おうちが二つになっても、わたしのやることは同じだった
「おとうさーん。おかあさーん。起きてる?」
外から声をかけてから、縄で吊った戸を押した。中はまだ薄暗くて、土間の隅でおとうさんが起き上がるのが見えた。
「……早いな」
「早くないよ。もう鶏が鳴いたもん」
うちの鶏は三羽いて、いちばん小さいのがいちばん先に鳴く。あれが鳴いたら朝だ。
わたしは水瓶の前にしゃがんだ。こっちのおうちにも、水瓶ができた。うちのよりずっと新しくて、内側がまだ白い。
手のひらを口の上に向ける。水が出る。底を打つ音が、はじめは高い。
「あっ」
思わず声が出た。音がちがう。うちの水瓶はもっと低くて、ぼこぼこいう。新しいのは、かん、かん、って上のほうで鳴る。
目をつぶってみた。たまってくると、だんだん低くなっていく。いまはこのへん、と思って目を開けたら、当たっていた。当たると気持ちがいい。
水が縁の指二本下まで来たので、手を下ろした。
「これでいっぱい」
それ以上は出さない。入るところが無いのに出しても、こぼれるだけだ。
「あのね、こっちのおうちは、まだ干すものが少ないでしょ。だから先にこっちをやるの。うちのは多いから、あと。順番、決めたんだ」
おとうさんは「そうか」と言って、それからちょっと黙って、「助かるよ」と言った。
竈にも火を入れた。細い枝に手をかざして、ぱっと赤くなったら、もう一本足す。ぱちぱち鳴りだすまでのあいだが、いちばん好きだ。こっちの竈はまだ土が新しくて、火の音がうちのより固い。
おうちが二つになって、やることも二つになった。朝にやることも、夕方にやることも、ぜんぶ二回ある。
わたしは、そのほうがいいと思う。二回できるからだ。
おかあさんは、いつも見ている。
わたしが水を出しているときも、火を入れているときも、少し離れたところに立って見ている。それから、小さい紙の束をひらいて、なにか書く。
紙の束は、はじめて会った日から持っている。いつのまにか、うちの中にあるのが当たり前になった。
「なに書いてるの」
「……いろいろ」
おかあさんは、そう言うようになった。前は「なんでもないの」だった。いろいろ、のほうがいい。なんでもなくはないもん。
その朝、おかあさんがわたしの手を取った。ひっくり返して、指の腹をおしてみて、それからまた書いた。前もやられたので、じっとしていた。くすぐったくはない。
書きおわってから、おかあさんは紙を見たまま言った。
「……あの水は、どこから来ているのかしら」
わたしのほうを見ないで言うので、独り言かと思った。でも、待っている顔だった。
「えっとね」
わたしは水瓶を指した。
「ここに、出るの」
「……うん」
「出るときは、出るの。こう、して、こうしたら」
手のひらを向けて、動かしてみせた。でも、それだと出ないので、手を下ろした。出そうと思ってないときは出ない。
言おうとしたら、言葉が先に無くなった。頭の中には、ちゃんとある。ある気がする。でも、口から出るところで消えてしまう。
「……わかんない」
困ったので、そう言った。
おかあさんは怒らなかった。早くしなさいとも言わなかった。
「そう」
それだけ言って、また書いた。ちょっとだけ長く書いていた。
「あのね、鶏がね、いちばん小さいのがいちばん強いんだよ。おっきいのを追いかけるの。それでね、うちの前の石、あれ、朝はつめたくて、昼はあったかいの。座るならお昼のほうがいいよ」
言いたいことができたので、そっちを言った。おかあさんは「そうなの」と言って、鶏のことは書かなかった。石のことも書かなかった。
書くものと、書かないものがあるらしい。
昼前に、井戸へ行った。おかあさんもついてきた。
井戸端にはいつもだれかいる。おばさんたちが桶を並べて、洗って、しゃべっている。
「つむぎ、おはよう。あんた、また二軒ぶん働いてるのかい」
「うん。二軒あるから」
「たいしたもんだよ。うちの息子なんか、桶ひとつ運ぶのに三回休むからね。休んでるあいだに水が乾いちまう」
おばさんは笑って、それから空を見上げた。
「……しかし、降らないねえ」
まわりのおばさんたちも、そろって空を見た。わたしも見た。青くて、雲が細いのが一本あるだけだった。
「去年の今ごろは、もう二回は降ってたよ」
