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三歳の娘を探して異世界へ渡った。俺を見つけたのは、水を出す魔法を覚えた八歳の娘だった  作者: 船越千里
第二章 夏、二軒目の家

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娘は、桶が二十並んでも手を下ろさなかった

 縄を引き上げると、桶が軽かった。

 底に、指の関節ひとつぶんの水が入っていた。石組みの内側の、いつも濡れて黒くなっている段は、上から下まで乾いて白い。乾いた線を探すまでもなかった。線のほうが、底まで下りていた。

 札を配ってから、何日か経っていた。朝のうちは上の段の家、日が高くなったら下の家。その順は初めの二日はよく回って、三日目からは、順番が来ても汲むものが無くなった。

 麦はもう刈って屋根の下にある。畑の話をする者は、いなくなっていた。井戸端に立っているのは桶を提げた者ばかりで、その桶がどれも空だった。

「牛を、川のほうへ連れていくかね」

「川も細いよ。あそこまで引いていって、飲ませて、それで帰ってこられるかい」

 おばさんの一人が、桶の上に手をかざした。水が出て、桶の半分より少し下のところで細くなり、途切れた。

「……今朝はもう出したからね」

 半分で止まるものらしい。そういうものなのだと思った。

 村長は石段にいた。日当たりのいいその場所は、いまは村でいちばん暑い場所になっている。それでも動く気配がなかった。

「札を配ったのはな、待つのを減らすためだ。待つのが減れば、そのぶん汲める」

 老人は膝の上で手を組んだ。

「汲むものが無ければ、順も何もない。あれは、水を増やす道具じゃないからな」


 その日のうちに、井戸を掘り下げにかかった。

 縄を伝って底まで降りた。石組みの下は素掘りで、壁を指で掻くと砂がぼろぼろ落ちた。乾いた砂だ。湿るところまで下げれば水は戻ってくる。そう見当をつけて、上に人手を頼んだ。

 翌朝、来たのは四人だった。そのうちの一人がヨナスだった。

 俺が底で掘り、上で桶を引き上げてもらった。昼までに、俺の背丈ぶんほど下げた。砂は途中から色が濃くなったが、握っても固まらなかった。午後、鉄の棒を打ち込んだら先が跳ね返ってきて、手のひらまでしびれた。岩だった。


 東の流れも、もう一度見に行った。

 取り入れ口にするつもりだった場所は、石ばかりになっていた。水は石のあいだを縫って細く下っている。手を入れると、指の第二関節までしか浸からなかった。

 家の横には、皮をむいた丸太が置いたままになっている。二十本のうち、十二本まで剥いてある。引く水が無ければ、樋はただの木だ。


 夜、板に数を書いた。一日に井戸から上がる量。家の数、人の数、牛の数。飲ませる量から割り戻して、どの家に何杯を回すかを書いた。

 書けた。書いたものを全部足すと、上がってくる量の三倍になった。

 どこにも、増えるところが無い。


 次の朝、俺は板を持たずに井戸へ行った。

 ヨナスが先に来ていて、もう底の砂を上げていた。ほかに三人いた。俺は縄を受け取って、桶を引いた。

 昼まで掘って、また岩に当たった。

「どうするのがいいですか」

 顔を上げて、掘っていた者たちに訊いた。

 誰もすぐには答えなかった。ヨナスは手を止めなかった。

 石段のほうから、村長の声がした。

「どうにもならん」

 老人はそこから動かずに続けた。

「この村の水はな、山から下りてきて、地面の下を通って、ここに溜まる。上で降らなけりゃ、下も来ん。あんたが掘ってるのは通り道じゃない。溜まるところだ。溜まるところを深くしても、来ないものは来ん」

 俺は、そうですかとだけ言った。

 ヨナスが鍬を持ち直して、俺の掘っていたところから二歩ずれた場所を掘りはじめた。何も言わなかった。俺は桶をそちらへ回した。二人でそこを膝の深さまで下げた。砂は乾いたままだった。


 娘は、朝から手伝いに来ていた。

 上げた土を籠に入れて、井戸から離れたところまで運んではあけている。往復するたびに、いちばん小さい鶏がうしろをついていった。

「おとうさん、この穴、どこまで掘るの」

「……分からん」

「あのね、さっき鶏が籠に入ってたの。土といっしょに運んじゃうところだった。二回。二回とも入るの。土が好きなのかな。それか、わたしのこと待ってるのかも。待つなら籠の外で待てばいいのに」

