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三歳の娘を探して異世界へ渡った。俺を見つけたのは、水を出す魔法を覚えた八歳の娘だった  作者: 船越千里
第二章 夏、二軒目の家

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俺たちが読んだ紙には、戻れないとだけ書いてあった

 井戸の縁に手をかけて、畑のほうを見上げた。

 井戸から段になった畑の上まで、歩いて数えると四十歩ある。高さは俺の背の三つ分ほど上だ。水は上へは流れない。上げるか、もっと高いところから持ってくるかのどちらかしかない。村の東に、山から下りてくる細い流れがあるのは見てある。あそこからなら、畑の上まで届く。

 材が要る。人手も要る。この村には順番があることも、家を建てるときに覚えた。誰から話すか。

 そこまで来て、手が止まった。

 止まった理由は、すぐには分からなかった。家の隅に置いた荷の底に、まだあの紙の束が入っている。入口の前で拾って、あの日のうちに読んで、そのまま持ってきたものだ。


 日が落ちるまでのあいだに読んだ。二人とも、その場を動かなかった。

 罫線の入った、どこにでもある紙だった。上を綴じてあった跡がある。ノートを破いて使ったらしい。字は丁寧だった。急いだ手ではない。誰かに読ませるつもりで書いた字だ。

『水は飲める。流れているものなら、たいてい大丈夫だ』

 それが、いちばん最初にあった。

『実の生るものは、赤いものだけ避けたほうがいい』

『道は一本しかない。三日ほど歩けば、人の住むところへ出る』

『刃物と、火を熾すものを持て。薬があるなら、持てるだけ持て』

 いる物といらない物が、細かく書き分けてあった。どれも、実際にやってみた人間の書き方だった。荷のことは、最後にもう一度出てくる。

『重いものは、早いうちに捨てることになる。はじめから置いていくほうがいい』

 親切な人だ、と思った。文乃が横から覗き込んでいた。

 最後の一枚に、行を空けて、これだけがあった。

『この先へ進めば、二度と戻れない』

 二度読んだ。それから、書いていないものを探した。

 名前が無い。日付が無い。誰に宛てたのかも書いていない。なぜ自分が渡ったのかも、渡ってどうなったのかも、どこにも書いていない。置いた人間の身元に届くものは、一枚もなかった。

 欠けているのは、それだけだった。

 文乃が手を伸ばして、束を自分のほうへ引いた。最初から読んで、終わりまで行って、また最初に戻った。二度読むあいだ、何も言わなかった。読み終わるころには、もう字が見えなくなっていた。


「……私は、行くと思う」

 顔を上げずに、文乃はそう言った。

 断定はしなかった。それでも、言っていることは決まっていた。

「……そうか」

 それ以上は訊かなかった。訊いても、同じ答えしか返らない。俺の答えも、もう同じところにあった。

 戻れない、という一行の意味を、一度だけ手続きに置き換えてみた。会社。家。銀行。役所。畳んでいく先が、勝手に並んだ。並べ終わるのに、いくらもかからなかった。

 畳むものが、思っていたより少なかった。

 二人とも、その紙を疑わなかった。疑うだけの材料が無かったし、疑ったところで、ほかに行くあてが無かった。


 家へ戻って、その晩のうちに、持っていくものを書き出した。

 常備薬。保存食。娘の服。靴。ライター。懐中電灯。替えの電池。

 どれも、あの子のためのものだ。俺に組めたのは、そこまでだった。

 靴は、玄関にあるのを持っていくことにした。消えた日、そのまま残っていたやつだ。裸足で行った子に、履くものが要る。新しいのを買ってもよかったが、履き慣れたほうがいいだろうと思った。文乃が毎朝向きを直していた靴で、荷に入れたのも文乃だった。何も言わなかった。