「三回だよ。あたしは覚えてる。畑に入れなくて、亭主が家でごろごろしてたもの」
「あんたのとこはいつでもごろごろしてるじゃないか」
みんなで笑った。麦の穂は、このあいだよりまた色が濃くなっていた。畑のほうまで黄色が来ている。
降らないと困る、という話らしい。うちの水瓶はいつもいっぱいだから、わたしはあんまり困らない。
おばさんの一人が、桶の上に手をかざした。水が出て、桶がいっぱいになるまえに止まった。それからその人は「ふう」と言って、桶を引き寄せて洗いはじめた。もう一人が、次の桶を出す。順番に出す。みんなそうする。
「つむぎ、あんたも一つおくれ」
「いいよ」
わたしも手をかざした。桶が満ちたので、止めた。
「ありがとね。助かるよ」
役に立った。うれしい。
おかあさんが、それを見ていた。
わたしの水を見るときと、同じ顔だった。桶が満ちるまでのあいだ、じっと見て、それから紙に書いた。ほかの人が出すときも、また書いた。
よその人の水も見るんだ、と思った。
なにを書いているのかは、やっぱり分からない。
午後は、おとうさんのところへ行った。
村の東のはずれで、家の壁を直している。おとうさんとヨナスのおじさんと、あと二人。土を練るのに水がいるので、わたしが運ぶことになっている。桶を両手で抱えて、こぼさないように歩く。これはわたしの仕事だ。
「おう、来たか。待ってたぞ」
ヨナスのおじさんが手を振った。
「水は、つむぎのが冷たいからな」
「井戸のと同じだよ」
「同じじゃないね。俺には分かる」
同じなのに。でも、うれしかったので、そういうことにしておいた。
おとうさんは壁の前でしゃがんで、下のほうを指で押していた。
「ここは去年塗り足したところですね。上と乾き方がちがうので、先に濡らしてからのほうがいい」
「……そんなもん、分かるのか」
「押せば分かります」
家の人が来て、おとうさんに何か訊いた。おとうさんが答えると、その人はうなずいて、道具を取りに行った。
しばらく見ていたら、みんなおとうさんに訊きに来ることが分かった。どこから塗るか、どのくらい水を足すか、いつまでに終わるか。おとうさんは、そのたびに手を止めて答える。
はじめて会った日、わたしはおとうさんの手を見て、村の人みたいだと言った。ほんとうにそうだった。
わたしは二回、水を運んだ。三回目を運んでいったら、みんな飲んでしまって、桶が空になった。
「もう一回、いる?」
「いる」
ヨナスのおじさんが即答した。
四回目を持っていく途中で、ヨナスのおじさんが桶を受け取ろうとして、また尻もちをついた。水はこぼれなかった。おじさんだけが地面に座っていた。
「……今のは、石があった」
「なかったよ」
「あったんだ」
わたしが地面を見ても、なにも無かった。おとうさんが笑うのをこらえているのが、横から見えた。
日が暮れて、三人でごはんを食べた。
わたしのぶんと、おとうさんのぶんと、おかあさんのぶん。うちのぶんは、朝のうちにいつもどおり一分けよけてある。サナの分だ。
今日はサナは帰ってこなかった。前もそうだった。その前もそうだ。よけた分は悪くならないようにしてあるから、いつでもいい。
「じゃあ、帰るね」
立ち上がると、おかあさんが紙の束を閉じた。おとうさんは戸のところまで出てきた。
「明日は、朝いちばんに来なくていいぞ」
「なんで?」
「……いや。来ていい」
変な人だ。言いかけてやめるのは、いつものことだけど。
外は暗かった。おとうさんにもらった、まるくて長いあかりを押す。白い丸が地面を走る。うちの戸口までは二十歩くらいで、あかりが無くても行けるけど、あったほうが楽しい。
「……そこ、いま踏んだ」
丸を先に走らせて、追いかけて、追いついたところで踏む。そうやって帰る。
うちに入って、水瓶を見た。ちゃんといっぱいだ。よけた分にも布がかかっている。干したものは畳んである。
「ただいま」
だれもいないけど、言う。言っておくと、帰ってきた感じがする。
あかりを消して、横になった。
隣のおうちのほうから、まだ小さく声がしている。二人でなにか話しているらしい。壁ごしに、音だけが来る。
おとうさんとおかあさんのおうちと、うちと、どっちもうちだ。
でも、寝るのはこっちだ。




