娘がいなくなった日、積み木だけが残っていた
「ねえ、おとうさんたちは、どうやってここに来たの」
水瓶に水を入れに来た娘が、ふと手を止めてそう言った。
家が建って三日目の朝だった。まだ床は張っていない。壁の隙間から差し込んだ光が、土間に細い筋を引いている。壁の匂いも、木の匂いから暮らしの匂いへと少しずつ変わりはじめていた。外では麦の穂が、また少し色を濃くしている。
答え方を、俺は用意していなかった。
「……歩いてきたんだ」
娘は「ふうん」と答え、それから「……あのね、ヨナスのとこの屋根、こっちより先に葺いたんだよ。知ってた?」と続けて、また水瓶のほうへ戻っていった。深追いはしてこない。柄杓を傾けて、水の落ちる音に耳を澄ませている。娘にとっては、そのくらいの答えで足りるらしかった。
足りたのは、娘のほうだけだった。
俺の頭の中では、あの日からの同じ問いが、まだ答えを待っている。順を追って話そうとするたびに、どこから話せばいいのかが後ろへ下がっていく。
少し離れたところで、文乃が洗濯物を干している。娘の問いは、文乃の耳にも届いていたはずだった。それでも、文乃は振り返らなかった。
娘が消えたのは、あの家の居間だった。三歳になって、まだひと月と経っていなかった。
よく晴れた昼下がりだった。文乃は台所に立ち、俺は食卓で書類に目を通していた。娘は居間の隅で積み木を積んでいた。よくある午後だった。
「お茶、入れるけど」
文乃の声に、生返事をした。何も変わったところは無かった。
積み木の積み上がる音が、途切れたことにも気づかなかった。
顔を上げたときには、もう積み木だけが残っていた。
いつもの積み方ではなかった。教えたとおりだと、下から大きい順に重ねる。娘が残していったのは違う順番だった。小さいのを真ん中に置き、大きいのをまわりに立てて、それでも崩れずに立っていた。
教えたとおりにはやらない子だった。そのときはまだ、ただの癖だとしか思っていなかった。
「……つむぎ?」
名前を呼んだ。返事は無かった。
「見てない」
文乃が台所から顔を出して言った。声の端に、まだ不安は無かった。すぐ見つかると思っていた。
二人で家じゅうを見た。押し入れも、ベランダの隅も、玄関の靴箱の裏も見た。庭を見た。隣の敷地との境の垣根も見た。それでも見当たらなかった。
声が変わったのは、そのあたりからだった。「つむぎ」と呼ぶ声が、二人とも高くなっていった。
「……いない」
文乃が言った。それだけの一言に、もう震えが混じっていた。
考えるより先に、体が動いた。近所を一軒ずつ回った。交番へ走った。防犯カメラのある通りを確かめた。
日が暮れても、見つからなかった。それでも、明日どこを回るかだけは決めて、その晩は横になった。
積み木は片づけられなかった。あの積み方のまま、ずっと居間の隅に残った。
それから数ヶ月、思いつく限りをあたって、何ひとつ見つからなかった。
探した日数は、九十一日。警察に足を運んだ回数は、十四回。数えていたのは、次の手を決めるためだ。同じ場所をもう一度あたるのか、別のやり方に変えるのか、決めるのに要る。
数えられるものは、そうやって片づいていった。数えられないものだけが、手元に残った。
会社は辞めた。上司には何度か引き止められたが、断った。引き継ぎの書類だけは、最後まできちんと作った。誰かに迷惑をかけたくはなかった。
金属探知機を買ったこともある。型番を調べて、いちばん深くまで届くものを選んだ。使い方は、説明書を一度読めば分かった。河川敷を端から歩いて、拾えたのは釘と、小銭と、誰かの家の鍵だった。
「それで、なにが出てくると思ってたの」
文乃に訊かれて、答えられなかった。娘は金属ではない。それは、買う前から分かっていた。
結局、一度きりでやめた。
実家にも顔を出した。工務店を継がなかった息子が、妙にあらたまって玄関に立った。
親父は何も訊かなかった。娘がいなくなったことは、もう伝えてある。
