わたしがおしえたら、「たすかった」と言われた
腰の布を、井戸のうしろがわで洗っていた。こぼれたぶんを抜くのは、おとといで終わっている。きょうは、畑へは行かない。
布は、蒔いた日からたたんだままにしてあった。縫い目のところに種の粉が入りこんでいて、そこだけ、さわると固い。しまっておいたあいだの、こもったにおいがする。
桶に、朝のぶんの水がすこし残っている。日の当たるところに置いてあったから、つめたくない。わたしは、布を沈めて、底のほうで二回振った。下から、こまかいのが上がってきた。
絞って、ひろげて、また沈めた。二回目に上がってきたのは、はじめの半分もなかった。
井戸のうしろへ回る人は、すくない。汲むのは坂のあるほうからで、こっちは、洗いものの人が朝のうちに使って、それきりになる。石のふちは、水のかかるところだけ色が濃い。昼のまえは、だれも下りてこない。みんな、上の畑にいる。
「ヨナス、上、上、上」
坂の上のほうから、声がした。ひとりで喋っている。
「ヨナス、上、上」
二回目は、上が一つ減っていた。
下の家のパウルだった。去年より、また大きくなっている。上のほうは見ないで、足もとだけ見て下りてくる。
「つむぎ」
「なに」
「字、書けるか」
「書けるよ」
パウルは坂を下りきって、桶のわきで止まった。靴の先に、上の畑の土がついている。乾いて白い。
「村長さんに言われたんだ。あさっての朝に袋を集めるから、出しとけって。ヨナスのとこと、上の三軒に言ってこいって」
「よっつだ」
「よっつだ。まえも、こうやって言われた。そのときは、一軒ぬけた。上まで行って、下りて、それから、また上がった」
「二回、上がったんだ」
「上がった。ぬけたのは、かあさんに訊かれるまで分からなかった」
その子は、口のところを手の甲でこすった。
「ひとりで行くんだ」
「ひとりだ。かあさんは、上までは行かない。桶を持つと、腕がだめなんだ」
「まちがえると、二回になる」
「書いとけばいいよ」
「どこに」
「ここ」
布を絞って、石の上へ置いた。しゃがんで、地面を手の下のところでこすった。乾いた上のぶんが寄って、下の濃いところが出てくる。井戸のまわりは、こぼれた水がしみるから、下はいつも湿っている。
「灰の箱じゃなくても、書けるのか」
「土でも書けるよ」
指を立てて、一本引いてみせた。
はじめは沈む。途中から指のはらが土に乗って、そこから先は浅くなる。深いところと浅いところができるので、おなじところをもう一回引いた。しまいまで同じ深さになった。
寄ったぶんは、線の外がわに細い山になる。爪で落とすと、線のはばが、ちょうどよくなった。
「乾いたほうだと、こうなる」
すこし外がわに、もう一本引いた。引いたそばから、はしが崩れて、線が細くなっていく。
「戻っちゃうんだ」
「戻る。だから、しめってるほうに書くの」
「ヨナスは」
「ヨナスは、こう」
棒を三本引いて、上のところでつないだ。ヨナスの、一つ目だ。二つ目は、このあいだも出てこなかった。
「まん中は、すこし下へ出すの。三本ぜんぶ同じだと、くっついて見えるから」
「これ、習ってないやつだ」
「習ってないの?」
「出てない。おれのとこまでは、出てない」
「そしたら、さきにおぼえちゃえばいいよ」
「いいのか」
「いいよ」
「一つでいいのか」
「いいよ。ヨナスは、ひとりしかいないから」
「ひとりだ」
「上の三軒は」
「三軒は、まる」
「字じゃない」
「字じゃないよ。でも、分かるでしょ」
「分かる」
ヨナスの下に、まるを三つならべて書いた。
「なんで、下なんだ」
「行く順にならべるの。さきに行くほうが上。ヨナスのとこが、先でしょ」
「先だ。上がる途中だから」
「だったら、上。上の三軒は、そのあと」
「上から行ったら、だめか」
「だめじゃないよ。でも、ヨナスのとこは途中でしょ。上から下りてくると、そこでもういっぺん止まって、それから、また下りるの」