 娘は籠を持ち上げて、それからまた下ろした。

「ねえ、みんな、なんで立ってるの」

「水が出ない」

「井戸の?」

「井戸のだ」

 娘は井戸端に並んだ桶を見た。空の桶が、日に照らされて内側まで乾いている。ずいぶん長いあいだ、そちらを見ていた。

「水、いるの」

「……いる」

「どのくらい?」

 答えられなかった。

「わたし、出そうか」

 薪を運ぼうか、と言うのと同じ言い方だった。

 おばさんが笑った。

「つむぎのぶんまでもらったら、罰が当たるよ」

「一杯でも助かるけどねえ。うちの樽、底のほうだけでも」

「あんたの樽は底が抜けてるだろ」

「直すよ。そのうち直す」

 笑い声が起きて、それで終わった。誰も本気にしていない。桶ひとつぶんの話だと思っている。

「つむぎ、それは……」

 言いかけて、やめた。

 娘は俺のほうを見て、それから桶へ歩いていった。いちばん手前の桶の前にしゃがんで、手のひらを向けた。


 水が落ちて、桶の底を打った。はじめは高い音がして、溜まるにつれて低くなった。

 一つ目が縁まで来た。娘は手を下ろして、隣の桶へ体を向けた。

「次、いい?」

「……ああ」

 二つ目。三つ目。桶を提げてきたおばさんが、満ちたのを持って帰り、空のを持って戻ってきた。

 五つ目のあたりで、井戸端が静かになった。

 さっき半分で途切れさせたおばさんが、自分の手のひらを見て、それから娘の手を見た。

「……そんなことは、できないよ」

 誰に言ったのでもなかった。娘には聞こえていない。

 日が動いた。石段の影が伸びて、井戸の縁に届いた。

 人が増えた。桶を持ってくる者、樽を転がしてくる者、何も持たずに見に来た者。村長が石段から立ち上がって、こちらへ二歩来た。それから、また座った。

 十を過ぎたあたりで、男の一人が娘の横にしゃがんだ。

「どうやって出してるんだ」

「出てるよ?」

 娘は男の顔を見て、それから桶を見た。何を訊かれたのか分かっていない顔だった。

「疲れないのか」

「つかれない」

 娘は次の桶へ移った。男は立ち上がって、自分の手のひらを見た。

 いちばん小さい鶏が、並んだ桶の縁を端から歩いていって、三つ目で落ちた。娘が振り向いて笑った。

「今日も落ちた」

 文乃がいつのまにか来ていた。いつからそこにいたのか、分からなかった。

 俺は、この子が水を出すのを初めて見た日のことを思い出していた。土間の水瓶の前で、どうやるのかと訊いた。こう、と言われた。手のひらをひらひらさせただけで、答えになっていなかった。説明できないのに、できている。あのときそう思って、そこで止めていた。

 文乃が昔、俺に言ったことがある。

『教わったとおりにはやらないの。それで、ちゃんとできちゃうの』

 子供なんてそんなものだ、と俺は返した。

 二つが、いま、一つのものとして目の前で動いている。文乃は、正しかった。

 桶が二十並んだ。数えていたのは俺だけではなかったと思う。

 日は屋根の向こうへ落ちかけていた。娘の影が石組みの上に長く伸びて、その先が井戸の中へ落ちている。手は下りない。

 娘が振り返った。

「まだ出せるよ?」


「村長」

 俺は石段のほうへ行った。

「いちばん遠い家は、どこですか」

「上の段のいちばん奥だ。北のはずれに二軒ある。あれもだいぶ歩く」

「牛は、何頭いますか」

「六頭。いや、七頭だな。今年、一頭増えた」

「溜めておける大きいものは、村にいくつありますか」

「樽なら、わしのところに二つ。染めもの用のがヨナスのところにある。あとは水瓶だ」

 俺は桶を提げてきた者を二つに分けた。満ちた桶を運ぶ者と、空の桶を持ってくる者。運び先は近い家からにして、遠い家のぶんは樽をここまで転がしてきて、そこへ溜めることにした。

 ヨナスが立ち上がって、坂を下りていった。しばらくして、男を二人連れて樽を転がして戻ってきた。俺が場所を指すと、そこへ据えて、蓋を外した。

 娘は樽の口に手を向けた。

 暗くなるころには、村の器がひととおり水を持っていた。おばさんが娘の頭に手を置いて、助かったよ、と言った。

「うん」

 娘はそう返して、まだ残っている桶のほうを見ていた。それから、膝についた土を払って立ち上がった。

「おわり?」

「終わりだ」

「まだ出せるよ」

「明日、出してもらう」

 娘は「うん」と言って、鶏を追いかけて帰っていった。

 俺は残った者に、桶は明日の朝までに家の前へ置いていってくださいと言った。名前は書かなくていい、順に出しますので、と付け足した。


 村じゅうの桶が、うちの土間の前に並んでいた。

 文乃は、ノートを閉じたまま、ずっとそこに立っていた。


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