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三歳の娘を探して異世界へ渡った。俺を見つけたのは、水を出す魔法を覚えた八歳の娘だった  作者: 船越千里
第十章 春、もう一度まく

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わたしがおしえたら、「たすかった」と言われた

 腰の布を、井戸のうしろがわで洗っていた。こぼれたぶんを抜くのは、おとといで終わっている。きょうは、畑へは行かない。

 布は、蒔いた日からたたんだままにしてあった。縫い目のところに種の粉が入りこんでいて、そこだけ、さわると固い。しまっておいたあいだの、こもったにおいがする。

 桶に、朝のぶんの水がすこし残っている。日の当たるところに置いてあったから、つめたくない。わたしは、布を沈めて、底のほうで二回振った。下から、こまかいのが上がってきた。

 絞って、ひろげて、また沈めた。二回目に上がってきたのは、はじめの半分もなかった。

 井戸のうしろへ回る人は、すくない。汲むのは坂のあるほうからで、こっちは、洗いものの人が朝のうちに使って、それきりになる。石のふちは、水のかかるところだけ色が濃い。昼のまえは、だれも下りてこない。みんな、上の畑にいる。

「ヨナス、上、上、上」

 坂の上のほうから、声がした。ひとりで喋っている。

「ヨナス、上、上」

 二回目は、上が一つ減っていた。

 下の家のパウルだった。去年より、また大きくなっている。上のほうは見ないで、足もとだけ見て下りてくる。

「つむぎ」

「なに」

「字、書けるか」

「書けるよ」

 パウルは坂を下りきって、桶のわきで止まった。靴の先に、上の畑の土がついている。乾いて白い。

「村長さんに言われたんだ。あさっての朝に袋を集めるから、出しとけって。ヨナスのとこと、上の三軒に言ってこいって」

「よっつだ」

「よっつだ。まえも、こうやって言われた。そのときは、一軒ぬけた。上まで行って、下りて、それから、また上がった」

「二回、上がったんだ」

「上がった。ぬけたのは、かあさんに訊かれるまで分からなかった」

 その子は、口のところを手の甲でこすった。

「ひとりで行くんだ」

「ひとりだ。かあさんは、上までは行かない。桶を持つと、腕がだめなんだ」

「まちがえると、二回になる」

「書いとけばいいよ」

「どこに」

「ここ」

 布を絞って、石の上へ置いた。しゃがんで、地面を手の下のところでこすった。乾いた上のぶんが寄って、下の濃いところが出てくる。井戸のまわりは、こぼれた水がしみるから、下はいつも湿っている。

