで咎めた。


 香蘭は、胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じた。香蘭がしっかりしていれば、牡丹灯籠はもっと早く解決できたのだろうか。しかし、それを香蘭だけの責任ではないと、明龍は言外で示してくれた。


「ねえねえ、なんでそこにいるの? かくれんぼ?」

 ふいに呑気な小鈴の声が部屋の外から聞こえてきた。小鈴は物陰に向かって問いかけている。


「何者だ」

 勇雲がすばやく動き、物陰に駆けた。


「きゃあ」


 驚きと恐怖の混ざった悲鳴が聞こえた。そして、勇雲に腕を拘束された少女が執務室に連れてこられた。玲玲は、小鈴をさっと自分のもとに引き寄せて、曲者から離した。


「ここは、皇太子殿下の執務室である。何をしていた」

 勇雲に凄まれて、少女は怯えた様子を見せたが、ぐっと唇を噛みしめて明龍に拝礼した。


「尚宮局の使いで、ここにいる医官の身柄を引き取りにきました」


 香蘭は思わず息を飲んだ。彼女は今、医官と口にした。ここに医官などいない。先日、明龍の命令で流した噂は皇太子殿下が犯人を匿っている、というだけだ。


「犯人を医官だと目星をつけてやってくるのは、本人しかいない。ようやく会えたな、牡丹灯籠の侍女、いや――笙恋」

「……!」


 少女、笙恋は弾かれたように顔を上げた。目を大きく見開いて明龍を見上げている。名前を知られていたことに動揺してか、そのまま固まってしまった。肩につかないほどの短めの髪に、くりっとした丸い目が可愛らしくて、玲玲と歳は変わらないのだろうが、少し幼く見える。


「医官を探しにきたと言ったな。なぜだ」

「……」


 笙恋は、明龍を見上げたままに口を真一文字に結んだ。皇太子に問われて黙秘を貫こうとするとは、なかなかに肝が据わっている。香蘭ははらはらしつつも、笙恋に感心していた。


