俺は娘の家の隣に、家を建てはじめた
麦の穂が、色づきはじめている。晩春の青さはもう褪せて、風が吹くたびに穂先が淡い黄に光った。
土地は、娘の家の隣にあった。畑を起こすつもりで借りた土地だったが、まず要るのは屋根だと村長には断ってある。区画は南に向いて緩く傾いており、俺は縄も定規も持たずに、大股で歩数を数えながら測った。横に八歩、奥へ五歩ほど。この傾きなら、雨の逃げ道は考えなくていい。
隅の一箇所を、試しに浅く掘ってみた。土は締まっており、大きな石も根も出てこない。基礎を置くには申し分ない地面だった。
「ここでよろしいでしょうか」
村長に確かめると、老人は日向で頷いた。
「そこはもう二代ばかり誰も耕しておらん。あんたが起こすなら、そのほうが土のためだ」
「……ただ」
村長は少し間を置いてから続けた。
「先に頼まれている、家を建てる仕事が隣の区にある。あそこは去年、屋根を落としてな。そっちを先に片づけてからになるが、構わないか」
「はい。お待ちします」
俺は素直に頷いた。急いで割り込むより、待つほうが結局は早い。そのくらいの計算はできた。
少し離れたところで、文乃が麦畑のほうを眺めていた。何も言わなかったが、ここでいい、と思っているのが伝わってきた。
順番が回ってくるまで、十日ほどかかった。そのあいだに、麦の穂はまた一段、色を濃くした。
隣の区では、朝になると男たちが集まり、夕方には解けていった。屋根を落としたという家に、日ごとに柱が増えていくのが遠目にも分かる。専業の職人が来る様子はない。集まっているのは、どれも見覚えのある顔だった。
手を貸した者のところへ、順に手が返っていく。そういう回り方をしているのだと、見ているうちに分かってきた。俺の番はいちばん後ろにある。当たり前のことだった。
村の男たちが数人がかりで基礎の石を運んできたのは、そうして待ったあとのことだった。俺も加わった。
地面を突き固め、四隅に据える石の高さを揃える。順序を間違えると、あとで柱が傾く。日差しはもう晩春のものではなく、動くとすぐに汗ばむ強さになっていた。
石を組んでいた男が、俺の手元をちらりと見て、小さく頷いた。屋根の葺き直しを手伝った男だった。
「……ヨナスだ」
村長が「ヨナス、そっちの端を頼む」と呼ぶのを、俺はそれまで何度か聞いていた。名前と顔が、ようやくつながった。名を寄越されるまでに、十日かかったことになる。
「杉本直です。よろしくお願いします」
ヨナスの手が、一瞬止まった。
「……家名持ちか。直の家は、どこの領地だ。聞いたことがないな」
名の並びを取り違えられているのだと、遅れて気づいた。
「いえ、直が俺自身の名です。杉本が家の名で」
「……順が逆じゃないか」
「俺のいた国では、家の名が先に来るので。誰でも家の名を持ちますよ、身分にかかわらず」
ヨナスは眉を寄せ、それから声を出して笑った。
「逆さの国か。そりゃあ、地図の端まで行けば何が出てくるか分かったもんじゃないな」
冗談として片づけられたらしい。俺には、そのほうが都合がよかった。
柱を立てる段になって、俺は水を張った桶を持ち出した。
「なんだ、それは」
ヨナスが覗き込んでくる。
「水面は、いつも水平になるので。縁と見比べれば、柱が傾いているかどうか分かります」
ヨナスは桶を覗き、柱を睨み、また桶を覗いた。それから水面に指を突っ込んで波を立て、収まるまでじっと見ていた。
「……お前、変わったやり方をするな。うちの婆さんが見たら、水を粗末にするなと怒るぞ」
言いながら、もう一度覗き込んでいた。半日かけて、柱は四本とも真っ直ぐに立った。
柱が立つと、次は梁を渡す番だった。ヨナスと呼吸を合わせて担ぎ上げ、仮の楔で留める。「せーの」も「もういいぞ」も、余計な言葉を挟まなくても伝わるようになるまで、そう時間はかからなかった。
水はけを見て溝を切り、屋根の勾配を決める段では、井戸端で見てきた土地の傾きの感覚がそのまま役に立った。段になった畑と同じ理屈だ。高いところから低いところへ、水は必ず流れる。
昼前、ヨナスが屋根の垂木を担ぎ上げようとして、足を滑らせた。担いだまま尻もちをつき、垂木だけが飛んでいって、近くに置いてあった桶に当たって派手な音を立てた。
「……見なかったことにしろ」
真顔でそう言うので、笑いをこらえるのに苦労した。
昼になると、娘が水瓶から汲んできた水を運んできた。桶を両手で抱え、こぼさないように一歩ずつ確かめながら歩いてくる。
「はい、どうぞ。あのね、さっきの音すごかったね。垂木が桶に当たって、がしゃんって。ヨナスのおじさん、しりもち、まだ痛いのかな。わたし、水いっぱい持ってきたから、二人とも飲んで」
