第2章-7
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沈婕妤の件を調べはじめて数日経ったものの、まだ襲われた文官、珀静には話を聞けておらず、調査が滞っていた。
「明日にはようやく話が聞けそうです」
勇雲がやや疲れた顔でそう報告をしてきた。今のところ香蘭たちは沈婕妤の姿は目撃できていない。
「今夜はこのまま、執務室で待機して沈婕妤を探す。いいな」
執務室にいる、香蘭、勇雲、玲玲が頷く。そして、部屋の椅子にちょこんと座った小鈴も元気よく手を上げた。
「はーい!」
玲玲が申し訳なさそうな表情で香蘭たちを見つめた。
「あの、やはり小鈴は連れて戻りましょうか……」
「なんで! 一緒にゆうれい見るの!」
「もう夜遅くて、暗いから小鈴は寝る時間だよ」
玲玲がそう言って諭すが、小鈴は頬を膨らませた。
「暗くないもん。月が明るいもん……なんで月は明るいの? 他は真っ暗なのになんでなんで?」
小鈴の好奇心がここで出てきた。玲玲がどう答えるか迷っている中、明龍が口を開いた。
「月には桂花の樹があるからだ」
「桂花? この前のお餅の?」
「そうだ。昔、呉剛という男がいた。様々な罪を犯して月に追放され、桂花の樹を切り倒すように命じられる。だが、この樹は不老不死であり斧で切ろうとしてもすぐに塞がってしまう。男はずっと、今も樹を切り続けている」
香蘭は明龍の意図を理解して、さっと書き付けて玲玲に見せた。
『怪談へ繋げて』
「そう……。その男、桂男は一緒に樹を切る者を探しているの。月を見続けていると、桂男に目を付けられて……連れていかれてしまうかも」
小鈴が唇をきゅっと噛みしめた。そして、玲玲の服の裾を片手で引っ張って、小さな声で呟いた。
「もう、ねむいから、寝る」
玲玲はほっとした表情を浮かべつつ、小鈴の手を握ってあげていた。
「小鈴を部屋に連れて帰ります。すぐに戻りますから」
「やだ。一緒に寝るの」
口を尖らせて小鈴が抗議をした。少し怖がらせすぎてしまったかもしれない。昼に聞く怪談よりも、夜に聞くほうが何倍も恐ろしく感じる気持ちはわかる。
「構わない、今日は休め」
同じように明龍も感じているのか、気遣う声音でそう返した。玲玲は拱手を取ってから執務室を出た。
「少し、やりすぎたか」
「殿下がそのように気になさることではございません。幼子の寝かしつけは殿下の仕事ではありませんので」
勇雲はきっぱりと言い切った。
『僵尸が現れるかもしれない状況で、小鈴を連れていくのは危険です。部屋に返してよかったと思います。怪談よりも恐ろしいものを見てしまうところでした』
香蘭は書き付けて明龍に見せ、大きく頷いた。勇雲も横から香蘭の書いた文字を見て顔をしかめた。
「玲玲はあんたの侍女だ。殿下の手を煩わせずに収めるのが筋だろう」
『申し訳ございません』
勇雲の指摘はもっともだ。明龍の機転によって部屋に返すことができたが、香蘭が対処すべきことだった。いつも妹だった香蘭が、年長であり主君の振る舞いをしなければならないのだ。きっと春香ならば、難なくこなすのだろうに。
「し、失礼いたします!」
唐突に、執務室の扉が開かれて一人の文官が息を切らして立っていた。例の珀静の同僚の男だった。勇雲が断りもなく扉を開けたことを咎めようとしたが、彼の切羽詰まった様子に言葉を飲み込んでいた。
「無礼を承知で申し上げます。珀静がいなくなりました」
「なんだと」
「文官の中でも珀静が今回の騒動の中心だと噂が立ち、体調の回復後も外出を禁じられておりました。このままだと処罰、処刑されてしまうかもしれません。どうか……、珀静を気にかけてくださった殿下に、どうか慈悲をと」
慈悲、といってもまず本人がどこにいるかを見つけ出さなければ意味がない。香蘭は、急いで書き付ける。
『探しましょう』
「ああ、そうだな。まずは珀静を探し出す。お前は部屋の周囲をもう一度探せ、勇雲はその建物の外側を探してこい」
「はっ。殿下はここでお待ちください」
「いや、俺は池へ向かう。珀静がいる可能性がある。香蘭もいけるか」
香蘭は問われて一つ頷いた。勇雲もついてきたがったが、手分けしたほうが早いと明龍に言われてしぶしぶ頷いていた。
香蘭は明龍とともに池に向かう。見えてきたところで、近くをふらふら歩く男性の姿を見つけた。彼はおぼつかない足取りで池の端まで来るとしゃがみこみ、自ら池に落ちようとするように体を投げ出した。
「おい!」
明龍が叫ぶが、ここからだと懸命に手を伸ばしても間に合わない。派手な水音を想像したが、そんな音は聞こえてこない。
「……!」
