娘は、桶が二十並んでも手を下ろさなかった
縄を引き上げると、桶が軽かった。
底に、指の関節ひとつぶんの水が入っていた。石組みの内側の、いつも濡れて黒くなっている段は、上から下まで乾いて白い。乾いた線を探すまでもなかった。線のほうが、底まで下りていた。
札を配ってから、何日か経っていた。朝のうちは上の段の家、日が高くなったら下の家。その順は初めの二日はよく回って、三日目からは、順番が来ても汲むものが無くなった。
麦はもう刈って屋根の下にある。畑の話をする者は、いなくなっていた。井戸端に立っているのは桶を提げた者ばかりで、その桶がどれも空だった。
「牛を、川のほうへ連れていくかね」
「川も細いよ。あそこまで引いていって、飲ませて、それで帰ってこられるかい」
おばさんの一人が、桶の上に手をかざした。水が出て、桶の半分より少し下のところで細くなり、途切れた。
「……今朝はもう出したからね」
半分で止まるものらしい。そういうものなのだと思った。
村長は石段にいた。日当たりのいいその場所は、いまは村でいちばん暑い場所になっている。それでも動く気配がなかった。
「札を配ったのはな、待つのを減らすためだ。待つのが減れば、そのぶん汲める」
老人は膝の上で手を組んだ。
「汲むものが無ければ、順も何もない。あれは、水を増やす道具じゃないからな」
その日のうちに、井戸を掘り下げにかかった。
縄を伝って底まで降りた。石組みの下は素掘りで、壁を指で掻くと砂がぼろぼろ落ちた。乾いた砂だ。湿るところまで下げれば水は戻ってくる。そう見当をつけて、上に人手を頼んだ。
翌朝、来たのは四人だった。そのうちの一人がヨナスだった。
俺が底で掘り、上で桶を引き上げてもらった。昼までに、俺の背丈ぶんほど下げた。砂は途中から色が濃くなったが、握っても固まらなかった。午後、鉄の棒を打ち込んだら先が跳ね返ってきて、手のひらまでしびれた。岩だった。
東の流れも、もう一度見に行った。
取り入れ口にするつもりだった場所は、石ばかりになっていた。水は石のあいだを縫って細く下っている。手を入れると、指の第二関節までしか浸からなかった。
家の横には、皮をむいた丸太が置いたままになっている。二十本のうち、十二本まで剥いてある。引く水が無ければ、樋はただの木だ。
夜、板に数を書いた。一日に井戸から上がる量。家の数、人の数、牛の数。飲ませる量から割り戻して、どの家に何杯を回すかを書いた。
書けた。書いたものを全部足すと、上がってくる量の三倍になった。
どこにも、増えるところが無い。
次の朝、俺は板を持たずに井戸へ行った。
ヨナスが先に来ていて、もう底の砂を上げていた。ほかに三人いた。俺は縄を受け取って、桶を引いた。
昼まで掘って、また岩に当たった。
「どうするのがいいですか」
顔を上げて、掘っていた者たちに訊いた。
誰もすぐには答えなかった。ヨナスは手を止めなかった。
石段のほうから、村長の声がした。
「どうにもならん」
老人はそこから動かずに続けた。
「この村の水はな、山から下りてきて、地面の下を通って、ここに溜まる。上で降らなけりゃ、下も来ん。あんたが掘ってるのは通り道じゃない。溜まるところだ。溜まるところを深くしても、来ないものは来ん」
俺は、そうですかとだけ言った。
ヨナスが鍬を持ち直して、俺の掘っていたところから二歩ずれた場所を掘りはじめた。何も言わなかった。俺は桶をそちらへ回した。二人でそこを膝の深さまで下げた。砂は乾いたままだった。
娘は、朝から手伝いに来ていた。
上げた土を籠に入れて、井戸から離れたところまで運んではあけている。往復するたびに、いちばん小さい鶏がうしろをついていった。
「おとうさん、この穴、どこまで掘るの」
「……分からん」
「あのね、さっき鶏が籠に入ってたの。土といっしょに運んじゃうところだった。二回。二回とも入るの。土が好きなのかな。それか、わたしのこと待ってるのかも。待つなら籠の外で待てばいいのに」
娘は籠を持ち上げて、それからまた下ろした。
「ねえ、みんな、なんで立ってるの」
「水が出ない」
「井戸の?」
「井戸のだ」
娘は井戸端に並んだ桶を見た。空の桶が、日に照らされて内側まで乾いている。ずいぶん長いあいだ、そちらを見ていた。
