わたしは、井戸の水が減っていることを知らなかった
水瓶に手のひらを向けると、いつもどおり水が出た。
底を打つ音が、はじめは高い。たまってくると、だんだん低くなる。縁の指二本下まで来たので、手を下ろした。
「これでいっぱい」
こっちのおうちの水瓶は、内側がまだ白い。うちのは古いから、底のほうが茶色い。
外へ出て、干したものを取り込んだ。夏になってから、朝に干したものが昼前に乾く。乾いていると、うれしい。一日かかるはずのものが、半分でおわる。
「おかあさん、これ、もう乾いてたよ」
「……ありがとう」
おかあさんは紙の束をひらいて、なにか書いていた。それから、わたしのほうを見ないで言った。
「今日は、何回目かしら」
「何回目って?」
「水。出したの」
「えっとね」
わたしは指を折った。朝、こっちの水瓶でしょ。それから、うちの水瓶でしょ。あと、桶にちょっとと、鶏のところに少し。
「……あれ」
きのうのぶんまで数えていた。
「わかんなくなった」
「そう」
おかあさんは、わかんなくなった、って書いたと思う。書くのが、ちょっとだけ長かった。
うちに帰って、うちの水瓶にも出した。こっちは低い音がする。ぼこぼこ、って鳴る。
水は、汲みに行かなくていい。うちの水は、わたしが出すもの。井戸の水は、村のもの。
井戸へ行くのは、洗うものがあるときだ。今日はそれ。
井戸のところに、桶がずらっと並んでいた。
「つむぎ、おはよう。うしろに置きな」
「うしろって?」
「並んでるんだよ、桶が。前のが済んだら、次の人」
いつもは、みんな好きなところに桶を置いて、しゃべりながら洗っている。今日は、ちゃんと一列になっていた。
「なんで並んでるの」
「そういうことにしたのさ。いっぺんに来ると、汲むほうが追いつかないからね」
おばさんが縄を引き上げた。桶が上がってくるまでが、前より長い。
「重くないの、それ」
「軽いよ。軽いのが困るんだ」
井戸をのぞいてみた。石を積んであるところに、いつも黒くて濡れている段がある。その段の上のほうが、白くなっていた。前に見たときは、もっと下まで黒かった気がする。
「あんまり乗り出すんじゃないよ」
「見てただけ」
おばさんの一人が、桶の上に手をかざした。水が出て、桶の半分くらいで止まった。
「……だめだね。今朝はもう出したから」
「朝に一杯、夕方に一杯。それがせいぜいさ」
「続けては出ないもんね。出したら、しばらく空っぽ」
「うちは息子がいるからいいよ。あの子のぶんがまだある」
「一杯かい」
「一杯だよ。誰だって一杯だろ」
みんな、桶の話をしていた。誰が朝いちばんに来るかとか、一日に何杯までにするかとか。
「近ごろ、暗いうちから来てる人がいるだろ」
「いるね。行ってみたら、もう桶が置いてあるんだ」
「誰だい、あれは」
「知らないよ。名前が書いてあるわけじゃなし」
わたしは洗うものを水につけた。桶の水は、ちょっとぬるかった。
「牛にやったら、それでおしまいだよ。あれは一日にとんでもなく飲むからね」
「畑なんて、桶で数える話じゃないさ。何百ばい運べばいいのさ」
「だから雨だよ。雨が降らないと、どうにもならない」
わたしは布をひろげて、水の中でふった。ふるたびに、水が白くにごった。
「うちの亭主なんかね、水がもったいないからって、顔を洗うのをやめたよ」
「そりゃ、ただの無精だろ」
「前からだよ、あれは」
みんなで笑った。わたしも笑った。
それから、また桶の話になった。前はもっと、ちがう話をしていた気がする。
午後、おとうさんの家のうしろへ行った。
薪を割っていた。丸太を立てて、上から斧をおろす。まっすぐ二つに割れる。
「はんぶんこ」
おとうさんは何も言わなかった。
わたしは割れたのを両手で持って、壁のところまで運んで積んだ。運ぶのは、わたしがやることにした。