「茶ぐらい飲んでいけ」
通されたのは作業場だった。木の削りかすの匂いが、子供のころのまま残っている。棚に並んだ道具も、覚えているとおりだった。
親父は鉋を出してきて、刃を指の腹で確かめ、砥石を出し、そのあいだじゅう喋っていた。去年の台風でどこの屋根が飛んだか。若い衆が二人辞めて、そのうち一人が戻ってきたこと。近ごろの合板は反りが早い。俺が子供のころに聞かされたのと、中身は何ひとつ変わっていない。
「その手つき、昔よく真似して怒られた」
「危ないからな」
それで話は途切れ、また台風の続きに戻った。
二時間ばかりいて、親父は一度も娘の名前を出さなかった。「継いでいれば」とも、「大変だな」とも言わなかった。喋りたいことがあって喋っているのではないのだと、途中から分かった。
帰り際、道具箱から古い懐中電灯を一つ出して寄越した。
「持っていけ。無いよりましだろう」
責められるほうが、まだ楽だったかもしれない。何も言われないまま、しばらく道具の並びを眺めて、それから帰った。
車を出すとき、バックミラーに親父が映った。作業場の戸口に立ったまま、動かずにこちらを見ていた。手を振ることも、何か言うこともなかった。
文乃は、探すのをやめなかった。ただ、口数だけが減っていった。もっとも、減りはじめたのがあの日からなのかどうかも、俺には言えない。
いつからだったのか、俺は思い出せない。気づいたときには、もう黙っていた。食も細くなっていた気がするが、それもいつからかは分からない。夜、隣で眠っているはずの寝息が、やけに浅く聞こえた日もあった。何か訊いても、「かもしれない」としか返ってこない日が増えていた。
ある晩、居間の灯りを消しに行くと、文乃が床に座ってチラシの束を数えていた。娘の顔が刷ってある紙だ。指を舐めて、一枚ずつめくっていく。数え終えると、また最初から数えた。
「……足りてる」
そう言って、束を膝の上で揃えた。何が足りているのかは、訊かなかった。
玄関には、娘の小さな靴が、行方が分かるまでという理由で、そのまま揃えて置いてあった。文乃が毎朝その向きを直していることに、俺はしばらく気づかなかった。
一度だけ、文乃が自分から言ったことがある。夜、台所で洗い物をしていたときだった。
「……あの子は、待ってるんじゃないかと思う。どこかで、ちゃんと」
断定はしなかった。それでも、その一言だけは自分から出した。
俺はうまく相槌が打てなかった。何か言おうとして、結局何も言わなかった。
文乃がどんな顔でそれを言ったのか、俺はちゃんと見ていない。手元の書類から、目を上げなかった。
「……先に休むね」
文乃はそれだけ言って、洗い物の続きに戻った。
それが、俺たちの探し方だった。俺は次にあたる場所を決め、文乃は黙って探し続けた。
食卓の椅子は、三脚のままだった。片づけようとしたことが一度あるが、文乃が黙って戻した。それきり、俺も何も言わなくなった。
二人とも、同じ子を探していたはずだった。
その数ヶ月の、いちばん終わりに、俺たちは入口の前に立っていた。
どうやってそこへ辿り着いたのか、うまく説明できない。心当たりを一つずつ潰していった先に、それがあった、としか言いようがない。
もう心当たりも、残り少なくなっていた。ここで見つからなければ、次にどこへ行けばいいのか、俺にも分からなくなっていた。
文乃の足取りは、もう何日も前から重かった。それでも、ここまで来て足を止めることはしなかった。
「……ここ、なのかな」
文乃がぽつりと言った。俺には、頷くことしかできなかった。日が傾いて、二人の影が長く伸びていた。
そこに、紙の束が置かれていた。風で飛ばないように、上から平たい石がひとつ載せてある。誰かが、先にここを通っていったらしい。
文乃が石をどけて拾い上げ、俺の手に渡した。
その場で開いた。暗くなる前に読んでおかなければならなかった。
最初の一行を読んだだけで、ここで間違っていないことが分かった。