差し出された水を、ヨナスが先に飲んだ。
「……生き返る」
俺も続けて飲んだ。井戸の水より、心なしか冷たい気がした。娘は「じゃあ、もう一往復してくる」と言い残すと、満足そうな顔でまた家のほうへ駆けていった。
午後は壁に取りかかった。丸太を組んだ骨組みに細い枝を編みつけ、水で練った土をその編み目に塗り込めていく。ヨナスに教わりながらやってみると、思ったより力のいる作業だった。
日が沈むころには、掌の皮がむけかけていた。翌朝は、また同じ作業の続きから始めた。二日目はそうやって過ぎた。
合間に、娘の家へ顔を出した。
夕方、娘は水瓶に水を出す前に、いくつも仕事を片づける。朝に干したものを取り込み、竈に火を入れ、鍋を出す。俺はその一つでも代わろうとした。
「俺がやるよ」
鍋を取ろうとすると、娘は「いいよ」と笑って先に持ち上げてしまった。
干したものをたたむ手伝いをしようとすると、娘のほうが先に半分たたんでいた。竈に薪をくべようとすると、細い枝から組む順番が俺のものと違っていて、口を出しかけてやめた。
娘は嫌がっているわけではない。むしろ「やって」と押しつけてくることさえある。それでも、俺が手を出すころには、たいてい仕事のほうが終わっている。
少し離れたところで、文乃がその様子を見ていた。何も言わず、時々、手にした紙に何か書きつけている。
「おとうさんは座ってて」
最後には娘に笑いながらそう言われて、大人しく従った。
五つ、六つの時分から、何でも一人でやっていたと村長が言っていた。その言葉の中身を、俺はいま毎日見ている。
俺がいない五年のあいだに、この子は全部一人でできるようになっていた。
考えかけて、やめた。いま考えても、五年前には戻れない。手を止めて、代わりに水瓶の水を飲んだ。ちょうどいい冷たさだった。
薪割りだけは、俺の出番があった。太い丸太を鉈で割り、扱いやすい大きさにしておく。体力のいる仕事で、娘の手には余る。
「わあ、はやい! わたしがやると日が暮れちゃうもん」
娘がそう言って、割った薪を運んでいった。数少ない、俺の仕事だった。
三日目の夕方、屋根に藁が乗った。
束ねた麦藁を何層にも重ね、水はけを考えた角度で葺いていく。ヨナスたちの手際は驚くほど速く、俺はもっぱら藁束を運び上げる役に回った。
骨組みだけだった土地に、輪郭のある家が立っていた。壁はまだ薄く、床も張っていないが、雨露はしのげる。
手伝いに来た村人たちに、文乃が茶を配った。ヨナスの分を渡すとき、
「ありがとうございます」
短く、そう言った。俺は湯呑みを持つ手を止めた。文乃の声を、村の人間に向けて聞いたことが、まだ一度もなかった。ヨナスは「おう」と返して受け取り、熱いのを一息に飲んで、盛大にむせた。
最後に扉を取り付けた。蝶番の代わりに縄で吊るしただけの簡素なものだったが、閉めれば風は防げる。
ヨナスが何度か開け閉めして具合を確かめ、蝶番の代わりの縄を指ではじいた。
「悪くない。冬までに一度、締め直せよ。縄は必ず伸びる」
言うだけ言って、道具をまとめはじめた。帰りぎわ、まだ桶のことを根に持っているらしく、「あれは俺のせいじゃないからな」と付け足していった。
中に入ると、まだ何も無い。土間の匂いと、切ったばかりの木の匂いだけがした。
様子を見にきた村長が、壁を軽く叩き、爪で少し掻いた。
「土がまだ若いな。ひと冬越すと縮んで隙間が出る。出たら塗り足せばいい。どの家もそうやって厚くなっていく」
うちの壁は、と村長は自分の家のほうを指した。もう何度塗ったか覚えていないらしい。言い終えると、また日向へ戻っていった。
文乃は戸口に立って、しばらく中を眺めていた。何をするでもなく、ただ眺めていた。
俺は、これで村に居場所ができた、とは言わなかった。まだそう言うべきときではない気がした。ただ、屋根の下に立って、日暮れの色を眺めた。
その夜、三人で飯を食った。まだ床の無い土間に敷物を敷いて、鍋を囲んだ。隣から、竈の煙の匂いがかすかに流れてきた。
食べ終わると、娘が立ち上がった。
「じゃあ、帰るね」
「……もう暗いが」
「いつものことだよ」
娘はそう言って、隣の家へ歩いていった。サナがいてもいなくても、娘はあちらで眠る。それが当たり前のことだというように、振り返りもしなかった。
「また明日ね」
声だけが、暗がりの奥から届いた。
月明かりの下で、二つの家が並んで建っているのが見えた。近いようで、あいだには越えられない距離があるようにも見えた。
文乃は何も言わなかった。俺も、何も言わなかった。言えることが、何も無かった。
家は建った。
この子が「うち」と言うとき、指しているのは、まだ隣だった。




