第2章-8
「今、反魂香を、使ってはくれないか」
香蘭は目を見開いて驚きを露わにした。だが、心のどこかで納得もしていた。今の珀静を救えるとしたら、反魂香しかないだろうとも思うから。
『反魂香のことを明かして大丈夫でしょうか』
紙にそう書き付けて、明龍に見せた。魂に聞き込みをするのと、生者である彼に話すのとでは、意味合いがかなり変わってくる。
「こいつは話の間、一度も嘘をつかなかった。後宮妃は皇帝のもの。懸想していたと知られれば、極刑もあり得る。それを言ったということは、覚悟ができているということだ。信用に値する」
香蘭は、ちらりと泣き崩れている珀静を見た。亡くなった大切な人の声が聞きたい、話がしたいという気持ちは、香蘭にも痛いほどわかる。死ぬ覚悟を持ってすべてを話した彼に、香蘭ができること。
迷いもありつつも、香蘭は明龍へ一つ頷き返した。
『特定の魂と話がしたい場合、その方が大事にしていた物――遺品が必要です』
「わかった」
明龍は地面に水たまりを作っている珀静に声をかける。
「香士が最後にお前の願いを叶えてくれる。条件と代償はあるがな」
「願い、を……? なんでも差し出します。景月と話せるのなら」
珀静は声を上ずらせて明龍と香蘭を見上げた。
「沈婕妤の遺品を持っているか」
「遺品、ですか……。今はこの沈丁花の花しか」
珀静は袂から一輪の沈丁花を取り出した。明龍は香蘭へ視線を送ってきた。これで問題ないかと問いかけているのだ。香蘭は肯定の意を込めてひとつ頷いた。
香蘭は、そっと銀の香炉を取り出す。元々、僵尸の調査のために執務室に残っていたから、香道具の一式は持っていた。反魂香も含めて。明龍はきっとそれも織り込み済みだったのだろう。白く濃い煙が広がっていき、池の周囲には甘い香りが満ちていく。
珀静から受け取った一輪の沈丁花を煙にくゆらせる。
「魂在何許(魂はどこにあるのか) 香煙引到焚香處(香の煙に導かれ、香の焚かれるところ)」
香蘭が文言を口にすれば、煙の向こうに一人の女性が現れた。僵尸と同じ顔だが、着飾った妃の装束ではなく、素朴な服を着た控えめな印象だった。沈婕妤ではなく、景月として立っているのだろう。
「香士の香蘭と申します。大切な方とお話しくださいませ」
「でも、私の声は珀静には届かないから――」
「景月!」
「え」
珀静は、景月が言い終わる前に声を張り上げた。二人とも、お互いに声が届くのだと理解して、驚きで目を見開いていた。そして、景月はほろりと一筋の涙を流した。
「珀静、ごめんなさい。あなたを残して逝ってしまって」
「僕が間に合わなかったのが悪いんだ、景月。君が謝る必要なんてない」
珀静は何度も何度も首を横に振って否定していた。景月はそっと彼の袍に触れて目を伏せながら言った。
「私ね、あなたが身投げまでして私のところに来ようとしたことを、ほんの一瞬だけ、嬉しく思ってしまったの」
「景月……」
「でも、死んでほしいなんて思ってないわ。あなたには生きていてほしい」
「僕は、君がいない世界になんて、苦しいだけだ」
駄々っ子のように言葉を重ねる珀静に、香蘭は昨晩の自分を見ているようだと、思わず目を逸らした。
「あの沈丁花の花を私だと思って、大事にしていて。いつかは枯れるから、その頃には私を忘れてね」
香蘭は景月の言葉に肩を震わせた。春香と同じことを言っているではないか。亡くなった人は、どうしてそんなことを言うのだろう。
「……どうして」
香蘭は、ぱっと自分の口を覆った。今は反魂香を使っていて声が戻っていることを失念していた。二人の会話を邪魔するようなつもりはなかったのに。
景月は香蘭に視線を動かして、問いかけてきた。
「香士殿も、誰かを亡くしているのかしら」
景月は香蘭の答えを待たずに言葉を続ける。
「忘れてと願うのは、未来で隣にいることができないから。誰か、隣に立ってくれる人を探してほしいの。……ああ、でも『忘れて』は違うかもしれないわ。本当に忘れられてしまったら悲しいし、拗ねてしまうかも」
そう言って少し頬を膨らませた彼女は、とても可愛らしかった。大人びた口調や声の奥にある少女のような顔。珀静が吸い込まれるような表情で景月を見つめている。
「そうね、どうか『そっと置いていって』ほしいの。前に進んでほしい」
香蘭は景月の置いていって、という言葉を上手く飲み込めなかった。忘れると置いていくが違うことはわかるが、それはどちらも故人から離れるということなのではないか。
「景月、僕は君を絶対に忘れない」
「ええ」
