おとうさんとおかあさんは、わたしに気づかなかった
わたしが井戸のところで桶を拭いていたら、門から人が二人入ってきた。大人だ。二人とも背中に荷を背負っている。
「ねえ、誰か来た」
わたしが言うと、おばさんは手を止めて顔を上げた。
「ほんとだ。めずらしいね」
二人は畑のあいだの道をゆっくり上がってきた。だんだん近くなって、顔が見えた。
あっ、と思った。
布を持ったままだった。持ったまま、動かなかった。
この人たちだ。
桶をそっと下に置いた。二人とも痩せていた。おとうさんは頬がへこんでいて、顎のところが黒い。おかあさんは髪がほつれて、片方だけ肩に落ちている。
「あの人たち、痩せてる」
「遠くから歩いてきたんだろうね」
おばさんが言った。遠くから来た人は、たいていそんな顔をしている。
遠くから来たんだ、と思った。
でも、二人はわたしを見なかった。
道の向こうで走り回っている小さい子たちのほうばかり見ていた。おとうさんは一人ずつ、順番に顔を見ていく。ずいぶんていねいに見ていた。
「なにか探してるのかな」
おばさんは桶を担いで、二人のほうへ歩いていった。何か話している。声が低くて、ここまでは聞こえない。おばさんが首をかしげて、それから首を振った。
さっきまで鼻歌をうたっていたのに、いつのまにか声が出ていなかった。
なんて言えばいいんだろう。おとうさん、でいいのかな。
口を開けて、やめた。もう一回、やめた。だけど言わないと、二人はこのまま行ってしまう。
布を持ったまま、立った。
「……おとうさん?」
おとうさんがこっちを見た。
わたしの顔を見て、それから、わたしのうしろを見た。うしろには誰もいない。
まっすぐ歩いていって、二人の前で止まった。
「わたし、つむぎ。すぎもとつむぎ」
おかあさんが、すっと息を吸った。何か言おうとして、口を閉じた。一回だけだった。
おとうさんは何も言わない。二人とも、雨に降られた人みたいな顔で立っていた。
「あのね、会いたかったよ。すごく」
言ってから、急に恥ずかしくなって、くるっと後ろを向いた。
「つむぎ」
うしろから呼ばれた。振り返った。みんなそう呼ぶ。おばさんも、村の子も、そう呼ぶ。呼ばれたから振り返った。それだけだ。
おばさんが桶を置いて、二人に何か言った。わたしのことだ。五年、という言葉だけ聞こえた。
おとうさんの顔が変わった。指を動かして何かを数えはじめ、途中でやめて、また最初から数えた。二回とも、同じところで止まった。
何を数えているのかは分からなかった。
「どうしたの?」
顔を覗き込んだ。「おなか痛い?」
おとうさんの膝が折れた。そのまましゃがんで、わたしと同じ高さになった。
「……よかった」
それを何回も言った。ほかのことは何も言わない。
「へんなの」
おかしくて笑った。おとうさんは、わたしの肩に手を置いたまま動かなかった。
二人が何も言わないので、わたしが言うことにした。水なら出せること。座るところのこと。靴が三日ぶん汚れていること。鶏のこと。
わたしは言う。ぜんぶ言う。
おとうさんが、おばさんに何か訊いた。サナのことだ、と分かった。おばさんは、いないよ、と答えた。いつ帰るかは誰も知らない。わたしも知らない。
うちの前の石に、おとうさんが荷を下ろした。
中から出てきた上着は、赤ちゃんのだった。腕に当てたら、袖が肘まで来ない。おかしくて声が出た。おかあさんはそれを取って畳み直し、袖の兎を親指でなでて、膝に置いた。
荷の底から、まるくて長いものが出てきた。押してごらん、と言われて押したけれど、ついたのか分からない。ううん、と思って、うちの中に持って入った。戸口のところは昼でも暗い。押したら、白い丸が壁を走った。手を動かすと、丸も動く。上のほうまで届く。
「ついた! ついたよ!」
外へ出て、おとうさんの顔に当てた。おとうさんは目を細めて笑って、やるよ、つむぎのだ、と言った。
うれしかったので、もう一回うちに入って、棚の下と甕のうしろを照らした。甕のうしろなんて、見たことがなかった。
日が傾いてきたので、干したものを取り込んだ。
ぱりぱりになっていて、抱えると日なたの匂いがした。顔をうずめると、もっとする。乾いているとうれしい。濡れていると、もう一日かかってしまう。今日はぜんぶ乾いていた。
たたむのは、大きいのを先にする。下にしておくと山が崩れない。サナは大きいのも小さいのもいっしょくたに畳むから、あとで探すのが大変になる。
一枚おかあさんに渡した。
「これ、いい匂いなんだよ」