香蘭は息を飲んだ。彼の袍を掴んで止める人が――いや、例の幽霊がいた。明龍が駆けていき、男性の体を池から引き剥がす。彼を止めたのはさらりとした髪を風になびかせた、妃の装束を身に纏った美しい女人だった。
彼女からわずかに香る花の香りを感じ取り、香蘭の中で合点がいった。最初に池に来たときにかすかにあった香りは、この沈丁花の香りだった。
――あなただったのですね、沈婕妤様
僵尸である、沈婕妤は男性が池から離れたことを見るとほっとしたように顔を緩めた。警戒をしていたのだが、彼女からは敵意は感じられない。
「彼女は、突き落そうとしていたのではなく、身投げを止めていたのか」
明龍は傍にうずくまる男性をまじまじと見つめた。魄だけの存在となっても、助けようと行動をする彼女が、男性を見つめる眼差しには愛おしさが滲み出ている。
「お前が、珀静だな」
「……はい」
男性は意を決したように体を起こして、明龍に対して揖礼をした。相手が誰かということは理解しているようだった。
「お前は生前の沈婕妤と交流があったのか。あの同僚も加担しているのか」
「沈婕妤様とは、ございません。……ただ、景月とは故郷が同じでございました。同僚には、彼女と同郷だということだけ、話の流れで。それ以上はあいつも知りません」
珀静が呼ぶ沈婕妤の名――景月はとてもやわらかさを持っていた。大切な人を、大切に呼ぶ声音だ。同僚のことも、関わりないと事実を告げて巻き込むまいとしているのだろう。
珀静は静かな声で話し出した。
「彼女は、沈丁花のような人でした」
景月と珀静の故郷は空気が澄んだ綺麗なところだという。花がたくさん咲いていて、一部は後宮にも献上されている。
「景月は沈丁花を好んでいました。ですが、沈丁花は世話が難しく、特に植え替えが苦手ですぐに枯れてしまうのです」
珀静はまるでそこに花があるかのように手を伸ばした。
「景月は、幼い頃は体が弱かったのです。ですが成長してからは澄んだ土地で苦なく暮らしておりました。ずっとそれが続くと思っていましたが、後宮入りが決まり、景月は故郷を離れました。後宮に来てからは、病弱な体質が復活したようでした」
それはまるで、沈丁花の生態をそのままなぞっているかのような話だった。香蘭は僵尸となって池の近くにたつ沈婕妤に目を向ける。穏やかな表情は変わらない。
「私は念願の科挙に受かり、文官になったところでした。だから――」
そこで言葉を切り、珀静はわずかに震えた声で続けた。
「成果を上げて、下賜として迎えに行くからと約束をしました」
「なんと無謀な」
明龍が思わず声を上げた。後宮妃の中で皇帝のお手付きがない妃は、大きな成果を上げた家臣たちに褒美として下賜されることがある。だが、それはほんの一部の話だ。しかも、皇帝の妃として後宮入りした妃を、臣下が望むなんて不敬とみなされてもおかしくない。よくも皇太子の前で白状したものだ。
「二人とも、無謀なことだとわかっていました。でも、それが希望となったのです。縋るものがあるから、なんとか日々を前へと進めていました。……それを病が攫ってしまった」
珀静は何も持っていない手のひらを凝視しながら続けた。
「亡くなったとき、侍女を通して沈丁花の花を分けてもらいました。故郷を離れて枯れかけていて、一週間ほど前にようやく花が咲いたのです。ああ、彼女に許されたのだと、そう思いました。なので、死のうと思って池へ」
「だが、それは失敗したと」
明龍の言葉に、珀静は頷いた。
「毎回、見つかって後ろから止められたのです。なぜ死ねないのか」
『沈婕妤様が、止めていたんです』
香蘭は筆で書き付けると、珀静の目の前に突き出した。
「景月、が……?」
この人は池の底ばかり見て背後を見ていなかったらしい。彼女は魂ではなく、実体のある僵尸である。目撃情報も多々出ていたのだから目に見えている存在だ。ただ振り返るだけで、見ることができたはずだ。
「僵尸は自分の意志で動けるのか」
『沈婕妤様は明らかに意思を持って動いていますね……後ほど本人の魂に話を聞きましょうか』
香蘭と明龍は珀静には聞こえないように小声でそう話した。明龍は項垂れたままの珀静に命令をした。
「おい、顔を上げろ」
珀静が顔を上げると、ゆらゆらと視線が泳いだあと、焦点を結ぶようにして、沈婕妤の僵尸に目線が留まった。
「ああ……景月。僕はもう一度、君の声が聞きたかった……」
言葉になったのはそこまでだった。珀静は抱えていたものを吐き出すように慟哭した。彼の言った『死のうと思った』は景月に会いたいという意味だったのだろう。そして景月は決してそうして欲しくはなかったと。
「香蘭」
明龍に呼ばれて、香蘭は拱手をしつつ次の言葉を待った。