「医官が直接手を下したわけではないだろうに、なぜそこまでして――」

 腕を押さえつけたまま、勇雲が呆れ気味に言うと、それに反発して笙恋が声を上げる。


「羽瑛様が最期に言ったんだ、あの医官のせいでって……!」

「何?」


「医官のせいで羽瑛様が死んだ! 殺されたんだ! でも顔も名前もわからない。だから、牡丹灯籠として脅かせば、誰なのかわかると、思って……」


 だんだんと声に勢いがなくなっていき、笙恋は項垂れた。


『牡丹灯籠が、怪談としての知名度が高くて、目的の人物以外も怖がってしまい、わからなくなった、ということでしょう』

 香蘭は、笙恋の言葉と様子を見て、そう書き付けて明龍に見せた。


「だろうな。主張は滅茶苦茶だが、当人は嘘をついていない」

 明龍は眉間に皺を寄せて、苦々しく頷いた。


「それで、医官はどこですか」

「あの噂はお前をおびき出すためのものだ。ここにはいない」


 笙恋は希望がなくなり打ちひしがれた。徐々に目に涙が溜まって、そして決壊した。


「こんなはずじゃあ……うあああん」


 笙恋はすべてを吐き出すように、幼く泣きじゃくってしまった。さすがの勇雲も押さえていた腕を離して、戸惑っている。


「あっ、小鈴。待って」

 玲玲が慌てた声を上げる。


「なんで泣いてるの? だいじょうぶ?」


 小鈴が、笙恋にとことこと近づいてしゃくりあげている笙恋の頭を優しく撫でた。自分よりも小さい子にあやされて、笙恋は少し冷静さを取り戻したようだった。


「羽瑛様……」

 笙恋は母を探すような声音で、羽瑛の名を呼んだ。


「笙恋、羽瑛の遺品は持っているか」

「ええと、はい。この披帛(スカーフ)がそうです」


 笙恋は不思議そうにしながらも、素直に身につけている披帛を指し示した。この問いかけをしたことで、香蘭は明龍が何を考えているのか理解して、慌てて手振りで訴えた。


『彼女に反魂香を見せるのは、危ういです』


 衝動で行動をして、本人はこんなはずじゃなかったと言うものの、結果的に宮廷全体を混乱させた。皇帝から命令が下るほどに。


「詳細を話すつもりはない。珀静とは違うからな」

『では、どのように――』

「殿下もしや、香士にあの香を使わせるつもりですか。おやめください」


 少し遅れて勇雲が明龍の狙いに気付き、苦言を呈した。


「勇雲まで止めるのか」

 勇雲は不服そうに香蘭の顔を見てきたが、すぐに明龍に向き直る。


「同意見というのは気に入りませんが、そうです」


 顔だけでなく言葉に出して不服と伝えている。香蘭と勇雲に止められて、明龍は眉間の皺を深めてため息をついた。


「落ち着け、香を明らかにするつもりはない。帳を用意させ、その中で香蘭に使ってもらう。皇太子の立場としても、例の医官の名前は知る必要がある」

 勇雲が唸りながらも確かにと呟いた。


「仕事を全うしない者は、注意しないといけません」

「記録ごと消えているなら、裏に貴族がいる可能性も高いからな」


 明龍は、笙恋のためというより、その医官を突き止めるために反魂香が必要であると言っている。


 それでも香蘭は迷った。笙恋が反魂香の存在を誰かに話してしまうのではないか。死を覚悟していた珀静と彼女とでは違う。反魂香をたくさんの人に知られたら、亡くなった人と話せることが明らかになれば、何と言われるか。


 ――そっか、わたしは姐姐と話していることを否定されるのが、怖いのね


 笙恋に対してわずかな嫌悪が覗くのは、その幼さが香蘭自身と重なる自覚があるからだ。煙の向こうの姉に縋って、日々を紛らわすように過ごす自分の幼さを見せつけられているよう。


「香蘭」

『は、はい』


 明龍の呼びかけで、香蘭は内側に沈んでいた意識を戻された。


「俺のせいにして構わない」

『え』

「俺が命令したから、使った。それでいい」


 香蘭の迷いを汲み取った、その言葉に香蘭はようやく頷いた。香蘭が姉の代わりと話したことを、明龍は気遣ってくれているのだ。


「玲玲、帳をすぐに用意してくれ」

「かしこまりました」


 玲玲へ指示を出してから、そう時間も経たないうちに執務室の中に帳ができあがった。今はまだ陽が高いから、魂を呼び寄せる力が弱い。簡易的に夜を作り出すために、窓を布で塞いで部屋の中を暗くしてもらった。


「香蘭、玲玲と小鈴を退室させるか?」


 一瞬迷ってから、香蘭は首を振った。小鈴にどうして明龍といるのかと聞かれたことを思い出したからだ。


『いいえ。二人にも見てほしいです。わたしが殿下とともにいる理由を』

「わかった」


 二人に見てもらうことで、幼さからくる自己嫌悪を拭えるのではとも思った。


 香蘭は帳の中に姿勢を正して座った。蝋燭に火を灯し、暗闇の中でほんのりとそこだけが浮かび上がるようだった。香炉を開けて、反魂香を入れて蝋燭からの火を移す。


 ゆったりと質量のある香が帳の中に満ちていく。香蘭の頬を金木犀と雨上がりの香りが撫でていく。


「絶対に口をきいてはならない。いいな」


 明龍は重みのある声で、笙恋と玲玲、小鈴にそう忠告した。詳細は何もわかっていないだろうが、玲玲は深く頷き、小鈴の口をそっと塞いだ。勇雲も逃げないようにと押さえている笙恋に、布を噛ませた。反射で声を出してしまうのはおそらく笙恋だ、念入りにするに越したことはない。


「魂在何許(魂はどこにあるのか) 香煙引到焚香處(香の煙に導かれ、香の焚かれるところ)」


 香蘭は羽瑛の遺品である披帛を煙にくぐらせて、文言を口にする。帳の外で玲玲が息を飲む音がした。香蘭の声を初めて聞いたのだから驚くのは当然だ。よく声を耐えてくれた。


 帳の中を回遊する煙の向こうに、一人の女性が現れた。四十代後半ほどで、きちんと髪をまとめた真面目そうな雰囲気を持っている。すっとまっすぐに伸びた姿勢から、彼女は体を二つに折った。


「このような機会をいただき、感謝します」

 落ち着いた声音で羽瑛は感謝を述べた。


「んー!」

 笙恋のうめき声が聞こえた。帳があるから、羽瑛の姿は見えていないだろう。声だけが笙恋に届く。


「香士殿、どうかあの馬鹿娘を止めてください」

 羽瑛は申し訳なさそうに伝えてきた。言うまでもなく、馬鹿娘とは笙恋のことだろう。


「わたくしが中途半端な言葉を残してしまったせいで、ご迷惑をおかけしました。死んだのは医官のせいではありませんが、薬があれば笙恋にもっとたくさんのことを教えられたはずでした」