「忘れないけど、隣を空けたまま、生きてみるよ」
珀静は、香蘭よりも長く生きてきた時間が長い分、景月の言葉を理解しているようだった。景月はふわりと微笑んで、珀静に顔を近づけた。
景月の形をした白い煙に、珀静は口付けた。魂である大切な人と触れあうことはできないが、二人の間には何かが通じ合っているように見えた。
珀静は、明龍に向き直って揖礼をした。反魂香が周囲に残っているから、まだ珀静の声は失われていない。
「最期の願いを聞いてくださり、感謝申し上げます。覚悟はできております」
景月はわずかに息を飲んだが、すぐにそれを吐き出した。彼女は珀静に生きてほしいと願ったが、それが残り少ないことを理解したのだろう。どうしようもないことだと。
「あの、殿下」
香蘭は思わず声を上げた。自分でも声を上げたことに驚いたし、何を言おうとしたのかを考えて戸惑った。珀静を助けてほしい、なんて一介の女官が言うなど無責任で不相応なことだ。
明龍は香蘭には何も言わず、珀静に向かって事務的に話し出した。
「珀静、まずは代償の説明をしておこう。魂と話をした代償として一定期間は声が出なくなる。風邪をこじらせた、などで押し切ること。いいな」
「ええっと、はい」
「条件だが、今夜のことを内密にすること。宮廷を離れて故郷にて県令として務めること。以上を飲めるか」
珀静は、ぽかんと口を開けたまま固まっていた。香蘭もほとんど同じような顔をしていたように思う。県令とは地方を収める役人のことで、中央から派遣されることが多いが、宮廷を離れるのでいわゆる左遷だ。だが、それはもちろん生きていないと務められない。明龍が口にしたことは、つまり、そういうことだ。
「……処刑されるのでは、ないのですか」
珀静がやっとのことでそう絞り出した。明龍は事務的な口調のまま、続けた。
「亡くなった時点で、皇帝陛下の後宮を出ている。後宮を出た者が誰とどうなろうが処罰の対象ではない。今夜のことを誰かに話せばそれは罪となる。決して話さず、故郷で国のために務めよ」
明龍は、少し姿が薄くなっている景月に向かって少し表情を緩めながら言う。
「そのほうが沈丁花も綺麗に咲くだろう」
「ありがとうございます……!」
珀静は、声を震わせながら明龍に揖礼をしていた。景月も深く揖礼をして感謝を伝えていた。二人は顔を見合わせて、そして白い煙が霧散すると同時に景月の姿も見えなくなった。
声が出なくなった珀静は、香蘭の筆談用の道具を貸してほしいと身振り手振りで伝えてきた。香蘭はそれを手渡した。さらさらと書き付けられた文字は、香蘭に向けられてたものだった。
『香士殿、本当にありがとうございました。あなたは僕の恩人です』
珀静の笑顔とその文字を見て、香蘭は胸の奥があたたかくなるのを感じた。
――わたし、この感覚を知っている
感覚を辿って、香蘭は自分の幼い頃の声が聞こえてきた。『香で皆を幸せにするの!』と宣言する香蘭自身の声。そう、誰かを幸せにするために香を作りたいと思っていた。春香の代わりになるためではなく、香蘭自身が誰かのために香を作りたいと、そう思っていたのだ。なぜ忘れていたのか。
――そっか、姐姐の代わりになるって思いすぎて、自分で塗りつぶしてたんだ
香蘭は、珀静から筆をもらい受けると、こちらこそ、と返事を書いた。珀静は不思議そうな顔をしていたが、大切なことを思い出させてくれたことの感謝だ。
反魂香の煙が晴れたときには、景月の僵尸はなくなっていた。探してみると棺に元の通りに戻っていたらしい。再び反魂香を使い、景月の魂から遺体のことを聞いたが、本人にもわからないという。
それから、見知らぬ者に小瓶を渡されたことを話してくれた。
「これを自分の屍に飲ませれば、三日だけ自分の体を取り戻せると言われたわ」
手のひらの上の収まるほどの小さなその瓶には強い香りの液体が入っていたという。
「どうしても珀静を助けたくて、怪しいと思いつつも使ったの。でも体を自由に動かすことはできなくて、何とか腕だけは動かせたのよ」
『その液体はどのようなものでしたか』
「色はなくて、でも茉莉花のいい香りがしたわね」
また、茉莉花だ。やはり僵尸と茉莉花の香りは関係がありそうだと香蘭は考えた。
その後の勇雲の調査の中でも、茉莉花の香りの報告とともに僵尸の目撃情報が数を増やしていった。香蘭と明龍は、調査に奔走するものの、茉莉花の残り香を追いかけているだけで、その奥にいるはずの人物のことは、まだ掴めていない。
――魄を動かすなんてことを、一体どうして。何のために。




