第2章-5
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お茶会当日、玲玲による香蘭の身支度がお茶会の時刻よりもかなり前から行われていた。上級妃からの招待であるから、失礼にあたらない程度に着飾るのが習わしだという。数日前から準備を進めていた玲玲がどこか楽しそうに気合いの入った様子で着付けてくれる。
「香蘭さん、次はこちらに腕を通して下さいませ」
今、身につけたのは上品な花の刺繍が施された衫で、最後に羽織るのは春風を纏うかのように軽い披帛だ。装束を用意してくれたのは明龍で、女官の域を出ないものの美しく品のあるものばかりだった。
――わたしが着てもいいのかな、似合う気がしない
下を向きかけて、香蘭は軽く頭を横に振る。こんな気持ちではいけない。沈婕妤のことを調べるという役割がある。何より、香士として呼ばれるのなら、ここへ立つはずだったのは姉の春香だ。春香の代わりに行くのだから、粗相のないようにしなくてはならない。
「わあ、おめかししてる! どうして? どこかに遊びに行くの?」
小鈴がうきうきした様子で準備中の部屋に入ってくる。玲玲はそこで座って見ててね、と声をかけていた。
「ええー、見てるだけ? どうしてどうしてー!」
「大人しくできるなら、連れていってあげる」
「本当!」
玲玲は、香蘭に向けて言い訳をするように話した。
「実は淑妃様からお許しが出ているのでございます。後宮では知らないことはない御方ですので」
香蘭という一人の女官が皇太子付きになり、その世話係としてついた女官には幼い妹がいること、そこまでを淑妃はすべて把握しているという。情報の早さに驚いたが、すべてを知っていることが、後宮を取り仕切るということなのかもしれない。
香蘭は玲玲に聞きたいことがあり、筆談用の道具を目線だけで探した。
「筆談のものはこちらにございます」
すぐに玲玲が察知して持ってきてくれる。声が出せなくても玲玲がいるとそれを不便に感じないのだからすごいと思う。香蘭はさらりと筆を走らせる。
『淑妃様って、どんな御方?』
「そうですね、私などが言うのも恐れ多いですが、皆様は九尾狐だとおっしゃいます」
九尾狐、九つの尾を持つ狐で邪悪な妖とされるときもあれば、吉兆をもたらす瑞獣ともいわれる。そんな存在に例えられる人にこれから会いに行くという。緊張するなというほうが難しい。
玲玲が髪を結おうとしてくれていて、香蘭は紙に書き付けてお願いをした。
『高く結い上げてほしいの』
「高く、ですか。……香蘭さんの髪は綺麗ですが、高く結い上げるには少し足りないかもしれません」
『できるだけで構わないから』
「かしこまりました」
少し無理を言ってしまったが、どうしても春香のように、あの姿でいたいと香蘭は思っている。
装束も髪も玲玲の手で美しく仕上げてくれた。あとは、持参する香を用意したほうがいいかと思ったのだが、香士の作る香が見たいゆえその場で作ってほしいと招待状には書かれており、材料と道具を準備するだけに留めた。
「では、参りましょう」
玲玲と小鈴とともに、淑妃の宮へと向かった。一つの家のように大きい宮に、香蘭は目を何度も瞬かせた。広いというのに隅々まで手入れが行き届いており、行き交う侍女たちも一人一人が洗練されている。三人は緊張して無口になっていた。
「香士殿ですね。ご案内いたします」
一人の侍女が香蘭たちに話しかけてきた。おっとりとした口調で話し、少し下がった目元も優しげな印象だ。
「涼雨! 久しぶりですね」
「ええ、本当に。玲玲、元気にしてました? 小鈴も」
「げんきー! どうしてここにいるの? どうして?」
玲玲と小鈴が親しげに話しかけている。どうやら知り合いのようで、緊張していた空気が一気に和らいだ。
「香蘭さん、こちらは涼雨。以前は同じ部署で働いていたことがあるのです」