おかあさんは受け取って、顔に近づけて、しばらくそのままでいた。返してくれない。
だから、もう一枚渡した。
二枚とも返ってこなかった。
次は水だ。
土間の水瓶の前にしゃがんで、口の上に手のひらを向けた。
水が出た。底を打つ音が、はじめは高くて、たまってくるとだんだん低くなる。目をつぶって、どのへんまで来たかを当てるのが好きだ。
「……つむぎ」
うしろで大きな声がした。びっくりして振り返ったら、おとうさんが一歩下がっていた。もう一回見せてくれ、と言うので、もう一回やった。おとうさんは水瓶のうしろを覗いて、それから天井を見上げた。何かを探しているみたいだった。
どうやってやるのか、と訊かれた。
「どうやってって……こう」
手のひらをひらひらさせた。どうやってと言われても、こう、としか言えない。
水が縁の指二本下まで来たので、手を下ろした。
「これでいっぱい」
おとうさんの手が近くにあった。畑をやる人や、屋根をなおす人の手だ。
「手、村の人みたい」
言ったら、おとうさんは変な顔をした。ほめたのに。
次は火。
竈の前にしゃがんで、細い枝に手をかざす。ぱっと赤くなる。ついたら、細いのをもう一本足す。ついたら、また足す。
「つむぎ」
おとうさんが横から言った。「太いのを先に組んでおくといい。あとから細いのを入れるんだ。そっちからやると、二回になるだろう」
「うん」
そう言って、いつもみたいにやった。細いのを一本ずつ足していったら、ちゃんと鳴りだした。ぱちぱち鳴りだすまでのあいだが、いちばん好きだ。
太いのを先に組むと、はじめの音がしない。前に一度やってみて、つまらなかったからやめた。でも、それは言わなかった。うまく言えそうになかった。
おとうさんも、また何か言おうとして、やめたみたいだった。
残ったものにも手をかざした。こうしておけば明日まで悪くならない。それもいつもやっていることだ。
顔を上げたら、おかあさんがさっきからずっとわたしを見ていた。目が合ったら、すっと息を吸った。
いつもは一人分しか作らない。三人だと鍋にどれだけ入れればいいのか分からなくて、少し考えた。三回すくって、それから、もう一回足した。
それから、いつもどおり一分けよけて、布をかけた。
「それは?」
「サナの」
おとうさんが、その名前を口の中でもう一回言った。おかあさんも、おとうさんの顔を見た。
「いつ帰るんだ、その人は」
「わからない。いつも、わからないよ」
この前は、指が全部足りないくらい帰ってこなかった。その前は、次の朝にはもう座っていた。よけた分は悪くならないようにしてあるから、いつでもいい。
「サナが帰ってきたら、言っとくね。うちに人が泊まってるって」
言ってから、あれ、と思った。うちに泊まるのに、うちの人じゃない。
おとうさんが何か言いかけて、やめた。
変な人だ、と思った。さっきから、言いかけてはやめている。言いたいことがあるなら言えばいいのに。
夜になって、土間の隅に二人の荷が下りた。灯りを一つだけつけた。
おかあさんが、わたしの手を取った。
ひっくり返して、爪のところも、指のあいだも見た。痛いことは何もしなかったので、されるままにしていた。指の腹のかたいところを、何度も押していた。
それから、小さい紙の束をひらいて、なにか書いた。書いて、またわたしの手を見て、また書いた。
「なに書いてるの」
「……なんでもないの」
おかあさんが声を出すのを、はじめて聞いた。
なんでもなくはない、と思った。なんでもないなら、書かない。
「わたしのこと?」
おかあさんは、こんどは何も言わなかった。かわりに紙を閉じた。
横になってから、訊きたいことができた。
「くまの、ぬいぐるみ」
二人がこっちを見た。
「あれ、まだある?」
少し間があってから、おとうさんが言った。
「……ああ。あるよ」
おかあさんの手が止まった。
「ふうん」
あるならいい。目をつぶった。おとうさんが灯りを落とした。
しばらくして、音がした。息を吸う音を、途中で押さえたみたいな音だった。それが何回も続いた。おかあさんだ。
うちは、なにも変わっていない。水瓶は満ちているし、干したものは取り込んだし、明日の分もよけてある。暗いなかに人の息の音が三つあるのは、いやではなかった。三つあると、うちが少し狭く感じる。それも、いやではなかった。
なのに、泣いている。訊いてみようかと思って、やめた。こういうときは訊かないほうがいい気がした。なんとなくだけど。
この人たちは、わたしを見て、どうして泣くんだろう。




