俺の段取りは正しくて、それでも誰も動かなかった
板に炭で線を引いた。
左の端が村の東の流れ、右の端が段になった畑のいちばん上になる。そのあいだに、数字を書き込んでいった。
距離は歩いて測った。取り入れ口から畑の上手まで、二百三十歩。高さは縄に結び目を作って、三度往復して出した。流れのほうが、俺の背の二つ分ほど上にある。落ちる分は足りている。
「……できるの、それ」
文乃が、いつのまにか横から覗き込んでいた。
「できる」
決めなければならないのは、どれだけ緩く落とすかだった。急にすれば水が跳ねて、継ぎ目から逃げる。緩すぎれば途中で溜まって腐る。丸太を縦に割って内側を刳り、継ぎ目は重ねて、上から布を巻いて土で押さえる。受けは畑の上手に一つ据える。そこから下は、いまある溝がそのまま使える。
材は、村の裏の林の細いのを二十本。刳るのに三人、据えるのに五人。四日あれば水は来る。
炭を置いて、板を裏返した。
裏には、井戸から畑まで女たちが桶を提げて上がる回数を書いてある。朝と夕で、一人あたり四往復。段の上のほうの家は六往復していた。
「これが、要らなくなる」
文乃は、板の上の線を指でたどった。それから何も言わずに、自分のノートを開いた。
娘には言わなかった。決まっていないことを先に言うと、あとで説明することが増える。
誰にどの順で話すかは、もう決めてある。村長、ヨナス、それから手の空いている者。
村長は、いつもの石段にいた。
「まず、水を汲み上げる話ではありません。上から下ろす話です」
板を回して、村長のほうへ向けた。老人は目を細めて、線の端から端まで見ていった。
「東の流れが、畑より高いところにあります。あそこから樋で引けば、水は勝手に下ります。人手が要るのは据えるときだけで、あとは何も要りません」
「……水が、勝手に下りるか」
「下ります。高いところから低いところへしか行きませんので」
村長は板を指で押さえて、俺の描いた線をなぞった。爪の先が、取り入れ口のところで止まった。
「よく見てあるな。あんた、あの林まで上がったのか」
「はい。材も見てきました。細いのを二十本ほど使います。太いのには手をつけません」
それから、桶の往復の数を話した。段の上のほうの家がどれだけ余計に歩いているかを話した。村長は「ほう」と言い、「そりゃあな」と言った。手ごたえはあった。
最後に、老人は空を見た。
「……麦が近いな」
「はい。刈り入れの前に、材だけ揃えておきます。刈ったあとなら、四日で水が来ます」
村長はしばらく黙っていた。それから、日の当たるほうへ少し体をずらした。
「……あんたが言うなら、そうなんだろう」
断られてはいない。俺はそう受け取った。
その日のうちに、手の空いていそうな家を回った。板を見せて、初めから話した。相手が何を気にするかによって、入口だけを変えた。畑を持っている者には水の話から、若い者には材の話から入った。
誰も反対しなかった。
「……悪い話じゃないな」
「そうさなあ」
三軒目でそう言われ、四軒目でも同じことを言われた。五軒目の男は、板を最後まで見てから、こう言った。
「今はな。今は、やめといたほうがいいんじゃないか」
「なぜですか」
男は麦のほうを見た。それから俺のほうへ向き直って、「まあ、な」と言った。
俺は説明を足した。刈り入れの手は止めないこと。材は林から出すだけで、畑には一歩も入らないこと。刈ったあとの四日は、どの家からも一人ずつでいいこと。
足すほどに、相手の返事は短くなった。
材を出す日は、刈り入れの十日ほど前にした。
朝、林に来たのは、俺とヨナスと、あと二人だった。五人を見込んでいたが、二人足りない分は日を足せば済む。
丸太は思ったより素直だった。真っ直ぐな細いのを選んで根元から切り、枝を払って引き出す。ヨナスは鉈の扱いが速く、俺が一本を割るあいだに二本の皮を剥いていた。
「水の道な」
ヨナスが手を止めずに言った。
「うちの婆さんが聞いたら、なんて言うかな。水が坂を下りてくるなんて、行儀の悪い話があるかってさ」
「行儀は悪いですが、早いです」
「そりゃそうだ」
昼前に、取り入れ口の話になった。
