三歳で消えた娘は、八歳になっていた
娘に会う前に、俺は手順を三度おさらいした。
まず名乗る。次に、娘を育ててくれた相手に礼を言う。それから、この村で暮らす算段を切り出す。順序はそれでいい。二十年近く、俺はそうやって人と話をまとめて生きてきた。
数字も覚えている。背丈は九十四センチ。靴は十四センチ。腕の丈も、抱き上げたときの重さも。服はこの数字で選んだ。決めることが残っているあいだは、まだ動けた。
背中の荷には、常備薬と保存食と、娘の服と靴。ライターと懐中電灯と替えの電池。痩せて震えている子供を暖めて、食わせて、医者まで運ぶための荷だ。
帰り道はもう無い。入口に残されていた記録には、戻れないとだけ書いてあった。会社は辞めた。引き継ぎの書類だけは、最後まできちんと作った。
「……行こう」
自分の声が掠れているのに気づいた。数ヶ月の捜索で、俺は痩せて、荒れていた。手のひらの皮だけが、実家の工務店にいたころのまま硬い。
村の門は低かった。木を二本立てて、上に一本渡しただけだ。隣で文乃がその向こうを見ていた。何も言わない。いつからか、そうなった。その「いつから」を、俺は思い出せない。
村は思っていたより開けていた。段になった畑が上へ続いて、麦が青い穂を出している。その上手に藁葺きの屋根が並んで、どの家からも細い煙が立っていた。どこかで槌の音がしていた。屋根を葺き直しているらしい音だ。鶏が鳴いて、走る子供の足音が二つ三つ、家の陰を抜けていった。
その子供たちを、俺は一人ずつ見た。三つの子は大人の腰より下だ。走り回っているのは、どれも俺の胸まである子ばかりだった。家の陰から小さいのが二人出てきたが、腰より高かった。
いない。
井戸は村のまん中に一つきりだった。女たちが桶を並べて洗い物をしている。樋を引けば、あの畑の上まで水が届く。石組みは古いが、まだ十年はもつ。こんなときにまで寸法で見ている。俺がこの村に差し出せるものは、たぶんそれだけだ。
水を担いだ女が、俺たちの手前で足を止めた。
「あんたたち、見ない顔だね」
「人を探しています」俺は言った。「三つくらいの、女の子です」
女は首をかしげた。
「そんな小さい子は、この村にはいないよ」
「黒い髪の子です。このくらいの」手を腰の高さに出した。「数ヶ月前に、いなくなりました」
女は首を振った。嘘でも隠しごとでもない。心当たりが本当に無い、という顔だった。
「いないねえ。いちばん下でも、ほら、あそこで転んでる子だよ」
段取りは正しく踏んだ。三度おさらいした手順の、まだ一つ目にも入れていない。
井戸のそばに、子供がいた。
桶の縁を布で拭く手が止まっていて、こちらを見ていた。黒い髪を短く括って、袖をたくし上げている。俺の胸のあたりまである背丈だ。さっきまで小さく鼻歌をうたっていた。知らない節だった。
村の子だ、と思った。それだけのはずだった。その子が布を持って、立ち上がった。
「……おとうさん?」
声のした方を見た。
人違いだと思った。大きすぎる。三つの子ではない。娘は俺の腰より下にいるはずだった。
子供はまっすぐ歩いてきて、俺と文乃の前で止まった。
「わたし、つむぎ。すぎもとつむぎ」
隣で、文乃が息を吸った。それから口を開きかけて、閉じた。一度だけだった。
つむぎ、と名をつけたのは文乃だ。俺は何十も書き出して決められず、文乃は生まれた日に一つだけ挙げた。
『糸を紡ぐ、の紡ぐ。短いのを一本ずつ繋いで、途切れさせずに長くしていくの』
あのころは、そんなことを楽しそうに喋る人だった。
「あのね、会いたかったよ。すごく」
言うだけ言って、子供はくるりと背を向けた。
「つむぎ」
呼んだ。声が掠れた。
子供が振り返った。布を持った手を下ろして、まっすぐに俺を見た。呼ばれた者の顔だった。名前が、この子に届いている。
「つむぎ、その桶はもういいよ。置いときな」
女が俺の横からそう言った。同じ名だった。この子をその名で呼んできたのは、俺ではない。
「あんたたち、この子の……」
女は言いかけて、それから合点がいったという顔をした。
「つむぎかい。五年前にサナが連れてきた子だよ。あんたたちがねえ」
五年。
俺はその音を、頭の中で二度置き直した。娘がいなくなったのは数ヶ月前だ。何日探したかも、何回警察へ行ったかも、全部数えてある。
五年前ではない。
「……五年前、ですか」
「そうさ。あんた、大丈夫かい」
俺は娘を見た。俺の胸まである背丈。九十四センチではない。靴も、腕の丈も、抱き上げたときの重さも、何ひとつ合わない。
娘だけが五年分進んだ。俺と文乃は三つの子を持つ親のまま、ここに立っている。歳を取っていないのは、俺の方だった。
「どうしたの?」
娘が俺の顔を覗き込んだ。「おなか痛い?」
膝の力が抜けた。そのまましゃがんで、娘の目の高さまで下りた。
痩せていない。荒れていない。俺が覚悟してきたのは、誰かにこき使われて、飯もろくに食っていない子供だった。一つも当たらなかった。