 その声には無念さが滲み出ている。


「医官に命を奪われたわけではありませんが、笙恋との最期の時間を奪われてしまいました。その無念が、最期の言葉に……」


 香蘭は胸が締め付けられる心地がした。あったかもしれない大切な人との時間が奪われたなんて、苦しくてつらくて、耐えられない。


 でもそれを言葉にすることができなかった。羽瑛はすでに亡くなっていて、香蘭は生きている。何を伝えても、その明確な違いが安っぽい同情になってしまいそうだった。


「その医官の名前はわかりますか」


 結局、香蘭は明龍の求めている情報を尋ねた。羽瑛は一人の名前を答えた。香蘭は名前を聞いてもそれが誰かはわからなかった。だが、明龍が大きくため息をついた。


「殿下、あの者は」

「ああ。前々から問題が報告されている医官だ。とある貴族のお気に入りで、調査をしようにも、いつも揉み消される、厄介な相手だ。だが、これは有益だ。協力に感謝すると伝えてくれ」


 明龍は、あくまでも勇雲への返答と、香蘭への伝言に収めた。


「殿下から、感謝するとのお言葉をお預かりしました」

「恐縮でございます」

 羽瑛は深々と頭を下げた。その後、顔を上げた羽瑛は眉を下げて少し困った表情をしていた。


「わたくしは、尚宮局の仕事に誇りを持っておりました。日々の仕事に追われ、抱えているものがたくさんあるつもりでしたが、大事なものは多くはなかったようです」

 羽瑛は帳の向こうにいる笙恋に向かって声を届ける。


「笙恋、わたくしの大事な娘。ありがとう、一緒にいてくれて。よく食べて、よく寝て、よく働きなさい、そして笑って生きていきな」


 歯が見えるくらいに大きく笑って、そして羽瑛は煙とともに消えていった。

 窓にかけた布を外して、外の光が入るようになると、さっきまでの光景が夢だったかのような錯覚に陥る。


「すごい……」


 玲玲がうわ言のようにそう口にした。怖がられる可能性もあったが、玲玲は香蘭に駆け寄ると、ぎゅっと手を握った。


「すごいですね、香蘭さん。そして、こんなに重要なことを見せていただいて、ありがとうございます」

「香蘭さん、お香が上手すぎて、なんかすごく、すごいんだね」


 小鈴も上手く言葉にできないながらに気持ちを伝えてくれた。


『こちらこそ、ありがとう』

 香蘭は筆を取って、そう二人に返した。


「いつか、香蘭さんとお話できたら嬉しいです」

 その玲玲の小さな希望には、香蘭は曖昧に頷いた。不可能ではない、けれど、できるとも今は言い切れない。


 どさりと、音がした。


 笙恋が脱力してその場に崩れ落ちたのだ。口に当てた布がするりと落ち、勇雲の拘束からも滑り落ちた。勇雲がもう一度腕を掴もうとするが、明龍が目で制する。逃げないという判断なのだろう。


「こんなの、ずるい……」

 放心状態のまま、笙恋が呟いた。


「直接聞けるなら、あんな牡丹灯籠なんか回りくどいことしなくてよかったのに。あの方は教えてくれなかったのに」


 笙恋があの方、と口にした瞬間、香蘭と明龍、勇雲の三人は肩を揺らした。また、裏に誰かの存在があったのだ。


「あの方とは、誰だ」

「わかりません」

「何を言われた? 何をされた?」

 明龍は短い言葉で先を促した。


「もう一度会いたいだろう、無念を晴らしたいだろうと、言われました。小瓶をもらって、でもそれ使っても羽瑛様は歩くだけで話せないし、どうしたらいいかわからなくて、どうにかしようって、それで」


 ひねり出したのが牡丹灯籠だったと。決していい方法ではなかったが、笙恋一人の責ではなさそうだ。


『その小瓶をくれた人は、どんな人?』

 香蘭が筆談でそう聞くと、笙恋はぶんぶんと首を振った。


「声しか聞いてないです。そういえば、茉莉花の香りがしました」

 香蘭は明龍と顔を見合わせた。やはり、茉莉花の人物が裏で手を引いている。


「勇雲、医官の不正の証拠を持ってこい。いつもなら貴族に邪魔をされるが、牡丹灯籠に怯えている今は好機だ。利用させてもらおう」

「はっ」

「中元節で片をつける。笙恋、お前にも協力してもらうぞ」


 明龍は、何かを思い付いた顔をしてそう言った。


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