俺たちが読んだ紙には、戻れないとだけ書いてあった
井戸の縁に手をかけて、畑のほうを見上げた。
井戸から段になった畑の上まで、歩いて数えると四十歩ある。高さは俺の背の三つ分ほど上だ。水は上へは流れない。上げるか、もっと高いところから持ってくるかのどちらかしかない。村の東に、山から下りてくる細い流れがあるのは見てある。あそこからなら、畑の上まで届く。
材が要る。人手も要る。この村には順番があることも、家を建てるときに覚えた。誰から話すか。
そこまで来て、手が止まった。
止まった理由は、すぐには分からなかった。家の隅に置いた荷の底に、まだあの紙の束が入っている。入口の前で拾って、あの日のうちに読んで、そのまま持ってきたものだ。
日が落ちるまでのあいだに読んだ。二人とも、その場を動かなかった。
罫線の入った、どこにでもある紙だった。上を綴じてあった跡がある。ノートを破いて使ったらしい。字は丁寧だった。急いだ手ではない。誰かに読ませるつもりで書いた字だ。
『水は飲める。流れているものなら、たいてい大丈夫だ』
それが、いちばん最初にあった。
『実の生るものは、赤いものだけ避けたほうがいい』
『道は一本しかない。三日ほど歩けば、人の住むところへ出る』
『刃物と、火を熾すものを持て。薬があるなら、持てるだけ持て』
いる物といらない物が、細かく書き分けてあった。どれも、実際にやってみた人間の書き方だった。荷のことは、最後にもう一度出てくる。
『重いものは、早いうちに捨てることになる。はじめから置いていくほうがいい』
親切な人だ、と思った。文乃が横から覗き込んでいた。
最後の一枚に、行を空けて、これだけがあった。
『この先へ進めば、二度と戻れない』
二度読んだ。それから、書いていないものを探した。
名前が無い。日付が無い。誰に宛てたのかも書いていない。なぜ自分が渡ったのかも、渡ってどうなったのかも、どこにも書いていない。置いた人間の身元に届くものは、一枚もなかった。
欠けているのは、それだけだった。
文乃が手を伸ばして、束を自分のほうへ引いた。最初から読んで、終わりまで行って、また最初に戻った。二度読むあいだ、何も言わなかった。読み終わるころには、もう字が見えなくなっていた。
「……私は、行くと思う」
顔を上げずに、文乃はそう言った。
断定はしなかった。それでも、言っていることは決まっていた。
「……そうか」
それ以上は訊かなかった。訊いても、同じ答えしか返らない。俺の答えも、もう同じところにあった。
戻れない、という一行の意味を、一度だけ手続きに置き換えてみた。会社。家。銀行。役所。畳んでいく先が、勝手に並んだ。並べ終わるのに、いくらもかからなかった。
畳むものが、思っていたより少なかった。
二人とも、その紙を疑わなかった。疑うだけの材料が無かったし、疑ったところで、ほかに行くあてが無かった。
家へ戻って、その晩のうちに、持っていくものを書き出した。
常備薬。保存食。娘の服。靴。ライター。懐中電灯。替えの電池。
どれも、あの子のためのものだ。俺に組めたのは、そこまでだった。
靴は、玄関にあるのを持っていくことにした。消えた日、そのまま残っていたやつだ。裸足で行った子に、履くものが要る。新しいのを買ってもよかったが、履き慣れたほうがいいだろうと思った。文乃が毎朝向きを直していた靴で、荷に入れたのも文乃だった。何も言わなかった。
保存食は、いちばん先まで保つものを選んだ。向こうに期限という考え方があるのかどうかも分からないのに、袋の裏の日付を一つずつ見比べた。
「……そんなに要るかしら」
替えの電池を詰めるだけ詰めたら、文乃が黙っていくつか抜いた。それでも残った分が何日もつのかは、二人とも知らなかった。
「……向こう、寒いのかしら」