「はじめまして、涼雨と申します。今は公主様の世話係として淑妃様にお仕えしております」
香蘭は、礼をしてこちらこそと伝えた。涼雨は、庭に咲いている花や調度品のことを話しながら案内をしてくれた。特に庭の美しさは見事だった。
「素敵なお庭ですね、香蘭さん」
まさに香蘭が思っていたことを玲玲が代弁してくれた。大きく頷いて涼雨にそう思うと伝える。
「ありがとうございます。ですが以前、赤い雨が降ったあとには地面の色が変わってしまって、どうするか淑妃様も悩まれていて」
「悩むって?」
「景観のために土を取り除こうか、ということ。そうなったら侍女総出の作業になって大変でしょうね~」
大変そうと零しつつも、変わらない彼女のおっとりとした口調に緊張がほぐれていくのを感じた。
「香蘭さん、沈婕妤様のことを上手く聞きましょうね」
玲玲はここへ来た一番の目的を小声で香蘭に改めて確認した。香蘭も過度な緊張がなくなり、頷いて大丈夫だと伝えた。
「よく来たわね」
涼雨に案内されて通された広間の中央に座しているのが、淑妃――瑤花妃その人だ。その姿を見て、九尾狐と呼ばれる理由はすぐに理解した。凛とつり上がった目元が印象的で、濃い口紅に負けない華やかな顔立ちをしている。瑞獣とも妖怪とも言われる九尾狐を思わせる妖艶な美しさだ。
香蘭は揖礼をして淑妃の声掛けに返答した。
中級妃も数人このお茶会には招待されているようで、香蘭の姿を訝しむ者もいた。女官なのに侍女を連れているの、と声が上がっている。これには玲玲がすばやく対応した。
「香蘭さんはお話ができないため、殿下が私を世話係に任じられました」
「口が利けないの……?」
純粋に心配そうな声音で中級妃の一人が呟いた。香蘭は紙に返答を書き付ける。
『喉の病で声を失いました』
そういうことにした。昨日、明龍とも相談をして詳しいことは話す必要はないのだから、話が広がらない躱し方をすればよいという結論になった。案の定、そうなのという声が返ってきただけでそれ以上触れられることはなさそうだ。
「噂の香士殿に会いたくてわがままを言ったわ。ごめんなさいね」
瑤花妃は艶やかな声でそう言って微笑んだ。この人に微笑まれたら頷かない男性はいないのではないかと思うほどの、溢れ出る妖艶さ。思わず一瞬見惚れていたものの、香蘭はすぐに筆を動かした。
『滅相もございません。このような機会に恵まれまして、光栄でございます』
「ふふっ、そう緊張しなくていいわよ。今日のお茶は特別に取り寄せた茶葉を使ったものよ。茶請けには月餅を用意したわ」
「この焼印は……! あの店のものではありませんか!」
玲玲が月餅を見た途端に感激の声を上げた。
月餅は薄い皮の中にみっちりと餡が詰まった贅沢な菓子だ。玲玲の反応を見る限り、名店の品なのだろう。
「菓子博士が来るのなら、菓子選びはしっかりしないと。気に入ってもらえたようね」
瑤花妃は得意げな色を覗かせながら微笑んだ。玲玲は涼雨へと無言で視線を送っていた。涼雨が玲玲の菓子好きを話したのだろう。無言の訴えを受けて涼雨は、えへへと笑っている。
「取り乱し、失礼いたしました。さすがは淑妃様でございます」
恐縮しつつ玲玲が答えていた。そんなにすごい月餅なのだとしたら、ぜひ玲玲に食べてもらいたいと香蘭は考える。
『わたしの分を、侍女に渡しても構いませんか』
「香蘭さん……! 淑妃様からのご好意をそのようには……」
「ふふっ」
瑤花妃は小さく笑い声を上げた。香蘭に書き付けを伏せるように手で示してきた。香蘭はその通りに書き付けを裏返した。
「侍女思いなのはいいことだけれど、招待しておいて用意をしないような無粋ではなくてよ。あなたたち姉妹の分もあるわ」
「よろしいのですか……!」
恐縮の気持ちよりも嬉しさが上回った玲玲の声が弾む。話についていこうと玲玲と瑤花妃を交互に見つめていた小鈴は、菓子が食べられるということは理解したらしく、両手を上げた。
