俺は五年分の礼を言うつもりだった
あれから、俺は毎日、娘の話を聞いている。
朝、娘が水を出しに行く前に。夜、竈の火を落としたあとに。時間を決めたわけではないが、気づけばそうなっていた。
「いちばん好きな色は?」
「青。水の底の色に似てるから」
「得意なことは?」
「木の実の場所を覚えるの。季節ごとに、どこに何がなるか全部知ってる」
俺はそれを一つずつ、聞き逃さないように覚えていった。忘れないように、順番に。
文乃も、隣で聞いている。何も言わないが、時々小さく頷く。娘の話を覚えているのが俺で、意味にしているのが文乃なのだと、近ごろ分かるようになった。
俺たちはまだ、娘の家の土間で寝起きしている。三人分の寝床には狭いが、誰も文句は言わなかった。
「怖いものは?」
「雷。あと、サナがいなくなること」
娘はそう言ったあと、すぐにいつもの調子に戻って、次の話を始めた。俺だけが、その一言を長く覚えていた。
娘は毎晩よく喋る。話は次から次へと飛んで、聞いているこちらが追いつけないこともある。それでも、あの夜のことだけは一度も訊いてこなかった。
どうして文乃が泣いていたのか。訊かれれば、答えられなかった気がする。訊かれないことに、俺は少しだけ助けられていた。
村は数日のあいだに、ずいぶん見慣れたものになった。竈の煙の匂いも、鶏の声も、朝いちばんに聞こえる井戸の水音も。
村長は、日当たりのいい石段に座っていた。年寄りだが、腰はまだしっかりしている。
「少し、お時間をいただけますか」
俺は膝をつき、目線を合わせた。まず要件を切り出し、条件を提示してから、相手の反応を見て詰める。本社と現場のあいだで、その順番だけを頼りにやってきた。
「娘の家の隣に、空いている土地はないでしょうか。畑を起こしたいのです。手間賃の代わりに、屋根や井戸の修理をお引き受けします。期間は……」
「別に、いつからでもいいさ」
村長は俺の言葉の途中で頷いた。
「土地はあそこの隅でも使えばいい。誰も文句は言わない」
「条件は……」
「条件も何も、困ったときはお互い様だろう」
足もとを、小さな鶏が一羽横切った。娘の家の三羽のうちの一羽らしい。村長はそれを目で追って、それからまた俺を見た。
「それより、屋根は葺けるのか」
話が、順番どおりに進まなかった。三つ用意した段取りのうち、二つが村長の一言で消えていた。残った一つも、聞かれる前に流れが決まっていた。
「……それだけで、よろしいのですか」
「それだけで、いい」
村長はまた頷いた。話はそこで終わっていた。まとまったのか、まとまっていないのか、俺にはまだ判断がつかなかった。
「あの子は、ここらじゃちょっとした有名人だよ」
村長がふいに言った。
「五つ、六つの時分から、何でも一人でやっていたからな。危なっかしくて見ていられなかったが、いまじゃ誰よりも手が早い」
その話は、俺の知らない五年のほんの一部だった。もっと聞きたかったが、村長はそれ以上続けなかった。
俺のやり方だけが、ひとまず浮いていた。
帰り道、屋根の上で男が一人、藁束と格闘していた。葺き直しの手が止まっている。手元の藁が崩れて、男が小さく舌打ちした。
見ればすぐに分かった。下の藁の傾きが合っていない。水はけを計算せずに重ねている。
「そこ、下から三段目、右に半分ずらすといいですよ」
男が振り返った。
「分かるのか」
「実家が、そういう仕事をしていたので」
屋根に上がり、束の並べ方を直した。手が覚えている動きだった。現場を離れて長い手のはずが、迷いなく動いた。
「これで、十五年はもちます」
男は屋根の傾きを見て、それから俺を見た。
「お前、分かるのか」
さっきと同じ問いだったが、今度は違う響きだった。
村長との話は、いまだにまとまったのかどうか分からない。だが、これは分かる。手だけは、ちゃんと通じた。板挟みで磨り減らしてきたのは、もう一つの手のほうだったらしい。
娘の家に、あの人が戻ってきたのは、日が沈みかけたころだった。
先に気づいたのは娘だった。手を止め、戸口のほうへ顔を向けた。鶏の声が、ふいに止んだ。竈の火が爆ぜる音だけが、土間に残った。物音はなかった。それでも、いつのまにか人が立っていた。文乃は洗濯に出ていて、まだ戻っていなかった。