「二回、下りることになる」
「だから、行く順」
その子は、指を書いたところへ置いて、上から下へ動かした。もう一回、下から上へも動かした。
「まるは、三つとも書くのか」
「書くの。まとめると、いくつ行ったか分からなくなるよ」
「分からなくなる」
こんどは、自分で書いた。ヨナスのを、となりへならべて書いた。三本のうち、まん中だけが長くなった。
わたしの指より、その子のほうが太い。太いと、線も太くなる。太い線は、両がわから土が戻ってくるので、まん中しか残らない。
「ちがう」
「どこが」
「まん中。長すぎる」
その子は、書いたところへ息を吹いた。土の粉が上がって、洗ったばかりの布のほうまで来た。
「吹くな」
「先生とおなじこと言う」
「先生が言ってた」
パウルは、口をとじた。こんどは手で消した。手でやると、粉は上がらない。
わたしは、笑った。笑ったら、こっちの息でも、すこし飛んだ。
飛んだところは、その子が指で書き直した。二本目まで来て、まん中で指を浮かせた。浮かせてから、短く引いた。
「これでいいか」
「いい」
「帰ってくるまで、残るか」
「残るよ。ここ、だれも通らないから」
「雨は」
「きょうは来ないよ」
「ふんだら」
「ふんだら消える。だから、ふまないところに書いたの」
「おれが消したら」
「消したら、無くなる」
「じゃあ、消さない」
そこまで訊いて、その子は立った。立ってから、もう一度、書いたところを見ていった。
「ヨナス。上。上。上」
こんどは、上が三つあった。
「おぼえられないと思ってた」
「書いたら、おぼえるよ」
「書いたら」
「書いたら、おぼえる」
「つむぎは、どこに書いてるんだ」
「いたに書いてる。うちの、たなのとこ」
「いたか」
「いた」
パウルは、桶のわきを回って、坂のほうへ出た。しばらく行ってから、また言いはじめた。声のほうは、途中から聞こえなくなった。
布は、石の上へひろげた。乾くまで、ここにいることにした。坂の下で、木を割る音がしていた。一つ鳴って、しばらくしてから、もう一つ鳴る。鳴らないあいだのほうが長い。
井戸のふちの影は、はじめは石のはばぶんだけあった。それが細くなって、いちど無くなって、反対のがわへ出てきた。桶の水のところにも、ふちの形がうつっている。動かすと、くずれる。止めると、すこしずつ戻ってくる。戻りきるまでを、二回やった。
地面の四つは、そのあいだ、そのままだった。まるのところだけ、ふちがすこし落ちている。指で押してみたら、押したところだけ、へこみが浅くなった。それ以上は、押さないでおいた。
布のはしを持ち上げたら、下のほうが重かった。ひっくり返して、湿っているほうを上にした。
上のほうから、走る音がした。段を二つずつ下りている。
「ぜんぶ行った」
パウルは、しゃがんで、上から順に、指で押していく。押すと、へこんだところが埋まって、一つずつ消える。
「ヨナス。上。上。上」
しまいまで押して、手をはらった。
「ぬけなかった。上がって、下りただけだ」
「二回、行かなくてよかったね」
「よかった」
はらってから、上着でもう一回こすった。
「たすかった」
わたしは、布の上に置いた手を、そのままにしていた。
「うん」
うん、は、すぐには出なかった。
パウルは、石段のほうへ歩いて、途中で戻ってきた。
「あしたも言われたら、また書いていいか」
「いいよ」
「ここでいいか」
「ここでいいよ」
こんどは、戻らなかった。
布をたたんだ。湿ったほうが内がわになるようにして、腰にはさんだ。乾いていないのは、はしのところだけだ。
立って、上から地面を見た。押したあとが四つ、ならんだままになっている。消したつもりでも、へこんだぶんは残る。四つとも、坂とおなじ向きにならんでいた。
上へ向かった。上りは、はじめのところが、いちばん重い。
たすかった、は、ありがとう、より、みじかい。