「わーい、ありがとう!」
さすが上級妃といったところか。懐が深いことはもちろん、小鈴も含めたお茶会に参加した人数分用意された茶も月餅も相当高価なものと想像できる。
「一人分で女官の給金の一月分は軽く飛びますよ……」
玲玲が小声でそう教えてくれた。なるほど、それは玲玲が感激するのも納得だ。
瑤花妃は皆に茶と菓子を振る舞って、それを見つめている。にこやかだけれど、何を考えているか、読めない人だ。尚香局の女官たちはある意味ではわかりやすかったのだな、と思った。
「ねえねえ、ゆうれい見た?」
小鈴がもぐもぐと月餅を頬張りながら中級妃に話しかけていた。どうやら香蘭と玲玲が沈婕妤のことを調べると話していたのを聞いていたらしい。中級妃は不審がることもなく、幼い少女の雑談に応えていた。
「私は見ていないけれど、沈婕妤なんですってね」
「沈婕妤って地方から来た病弱な下級妃でしょう? 後宮入りしたときはよかったものの、すぐに体調を崩してそのまま籠りっきりの」
他の中級妃も会話に参加してくる。やはり、沈婕妤のことは噂になっているようだ。
「皇帝陛下のお手付きもなくてね」
「一年前の流行り病でしたわね。あのときはけっこうな人数の妃が臥せっていた覚えがありますわ」
香蘭は無意識に両手に力をこめた。姉の春香が亡くなったのも一年前の流行り病が原因だった。市井でも外界から閉ざされた後宮でも、流行り病は平等に襲い来るのだと、そんなことを考えていた。
「亡くなったのは、景月妃だけだったわね」
静かに瑤花妃がそう口にした。話の流れから、それが沈婕妤の名前だとわかった。妃の階級の呼び名である婕妤の前には大概その妃の名前の一文字が使われる。景が使われていないのなら、沈が名字なのだろうか。
なぜか気になって玲玲にこっそり聞いてみるが、名字ではなかったはずと小声で返ってきた。玲玲はしっかりと味わうように少しずつ月餅を口に運んでいる。
「地方のおひめさまなの?」
あっという間に月餅を食べてしまった小鈴が中級妃に問いかけた。問われたほうは首を傾げる。
「おひめさま?」
小鈴は可愛らしい服のどこに入れていたのか、冊子を取り出した。よく読み込んでいるのか、表紙が少しよれている。
「ちょっと、小鈴。それ持ってきていたの?」
「うん!」
玲玲が慌てた様子で冊子を見つめ、小鈴は得意げに頷いた。香蘭は首を傾げてそれは何かと聞いてみる。
「小鈴が近頃夢中になっている説話集でございます。特に公主が出てくる話を気に入っておりまして」
「ねえ、どうして遠くからおひめさまが来るの? どうしてどうして?」
小鈴の好奇心旺盛が、沈婕妤のことを話していた中級妃たちへ迫る。どう答えたものかと逡巡している彼女たちを横目に、瑤花妃が口を開いた。
「出世のために来る者、友好関係の証のために送られる者、憧れを持ってやってくる者、後宮へ来る理由は人それぞれにあるものよ」
「うーん……」
子ども相手にも誤魔化さずに答える瑤花妃に、香蘭は驚かされた。
小鈴は腕を組んで瑤花妃の言葉を飲み込もうとしているが、少し難しいようだ。小鈴は冊子をめくり、とある頁でその小さな手を止めた。
「じゃあ、西のおひめさまはどうして来ないの? どうして?」
瑤花妃も含めたその場にいた者が、言葉に詰まった。
瑞陽国の西方地域は、現在の皇帝が統合した地域である。百年ほど前には戦いに発展した歴史もあるが、皇帝直々による長年の交渉の末、平和的な合意のもとで決着したと聞く。
かつて西方地域は一つの国であり、この説話にあるように昔は公主にあたる人がいたはずだ。友好のため、後宮へ来たこともあったかもしれない。
『もう、西にはおひめさまはいないの。国ではなくなったから』
口にするには憚れることを、香蘭は皆の代わりに書き付けた。文字を目で追った小鈴はしょんぼりと俯いてしまった。
「そう、なんだ」
瑤花妃がそっと小鈴の頭を撫でた。