「灰の箱じゃなくても、書けるのか」

「土でも書けるよ」

 指を立てて、一本引いてみせた。

 はじめは沈む。途中から指のはらが土に乗って、そこから先は浅くなる。深いところと浅いところができるので、おなじところをもう一回引いた。しまいまで同じ深さになった。

 寄ったぶんは、線の外がわに細い山になる。爪で落とすと、線のはばが、ちょうどよくなった。

「乾いたほうだと、こうなる」

 すこし外がわに、もう一本引いた。引いたそばから、はしが崩れて、線が細くなっていく。

「戻っちゃうんだ」

「戻る。だから、しめってるほうに書くの」

「ヨナスは」

「ヨナスは、こう」

 棒を三本引いて、上のところでつないだ。ヨナスの、一つ目だ。二つ目は、このあいだも出てこなかった。

「まん中は、すこし下へ出すの。三本ぜんぶ同じだと、くっついて見えるから」

「これ、習ってないやつだ」

「習ってないの?」

「出てない。おれのとこまでは、出てない」

「そしたら、さきにおぼえちゃえばいいよ」

「いいのか」

「いいよ」

「一つでいいのか」

「いいよ。ヨナスは、ひとりしかいないから」

「ひとりだ」

「上の三軒は」

「三軒は、まる」

「字じゃない」

「字じゃないよ。でも、分かるでしょ」

「分かる」

 ヨナスの下に、まるを三つならべて書いた。

「なんで、下なんだ」

「行く順にならべるの。さきに行くほうが上。ヨナスのとこが、先でしょ」

「先だ。上がる途中だから」

「だったら、上。上の三軒は、そのあと」

「上から行ったら、だめか」

「だめじゃないよ。でも、ヨナスのとこは途中でしょ。上から下りてくると、そこでもういっぺん止まって、それから、また下りるの」

「二回、下りることになる」

「だから、行く順」

 その子は、指を書いたところへ置いて、上から下へ動かした。もう一回、下から上へも動かした。

「まるは、三つとも書くのか」

「書くの。まとめると、いくつ行ったか分からなくなるよ」

「分からなくなる」

 こんどは、自分で書いた。ヨナスのを、となりへならべて書いた。三本のうち、まん中だけが長くなった。

 わたしの指より、その子のほうが太い。太いと、線も太くなる。太い線は、両がわから土が戻ってくるので、まん中しか残らない。

「ちがう」

「どこが」

「まん中。長すぎる」

 その子は、書いたところへ息を吹いた。土の粉が上がって、洗ったばかりの布のほうまで来た。

「吹くな」

「先生とおなじこと言う」

「先生が言ってた」

 パウルは、口をとじた。こんどは手で消した。手でやると、粉は上がらない。

 わたしは、笑った。笑ったら、こっちの息でも、すこし飛んだ。

 飛んだところは、その子が指で書き直した。二本目まで来て、まん中で指を浮かせた。浮かせてから、短く引いた。

「これでいいか」

「いい」

「帰ってくるまで、残るか」

「残るよ。ここ、だれも通らないから」

「雨は」

「きょうは来ないよ」

「ふんだら」

「ふんだら消える。だから、ふまないところに書いたの」

「おれが消したら」

「消したら、無くなる」

「じゃあ、消さない」

 そこまで訊いて、その子は立った。立ってから、もう一度、書いたところを見ていった。

「ヨナス。上。上。上」

 こんどは、上が三つあった。

「おぼえられないと思ってた」

「書いたら、おぼえるよ」

「書いたら」

「書いたら、おぼえる」

「つむぎは、どこに書いてるんだ」

「いたに書いてる。うちの、たなのとこ」

「いたか」

「いた」

 パウルは、桶のわきを回って、坂のほうへ出た。しばらく行ってから、また言いはじめた。声のほうは、途中から聞こえなくなった。


 布は、石の上へひろげた。乾くまで、ここにいることにした。坂の下で、木を割る音がしていた。一つ鳴って、しばらくしてから、もう一つ鳴る。鳴らないあいだのほうが長い。

 井戸のふちの影は、はじめは石のはばぶんだけあった。それが細くなって、いちど無くなって、反対のがわへ出てきた。桶の水のところにも、ふちの形がうつっている。動かすと、くずれる。止めると、すこしずつ戻ってくる。戻りきるまでを、二回やった。

 地面の四つは、そのあいだ、そのままだった。まるのところだけ、ふちがすこし落ちている。指で押してみたら、押したところだけ、へこみが浅くなった。それ以上は、押さないでおいた。

 布のはしを持ち上げたら、下のほうが重かった。ひっくり返して、湿っているほうを上にした。

 上のほうから、走る音がした。段を二つずつ下りている。

「ぜんぶ行った」

 パウルは、しゃがんで、上から順に、指で押していく。押すと、へこんだところが埋まって、一つずつ消える。

「ヨナス。上。上。上」

 しまいまで押して、手をはらった。

「ぬけなかった。上がって、下りただけだ」

「二回、行かなくてよかったね」

「よかった」

 はらってから、上着でもう一回こすった。

「たすかった」

 わたしは、布の上に置いた手を、そのままにしていた。

「うん」

 うん、は、すぐには出なかった。

 パウルは、石段のほうへ歩いて、途中で戻ってきた。

「あしたも言われたら、また書いていいか」

「いいよ」

「ここでいいか」

「ここでいいよ」

 こんどは、戻らなかった。


 布をたたんだ。湿ったほうが内がわになるようにして、腰にはさんだ。乾いていないのは、はしのところだけだ。

 立って、上から地面を見た。押したあとが四つ、ならんだままになっている。消したつもりでも、へこんだぶんは残る。四つとも、坂とおなじ向きにならんでいた。

 上へ向かった。上りは、はじめのところが、いちばん重い。

 たすかった、は、ありがとう、より、みじかい。


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