「上の段の脇から入れます。あそこなら、いまある溝に落とせますので」
ヨナスの手が、そこで止まった。
「……あそこは、雨のときに水が来るところだ」
「はい。だから、そこへ入れれば溝がそのまま使えます。掘り直す必要がありません」
「順は」
「順、といいますと」
「上から入れたら、下まで一度に行くだろう」
「行きます。そのほうが早いので」
ヨナスは何も言わなかった。伝わっていないのだと思った。だから、続きを話した。
「いまは、上の段に水を入れて、下へ回すのに半日待つと聞きました。段ごとに順を決めて、待って、また回す。樋を通せば、待つ必要がありません。どの段にも、同じだけ行きます」
言ってから、少し考えて、付け足した。
「そのほうが、公平です」
残りの二人が、丸太のほうを見た。
ヨナスは鉈を丸太に立てて、それから抜いた。刃についた木屑を、親指で払った。
「……そうか」
道具をまとめて、林を下りていった。呼び止める理由が、思いつかなかった。
残った二人は、しばらく黙って皮を剥いていた。それから一人が「昼にするか」と言い、もう一人が「するか」と答えた。二人とも、午後は戻ってこなかった。
俺は、自分の言ったことを最初から並べ直してみた。距離も、落差も、材の数も、日数も、間違っていない。公平だというのも、間違っていない。
間違っているところが、一つも見つからなかった。
翌朝、林には誰も来なかった。
丸太を一本、肩に担いで下ろした。二本目を下ろして、腰を伸ばした。三本目に手をかけて、そこで置いた。
村は、何も変わらなかった。
井戸端で会えば挨拶をされたし、東のはずれの家の人には、壁の礼をもう一度言われた。ヨナスとも道で二度すれ違った。二度とも、向こうから顎を上げて寄越した。
樋の話だけが、どこにも出てこなくなった。断られたわけではない。話題にならないのだ。
何日かして、村長が石段から声をかけてきた。
「あの溝はな」
俺が足を止めると、老人は膝の上で手を組んだ。
「ヨナスの親父が死んだ年から、ヨナスが見てる。どこを先にするかは、その年の降り方で毎年変わる。上を先にする年もあれば、下からやる年もある。誰の畑がどれだけ乾いてるかを、あれは全部覚えてるんだ」
知らなかった。訊いてもいなかった。
俺は黙っていた。村長も、それ以上は言わなかった。日の当たるほうへ体を向け直して、また目を細めた。
その夜、文乃はノートを開いていた。
樋のことを訊かれるかと思ったが、訊かれなかった。娘の手のことを書いているらしく、ページをめくる音がずっとしていた。文乃の紙は、俺がどうであろうと増えていく。
戸の外で音がして、娘が入ってきた。
「おとうさん、あれなに? 家の横にある、長いの」
「樋だ。……水の道だな。上の畑まで、水を引く」
「水の道?」
娘は少し考えて、それから自分の手のひらを俺のほうへ向けた。
「……水は、もう出るよ?」
畑一枚に要る水は、桶で数えられる量ではない。言ってもしかたがないので、そうだな、とだけ返した。娘は「うん」と言って、それで終わりにした。
「あのね、鶏がね」
娘は敷居に座って、足をぶらぶらさせた。
「いちばん小さいのが、あれの上に乗ったの。長いやつの。乗って、端っこまで歩いて、落ちた」
「……そうか」
「そんで、もう一回乗った。三回やったよ。三回とも落ちた」
「なんでだろうな」
「わかんない。でも、たのしそうだったよ」
娘は言うだけ言って、水瓶を見に行った。もういっぱいだと分かると、満足して隣へ帰っていった。
俺は板を裏返して、竈の脇に立てかけた。
麦は、畑いちめんが黄色になった。
刈り入れは村総出で、俺も呼ばれた。手が要る仕事で、手だけなら足りている。三日で刈り終え、束にして、屋根の下へ運んだ。ヨナスは同じ畑にいて、束を渡すときには渡し、受け取るときには受け取った。
そのあいだ、一度も降らなかった。
井戸を覗いた。石組みの内側には、いつも濡れて黒くなっている段がある。その黒い段の上のほうに、乾いた線が一本出ていた。前に覗いたときには、無かった線だ。
村の東の流れを、もう一度見に行った。
水に浸かっていない石が、このあいだ来たときより広がっていた。