「幼いのに地方のことにも関心を持っていてえらいのね」
「淑妃様、もったいなきお言葉でございます。お茶会に相応しくないお話をし、申し訳ございません」
小鈴の代わりに玲玲が感謝と謝罪を同時に述べた。香蘭もそれに合わせて拱手を取った。よく考えれば未だ緊張感のある西方地域の話題は、無礼であると叩き出されてもおかしくはなかった。
「構わないわ。幼い子の疑問に答えるのは大人の役目でしょう」
微笑む瑤花妃の表情からは母や姉に見たものと同じ慈愛を感じた。この人も一人の娘の母なのだ。
お茶会は他愛のない話を交えて進んでいった。
「香士殿」
ふいに瑤花妃に呼ばれて、香蘭はさっと意識をそちらに集中させる。これから言われることはわかっている。拱手のまま、香蘭は次の言葉を待った。
「香を作ってみせてほしいわ」
香蘭は、拱手とともに頭を下げて、命令を承ったと示す。
さっそく香料と道具を広げて準備をはじめる。その場でという指示だったから、香蘭はどういうものを作るかあらかじめ決めていた。これは魅せる香だ。
香蘭は、ガラス製の透き通る美しさのある群青色の香炉を取り出した。蓋をそっと外し、匙を使って灰を香炉の中に入れていく。銅製の火箸で灰を細かくするためにゆっくりとかき混ぜる。
「まあ、涼やかな音」
瑤花妃がうっとりと呟いたように、ガラスの香炉を使うと火箸が触れて耳心地のいい音が響くのだ。
丸い皿のような押さえを使って灰の表面を平らに整えていく。灰を押し付けるのではなく、さらさらと表面を撫でるようにして滑らせるのがコツだ。
香蘭はここで一度香炉から離れて、香料を取り出す。粉状になっている香料を二種類ほど選び出し、乳鉢に入れた。乳棒を使ってしっかりと混ぜ合わせる。
――よし、いい感じ。
火をつけなくても、顔を近づけると香りが漂ってくる。香蘭は、蓮の形にくり抜かれた印型を先ほど整えた灰の上に置き、その上に香料を乗せていく。くり抜かれた隙間に香料が行き渡るように丁寧に広げた。
『もうすぐ完成いたします』
何をしているのか、いつ完成するのか、とそわそわしている視線を感じて、香蘭は書き付けてそれを伝えた。
印型を火箸でトントンと叩いて香料を整えてから、そっと印型を持ち上げる。灰の上には蓮の形の香料が浮かび上がる。
「わあ……!」
「綺麗ね」
「繊細な作業ですわね」
妃たちの感嘆の声を聞いて、香蘭は笑みを浮かべた。見て楽しめる香をと思ってこれを選んだが、正解だったようだ。
香料の端に火をつけると、すっと昇る煙があがり、部屋をいい香りが包んでいく。
「これは何の香りかしら」
『沈香に橘皮を加えたものになります。本日のお茶に合わせて調合いたしました』
「見事だわ。香士殿」
『もったいなきお言葉でございます』
瑤花妃からお褒めの言葉をもらえたということは、香士としての役割を果たせたということだ。香蘭は、ほっと息をつく。そして、再び紙に書き付けて瑤花妃に見せた。
『残った香料は丸薬の形にいたしますので、数日乾燥させたのち、お好きなときにお楽しみくださいませ』
香蘭は乳鉢の中につなぎを入れて一つのかたまりにしてから、小さく分けてころころと丸めて並べていく。淑妃への献上品ということで、今回のお茶会への礼として成り立つだろう。案内をしてくれた涼雨にもお礼に渡したいところだ。瑤花妃から渡してもらえるよう伝えておこう。
「ああ、そうですわ」
思い出したように、中級妃の一人が声を上げた。視線が彼女に集中する。急に視線が向けられて気まずそうにしつつも、口を開いた。
「沈婕妤は、沈丁花の花を好んでいたから、そう呼ばれていたと思い出しましたの」
沈丁花は、沈香のようにいい香りがすることからその名が付けられた。早春に白色や薄紅色の花を咲かせる。
――沈丁花が好きだった妃、どんな人だったんだろう
香蘭は、会ったことのない一人の女性に想いを馳せた。一体、なぜ文官の元に現れたのだろう。