「……よかった」
もう一度言った。何度も言った。ほかの言葉が一つも出てこなかった。
「へんなの」
娘が笑った。肩に手を置いた。触れていいものかを考える前に、手のほうが先に動いていた。細くて、それでもちゃんと重さがあった。
誰かが、この子をちゃんと食わせて、ちゃんと寝かせてくれていた。その人に、俺はまだ礼を言えていない。
「この子を育ててくれた方に、お会いしたいんですが」
「サナなら、今いないよ」女は井戸端の向こうへ顎をしゃくった。「いつ帰るかなんて、誰も知らないよ。いつものことだから」
この村では、それが誰にとってもおかしなことではないらしい。俺は引っかかったが、何にかは分からなかった。
娘は、そのあいだも喋っていた。
「あのね、水なら出せるよ。座るところなら、うちの前に平べったい石がある。靴、すごく汚れてる。三日ぶんくらい歩いてるよ、それ。あと鶏が三羽いるよ。いちばん小さいのがいちばん強いの」
俺と文乃が何も言えずにいるあいだに、この子は一人で全部言ってしまった。まず並べたのは、自分に何ができるかだった。驚いているのは、大人の方だけだった。
娘の家の前に、平べったい石が本当にあった。俺はそこに荷を下ろした。
順序はもう崩れている。持ってきたものだけは渡したかった。
留め具を外した。いちばん上に上着が入っていた。厚手の、袖に兎の刺繍が入ったやつだ。文乃が最後に買った。両手で広げて、そのまま動けなくなった。
小さい。
娘の腕の、半分にも届かない。
「これ、赤ちゃんの服だよ」
娘が横から覗き込んで言った。嫌な調子は無い。面白いものを見つけた顔だった。
「うでのところ、ここまでしかないよ。ほら」
自分の腕に当ててみせて、袖の先が肘の手前で止まったのを見て、声を出して笑った。
文乃がその上着を俺の手から取った。畳み直して、袖の兎を親指でひとなでして、膝に置いた。これを選んだのは文乃だ。売り場でどれくらい迷ったのかを、俺は知らない。
「……あっ、これはなに?」
常備薬の袋を、娘がつまみ上げた。要らない。保存食も要らない。持てるだけ詰めたものが、一つずつ要らなくなっていく。
その底から、娘が懐中電灯を引っぱり出した。
「これ、なに?」
「押してごらん」
押しても、明るいところでは点いたのか分からない。娘はそれを持ったまま家の中へ駆け込んだ。戸口の暗がりを、白い輪が走った。
「ついた! ついたよ!」
出てきて、俺の顔に当てて笑った。
「これ、いる」
「やるよ。つむぎのだ」
いちばん要らないと思っていたものだった。
日が傾くころ、俺は娘の家の土間にいた。隅に膝ほどの高さの水瓶が据えてある。娘はその前にしゃがんで、口の上に手のひらを向けた。
水が出た。
手のひらの下、何も無いところから細い水が落ちて、水瓶の底を打っている。汲んできたのではない。出している。
「……つむぎ」
思っていたより大きな声が出た。一歩下がって、それから、自分が下がったことに気づいた。娘が手を止めて振り返る。
「どうしたの?」
「いや……もう一回。もう一回、見せてくれ」
娘はまた手のひらを向けた。同じところから、同じように水が落ちる。桶も、樋も、隠した管も無い。
「すごいな」
言ってから、自分が笑っているのに気づいた。「すごいな。それ、つむぎがやってるのか」
「うん」
「どうやって」
「どうやってって……こう」
娘は手のひらをひらひらさせた。答えになっていない。この世界ではこういうことが起きるのだと、そのとき知った。
水面が上がっていく。落ちる水を見ている娘の顔が、楽しそうだった。
説明できないのに、できている。
この子はほかの子と違う、と文乃はよく言っていた。積み木を積むとき、この子は誰の真似もしない。教えたやり方を一度見て、そのあと必ず自分のやり方でやる。
『教わったとおりにはやらないの。それで、ちゃんとできちゃうの』
俺は、子供なんてそんなものだと返した。そう返されるたび、文乃は少しずつ喋らなくなっていった。
水が縁の指二本下まで来たところで、娘が手を下ろした。
「これでいっぱい」
「……上手いもんだ」
人の仕事を評してきた口だ。それでも娘は胸を張った。
「毎日やってるもん」
娘の手が目の前にあった。工務店の子は、人の手を見る癖がつく。使っている手か、使っていない手か。指の腹が硬かった。八つの、働いてきた手だった。
「手、村の人みたい」
娘が言った。今度は娘のほうが、俺の手を見ていた。褒められたのだと飲み込むのに、少しかかった。この子に何かを認められたのは、それが最初だった。
五年は戻らない。数えるべき五年があることさえ、俺は知らなかった。だが、この子には俺の知らない五年がある。あの水も、鼻歌も、この手も、全部その五年でできたものだ。
明日は、この子の話を聞こう。何が好きで、何が得意で、どんな五年だったのか。
組んできた手順は、全部いちばん後ろに回した。順序はそれでいい。