おとうさんは、いつもなら、まず、とか、つぎに、とか言う。まず太いのを割って、つぎに細いのをやる、とか。今日は言わない。
「おとうさん」
「ああ」
「そっちの、割らないの」
「……あとで」
それだけだった。
家のよこには、長い丸太が置いてある。皮をむいたのと、むいてないのが混ざったままだ。いちばん小さい鶏が、その上に乗っていた。
「まだ乗ってるよ、あれ」
「……そうか」
「今日は落ちてない。上手になったんだと思う」
おとうさんは丸太のほうを見た。ちょっと見て、それから、また斧を持った。
「水の道、いつできるの」
手が止まった。
「……あれは、しばらく置いておく」
「ふうん」
わたしは次のを運んだ。
おとうさんは、このごろしゃべらない。はじめのころは、もっといろいろ訊いてきた。好きな色とか、こわいものとか、木の実のなる場所とか。
薪は、高く積むと倒れる。だから下を広くする。わたしがそうやって積んでいたら、おとうさんが振り向いて、それを見た。
「……そこは、下を広くしたのか」
「うん。倒れるから」
おとうさんは、うなずいた。それから、また丸太を立てた。
わたしは、もっと運ぶことにした。日が傾くまでに、壁のところがいっぱいになった。
「じゃあ、帰るね」
「ああ」
おかあさんが戸口まで出てきて、手をふった。おとうさんは、まだ割っていた。
うちの戸を開けたら、サナがいた。
土間のところに立って、こっちを見ていた。
「サナ!」
わたしは走って中に入った。サナは、あついのにいつもの服だ。厚くて、ざらざらしたやつ。ずっとあれを着ている。
器を出して、水を出した。サナは何も言わずに、それで手を洗った。よけてあったぶんの布を取って、二つ出した。わたしのぶんもあるからだ。
「あのね、今日ね、井戸に桶がいっぱい並んでたの。ならんで待つんだって。おばさんが、うしろに置きなって言った」
サナは食べていた。
「それでね、おとうさんが薪を割ってたから、わたしが運んだの。下を広くすると倒れないんだよ。教わってないけど、そうなの」
サナは器を持ったままだった。
わたしはしゃべりながら、自分のぶんも食べた。だれかがいると、ごはんが早くなくなる。
食べおわってから、サナがわたしを見た。
「背が伸びた」
「ほんと? 柱に線があるんだよ。おとうさんがつけたの。ここと、ここ」
わたしは柱のところへ走って、二本の線を指でおさえた。近い。ぜんぜん近い。
「これしか伸びてない」
「伸びた」
サナはそう言って、そのあとは何も言わなかった。わたしの頭に手をのせて、少しのあいだそのままにして、離した。
横になってからも、わたしはしゃべっていた。鶏の話をして、桶の話をして、途中でねむくなった。
朝、起きたら、サナはいなかった。
あくる朝、井戸のほうから声がしていた。
行ってみたら、人が集まっていた。村長がいて、木の札を配っていた。木を割っただけの、ただの切れっぱしだ。
「これ、なに」
「順だ」
村長はわたしに一枚見せてから、隣の人に渡した。
「朝のうちは、上の段の家から汲む。日が高くなったら、下の家だ。札を持っている家から順に来る」
「なんで?」
「みんなが一度に来ると、桶を提げて待つだけで昼になる。待つのが減れば、そのぶん汲める」
なるほど、と思った。
おとうさんも来ていた。うしろのほうに立って、聞いていた。なにも言わなかった。
札は一枚ずつ配られていった。おばさんが受け取って、腰のところにはさんだ。
「つむぎのところは……」
「うちはいらないよ」
わたしは言った。
「洗うときしか来ないもん」
おばさんは笑った。まわりの人も笑った。
「そうだったねえ」
「つむぎのうちは、いいのよ。あそこは昔から困ってないから」
五年ぶん、それが当たり前になっていた。