この数日、何度も想像した瞬間だった。名乗り方も、礼の言葉も、頭の中で何度も組み直した。だが、実際にその人を前にすると、用意していた言葉のほとんどが意味を失った。
背中が冷えた。息が浅くなっているのが、自分でも分かった。目を逸らせなかった。
女だった。歳は分からない。二十にも、五十にも見えた。見るたびに、違って見える気がした。晩春だというのに、厚い布の服を着ている。この村の誰も着ないような、季節に合わない厚さだった。浮いているのは、その一点だけだ。
「サナ!」
娘が駆け寄って言った。声が跳ねていた。
娘はその人の袖を引いた。
「サナ、あのね、あっちにおとうさんが来たの」
あの人は答えず、俺を見た。
値踏みされている、と思った。だが、それとも少し違う気がした。ただ見ている、というだけの目だった。瞬きをしない。視線は俺の顔ではなく、俺の手のあたりに落ちたまま動かなかった。
厳しい顔。優しい顔。疲れた顔。何百通りも思い描いてきたが、どれも当たらなかった。
まず名乗る。次に礼を言う。それから、この先の相談をする。ずっとそうやってきた順番だ。
「杉本直といいます」
「サナ」
返ってきたのは、名前だけだ。名乗り返された。だが、それきりだった。
その名なら、もう知っていた。村人からも、娘からも聞いていた。だが、目の前のこの人と結びついたのは、いまが初めてだった。
「娘を、五年間……」
言葉が続かなかった。深く息を吸って、続けた。
「育てていただいて、ありがとうございました」
サナは、俺の顔ではなく、手をしばらく見ていた。
「手が、変わった」
言葉はそれきりだった。声は低く、抑揚がなかった。感情の起伏を隠しているのではなく、そもそも起伏そのものが無いように聞こえた。
何のことか、一瞬分からなかった。それから気づいた。屋根の上で使った、あの手のことだ。
礼を言ったつもりだった。拒まれもしなかった。受け取られもしなかった。応じてはもらえたのに、ただ、素通りしていった。
問い返されなかった。それでも、名乗り返しはあった。俺の段取りは、条件を出して、相手の反応を見て、次の手を打つことでできている。反応があってなお、打つ手が見つからなかった。拒絶なら、まだやりようがあった。素通りには、打つ手がなかった。
サナが土間の奥へ進んだ。それより先に、娘はもう一人分の器を出していた。水瓶に手を伸ばし、何も言わずに水を出す。サナはそれを受け取り、何も言わずに手を洗った。
「サナ、おなかすいた」
娘が、サナの服を引っぱりながら言った。この場の重さは、娘にはまるで届いていないらしかった。
サナは娘の頭に軽く手を置いた。娘はその手に体を預けるように寄りかかり、声が少しやわらいだ。それから土間の奥、暗がりの中へ消えていく背中を、俺はただ見ていた。
娘が俺を振り返った。
「サナ、帰ってきた」
娘は、いつもと同じ調子でそう言った。名前を呼ぶことに、迷いも間もなかった。
この家では、言葉より先に手が動く。段取りが要るのは、俺のほうだけらしい。
五年分の礼は、結局どこにも届かなかった。届かなかったことだけが、今日、はっきりと分かった。
洗濯から戻ると、あの人はもう家の中にいなかった。娘の声だけが、まだいつもより高かった。
名前は、あの子にちゃんと届いていた。届かなかったのは、私の声のほうかもしれない。
つむぎと呼んだのは私だった。それでも、この五年、その名を呼んできたのは、私ではない誰かたちだった。あの子はただ、呼ばれた名に、そのつど振り向いているだけのような気がする。
今日、あの子の手を見た。前より、皮が硬くなっている気がした。育てられて硬くなったのか、自分で硬くしたのか、まだ確かめられていない。
直は、今日も何か思いついたような顔をして帰ってきた。屋根で何をしたのかは訊かなかった。訊けば、また何か始めてしまいそうな気がしたから。
あの人と何を話したのかも、訊かなかった。
ノートのページが、また一枚増えた。
この村で、暮らしていくことになる。まだ何ひとつ、分かっていないままで。