文乃が、買ってきた上着を広げて言った。厚手の、袖に兎の刺繍が入ったやつだ。
「分からん。厚いほうを入れておこう」
寸法のほうは、迷わなかった。この子の数字は、消えた日のまま覚えている。
重いものははじめから置いていくほうがいい、と書いてあった。読んだうえで、持てるだけ詰めた。
置いていけるものが、一つも無かった。
実家には、行かなかった。
電話もしなかった。手紙も書かなかった。玄関に立って何を言えばいいのかを、道具を並べるように考えて、並べ終わる前にやめた。
十八のときと同じだ。あのときも工務店を継がずに就職を決めて、決めてから親父に言った。先に決めて、決まったことを伝える。仕事ならそれでいい。そう思うことにした。
二度目は、伝えもしなかった。
荷の底に、懐中電灯が一つ入っている。作業場で親父が道具箱から出して寄越したものだ。持っていけ、無いよりましだろう、と言われた。持っていく物のうち、俺が選ばなかったのは、これ一つだ。
家を出たのは、朝のうちだった。
鍵は郵便受けに入れた。誰かが取りに来るのかどうかは考えなかった。落として無くすよりはましだ、というだけの理由だ。
居間の隅の積み木は、崩さずに置いてきた。
娘の部屋の棚に、くまのぬいぐるみがあった。手に取って、荷の口に当ててみた。薬と食い物と上着で、もう詰まっている。かさばるものから外していったら、それが最初に外れた。
棚に戻して、戸を閉めた。
「……行きましょうか」
文乃が玄関で靴を履きながら言った。毎朝そこで向きを直していた場所だけが、空いていた。
入口には、日の高いうちに着いた。
どうやって渡ったのかは、うまく書けない。境目のようなものがあったわけではない。歩いていて、あるところから先は、もう帰り道が無かった。
道は一本だった。書いてあったとおりだった。
水は飲めた。赤い実は避けた。夜は火を熾して、交代で起きていた。人には一人も会わなかった。獣の声は聞いたが、姿は見なかった。
「……三日、って書いてあったね」
二日目の夕方に、文乃が言った。
その日の分の水を汲んで、二人で並んで座っていた。文乃は膝の上で束を開いて、また最初から読んでいる。もう暗くて、読めていたかどうかは分からない。
三日目の昼過ぎに、麦の畑と、その上の家並みが見えた。
俺たちは、娘が三つのままだと思って、そこへ入っていった。
「おとうさん、そんなとこ座ってると、お尻つめたいよ」
顔を上げると、娘が桶を提げて立っていた。
「あのね、ヨナスのおじさんが、今日も言ってた。つむぎの水は井戸のより冷たいって。同じだって言ったのに、また言うの。ねえ、同じだよね。おとうさんもそう思うでしょ。……あ、それとね、鶏がね、いっつも一羽だけおそく帰ってくるの。ちゃんと帰ってはくるんだけど」
「同じだな」
「でしょ」
娘は満足して、井戸のほうへ行った。桶を置く音が二つ続いて、それから鼻歌になった。
樋の話は、明日にでも村長のところへ持っていける。誰にどの順で話すかは、もう決めてある。
あの束には、水のことが書いてあった。道のことも、実のことも、持っていく物のことも書いてあった。戻れないことも書いてあった。
入口で拾った紙のことを、この人は今も時々思い出しているらしい。
私は、あそこに書いてあったことを一つも疑わなかった。書いてあったとおりに水は飲めたし、道は一本だったし、三日で村に着いた。それだけ当たったのだから、当たらなかったことがあるとは思わなかった。
証拠が手に入るというのは、こういうことなのかもしれない。元の世界では、私の言うことに証拠が無かった。ここでは、目の前で毎日起きている。
ノートのページが、また増えていく。
水が飲めることまで書いた人間が、五年のことは一行も書かなかった。
あの紙を書いた人間は、五年のことを、どこまで知っていたのか。