「水、いるの」
「……いる」
「どのくらい?」
答えられなかった。
「わたし、出そうか」
薪を運ぼうか、と言うのと同じ言い方だった。
おばさんが笑った。
「つむぎのぶんまでもらったら、罰が当たるよ」
「一杯でも助かるけどねえ。うちの樽、底のほうだけでも」
「あんたの樽は底が抜けてるだろ」
「直すよ。そのうち直す」
笑い声が起きて、それで終わった。誰も本気にしていない。桶ひとつぶんの話だと思っている。
「つむぎ、それは……」
言いかけて、やめた。
娘は俺のほうを見て、それから桶へ歩いていった。いちばん手前の桶の前にしゃがんで、手のひらを向けた。
水が落ちて、桶の底を打った。はじめは高い音がして、溜まるにつれて低くなった。
一つ目が縁まで来た。娘は手を下ろして、隣の桶へ体を向けた。
「次、いい?」
「……ああ」
二つ目。三つ目。桶を提げてきたおばさんが、満ちたのを持って帰り、空のを持って戻ってきた。
五つ目のあたりで、井戸端が静かになった。
さっき半分で途切れさせたおばさんが、自分の手のひらを見て、それから娘の手を見た。
「……そんなことは、できないよ」
誰に言ったのでもなかった。娘には聞こえていない。
日が動いた。石段の影が伸びて、井戸の縁に届いた。
人が増えた。桶を持ってくる者、樽を転がしてくる者、何も持たずに見に来た者。村長が石段から立ち上がって、こちらへ二歩来た。それから、また座った。
十を過ぎたあたりで、男の一人が娘の横にしゃがんだ。
「どうやって出してるんだ」
「出てるよ?」
娘は男の顔を見て、それから桶を見た。何を訊かれたのか分かっていない顔だった。
「疲れないのか」
「つかれない」
娘は次の桶へ移った。男は立ち上がって、自分の手のひらを見た。
いちばん小さい鶏が、並んだ桶の縁を端から歩いていって、三つ目で落ちた。娘が振り向いて笑った。
「今日も落ちた」
文乃がいつのまにか来ていた。いつからそこにいたのか、分からなかった。
俺は、この子が水を出すのを初めて見た日のことを思い出していた。土間の水瓶の前で、どうやるのかと訊いた。こう、と言われた。手のひらをひらひらさせただけで、答えになっていなかった。説明できないのに、できている。あのときそう思って、そこで止めていた。
文乃が昔、俺に言ったことがある。
『教わったとおりにはやらないの。それで、ちゃんとできちゃうの』
子供なんてそんなものだ、と俺は返した。
二つが、いま、一つのものとして目の前で動いている。文乃は、正しかった。
桶が二十並んだ。数えていたのは俺だけではなかったと思う。
日は屋根の向こうへ落ちかけていた。娘の影が石組みの上に長く伸びて、その先が井戸の中へ落ちている。手は下りない。
娘が振り返った。
「まだ出せるよ?」
「村長」
俺は石段のほうへ行った。
「いちばん遠い家は、どこですか」
「上の段のいちばん奥だ。北のはずれに二軒ある。あれもだいぶ歩く」
「牛は、何頭いますか」
「六頭。いや、七頭だな。今年、一頭増えた」
「溜めておける大きいものは、村にいくつありますか」
「樽なら、わしのところに二つ。染めもの用のがヨナスのところにある。あとは水瓶だ」
俺は桶を提げてきた者を二つに分けた。満ちた桶を運ぶ者と、空の桶を持ってくる者。運び先は近い家からにして、遠い家のぶんは樽をここまで転がしてきて、そこへ溜めることにした。
ヨナスが立ち上がって、坂を下りていった。しばらくして、男を二人連れて樽を転がして戻ってきた。俺が場所を指すと、そこへ据えて、蓋を外した。
娘は樽の口に手を向けた。
暗くなるころには、村の器がひととおり水を持っていた。おばさんが娘の頭に手を置いて、助かったよ、と言った。
「うん」
娘はそう返して、まだ残っている桶のほうを見ていた。それから、膝についた土を払って立ち上がった。
「おわり?」
「終わりだ」
「まだ出せるよ」
「明日、出してもらう」
娘は「うん」と言って、鶏を追いかけて帰っていった。
俺は残った者に、桶は明日の朝までに家の前へ置いていってくださいと言った。名前は書かなくていい、順に出しますので、と付け足した。
村じゅうの桶が、うちの土間の前に並んでいた。
文乃は、ノートを閉じたまま、ずっとそこに立っていた。