 保存食は、いちばん先まで保つものを選んだ。向こうに期限という考え方があるのかどうかも分からないのに、袋の裏の日付を一つずつ見比べた。

「……そんなに要るかしら」

 替えの電池を詰めるだけ詰めたら、文乃が黙っていくつか抜いた。それでも残った分が何日もつのかは、二人とも知らなかった。

「……向こう、寒いのかしら」

 文乃が、買ってきた上着を広げて言った。厚手の、袖に兎の刺繍が入ったやつだ。

「分からん。厚いほうを入れておこう」

 寸法のほうは、迷わなかった。この子の数字は、消えた日のまま覚えている。

 重いものははじめから置いていくほうがいい、と書いてあった。読んだうえで、持てるだけ詰めた。

 置いていけるものが、一つも無かった。


 実家には、行かなかった。

 電話もしなかった。手紙も書かなかった。玄関に立って何を言えばいいのかを、道具を並べるように考えて、並べ終わる前にやめた。

 十八のときと同じだ。あのときも工務店を継がずに就職を決めて、決めてから親父に言った。先に決めて、決まったことを伝える。仕事ならそれでいい。そう思うことにした。

 二度目は、伝えもしなかった。

 荷の底に、懐中電灯が一つ入っている。作業場で親父が道具箱から出して寄越したものだ。持っていけ、無いよりましだろう、と言われた。持っていく物のうち、俺が選ばなかったのは、これ一つだ。


 家を出たのは、朝のうちだった。

 鍵は郵便受けに入れた。誰かが取りに来るのかどうかは考えなかった。落として無くすよりはましだ、というだけの理由だ。

 居間の隅の積み木は、崩さずに置いてきた。

 娘の部屋の棚に、くまのぬいぐるみがあった。手に取って、荷の口に当ててみた。薬と食い物と上着で、もう詰まっている。かさばるものから外していったら、それが最初に外れた。

 棚に戻して、戸を閉めた。

「……行きましょうか」

 文乃が玄関で靴を履きながら言った。毎朝そこで向きを直していた場所だけが、空いていた。


 入口には、日の高いうちに着いた。

 どうやって渡ったのかは、うまく書けない。境目のようなものがあったわけではない。歩いていて、あるところから先は、もう帰り道が無かった。

 道は一本だった。書いてあったとおりだった。

 水は飲めた。赤い実は避けた。夜は火を熾して、交代で起きていた。人には一人も会わなかった。獣の声は聞いたが、姿は見なかった。

「……三日、って書いてあったね」

 二日目の夕方に、文乃が言った。

 その日の分の水を汲んで、二人で並んで座っていた。文乃は膝の上で束を開いて、また最初から読んでいる。もう暗くて、読めていたかどうかは分からない。

 三日目の昼過ぎに、麦の畑と、その上の家並みが見えた。

 俺たちは、娘が三つのままだと思って、そこへ入っていった。


「おとうさん、そんなとこ座ってると、お尻つめたいよ」

 顔を上げると、娘が桶を提げて立っていた。

「あのね、ヨナスのおじさんが、今日も言ってた。つむぎの水は井戸のより冷たいって。同じだって言ったのに、また言うの。ねえ、同じだよね。おとうさんもそう思うでしょ。……あ、それとね、鶏がね、いっつも一羽だけおそく帰ってくるの。ちゃんと帰ってはくるんだけど」

「同じだな」

「でしょ」

 娘は満足して、井戸のほうへ行った。桶を置く音が二つ続いて、それから鼻歌になった。

 樋の話は、明日にでも村長のところへ持っていける。誰にどの順で話すかは、もう決めてある。

 あの束には、水のことが書いてあった。道のことも、実のことも、持っていく物のことも書いてあった。戻れないことも書いてあった。



 入口で拾った紙のことを、この人は今も時々思い出しているらしい。

 私は、あそこに書いてあったことを一つも疑わなかった。書いてあったとおりに水は飲めたし、道は一本だったし、三日で村に着いた。それだけ当たったのだから、当たらなかったことがあるとは思わなかった。

 証拠が手に入るというのは、こういうことなのかもしれない。元の世界では、私の言うことに証拠が無かった。ここでは、目の前で毎日起きている。

 ノートのページが、また増えていく。



 水が飲めることまで書いた人間が、五年のことは一行も書かなかった。

 あの紙を書いた人間は、五年のことを、どこまで知っていたのか。


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