まく順を、わたしの手はおぼえていなかった
坂を下りたら、においが下から来た。
土だ。返したところは、上が白く乾いて、割れ目のところだけ色が濃い。濃いところから上がってくる。歩くと、足のさきのあたりで、濃くなったり薄くなったりする。
段のはしに、袋がならべてあった。口をひらいて、上のところを外へ折り返してある。中の麦は、日の当たったぶんだけ白っぽく見えた。
村長が上に立って、家の名を呼んでいる。呼ばれた人が、器を持って前へ出る。おとうさんは、そのとなりで枡を持っていた。
枡に流して、はしを短い木でならして、ひっくり返す。また流して、ならして、ひっくり返す。おとうさんは、手もとを見ないでやっていた。見ているのは、次に出てくる人のほうだ。
「つむぎ、そこは下がっとれ」
村長が言った。
「こぼれたぶんを踏む。踏んだら、そこだけ先に芽が出る。出たところは、あとで抜かにゃならん」
袋のほうへ下がった。
器は、家によってちがう。木の桶のところもあるし、布の袋のところもある。下の家のは、口のふちが二重になっていて、しばると立つ。となりのぶんは、村長が先に取り分けて、袋のまま脇へ置いてあった。おとうさんが計る側にいる年は、そうするらしい。
袋の口は、出すたびに内がわへ倒れてくる。三軒めのときに倒れきったので、わたしが両手でひらいて、外へ折り直した。
「ここ、たおれてくるよ」
「おさえとけ」
おとうさんは、手を止めないで言った。
来たつぎの日は、見ているだけだった。おとうさんが起こして、わたしは畦に座っていた。座っていると、においは膝より上へ来ない。立つと、顔まで来る。
日が、段の上のはしから当たりはじめた。当たったところから、においが変わる。湿ったほうが先に消えて、乾いたほうだけが残る。
「上の三軒から蒔く。日の当たるほうから乾くからな。乾いてから置いても、根が下へ行かん」
村長は、袋の数をかぞえ直してから下りていった。
配りおわると、人が段へ入った。はしからはしまで、ならんで立つ。あいだは腕一本ぶんで、せまいところでは肩が当たる。
入るところが無かった。
上の段は、もう詰まっている。下の段も、はしから埋まっていった。去年まで、わたしが入っていたあたりには、下の家のおじさんがいる。
ヨナスが、二歩よこへ出た。出たぶんだけ、あいだがあいた。ヨナスは種を取る手を止めて、段の上のほうを見ている。そのまま動かないでいた。
わたしは、そこへ入った。ヨナスは、また歩きだした。
腰に布を巻いて、種を移した。一袋を、はしからはしまでに分けておく。
はじめの三分の一で使いすぎると、しまいが薄くなる。薄いところは、あとから足せない。だから先に分ける。
分けるのは、すぐできた。
手のほうが、できなかった。
取って、歩く。歩きながら指をひらく。ひらいたら、うしろの足でかぶせる。
前は、それがぜんぶ一度に来ていた。
いまは、取ってから止まる。止まってから落ちる。落ちてから、かぶせるのを思い出す。思い出したときには、もう二歩さきにいる。
戻ったところに、黒いかたまりができていた。指のあいだで分かれないで、いっぺんに落ちたぶんだ。
しゃがんで、ひろげた。ひろげてから、土をかぶせた。
「あ」
声が出た。
「手、わすれてる」
言ったら、おかしくなって、笑った。
火を起こす手は、きのうもおぼえていた。まく順だけが、どこかに置いてきてある。
前が、あいていた。
ヨナスが、そこで止まっている。腰の布に手を入れたまま、なかをさぐっている。追いついたら、歩きだした。
「おれは、蒔くのは下手だ」
前を向いたままで言った。
「屋根は落ちんが、種は落ちすぎる。うちの婆さんに毎年言われとった」
「ヨナスのとこも、しまいが薄くなるの?」
「薄くなる。毎年、しまいだけ薄い」
「先に分けたらいいよ。どこまででどれだけ使うか、はじめに決めとくの」
「決めても、手が言うことを聞かん」
それは、ほんとうだと思った。
段のはしまで行くと、列がぜんぶ向きを変える。はしの人が先に回って、まん中はそのあとから回る。回りきるまで、だれも落とさない。
回るとき、ヨナスが半歩さきへ出て、それからうしろへ下がった。あいだは、さっきと同じだけあいていた。
段が長くなると、声が遠くなる。
はじめは、上のはしの人の声まで聞こえていた。そのうち、となりの人の息しか聞こえなくなる。かわりに、ずっと下のほうの声だけが、風で戻ってくる。近いところが黙って、遠いところが鳴っている。
種は乾いている。指の腹でこすっても、粉にならないで、すべるだけだ。日が上がると、布の中のほうまであたたかくなった。あたたかくなったぶん、よけいにすべる。
段を二つ終えるころ、落とすのと歩くのが、一度に近くなった。近くなっただけで、一度ではない。
昼は、みんな井戸端まで下りた。
縄の音がして、桶が上がってくるあいだは、だれも喋らない。上がりきると、また喋りだす。
手を洗ったら、落ちる水が茶色くなった。爪のところだけ、色が残る。口のなかに土の味がした。水を飲んだら、先にそっちが落ちていって、あとから水の味になった。
朝、うちで包んできたぶんを出した。麦のかたいのだ。噛むと、はじめは音がしないで、あとから割れる。割れてから、塩が出てくる。
親指のつけねを押した。前は、押しても沈まなかった。いまは沈む。
「ここ、やわらかくなってる」
縄のところにいたおばさんが、わたしの手をつかんで、ひっくり返した。
「ひと冬やらなきゃ、そうなるだろ」
「そうなんだ」
「なるさ。戻るのは、なるより早い」
おばさんは手を離して、自分の桶を持ち上げた。
ヨナスは、縁に座って、靴の底の土を木でかき出していた。かき出したぶんが、足もとで山になっている。
わたしのも見たら、同じだけついていた。かかとのほうが厚い。うしろの足でかぶせるからだ。
首のうしろだけ、日が当たって熱い。見上げると、上のほうから種を落とす音がしている。上の三軒は、昼も下りてきていない。
おとうさんは、坂の上にいた。まだ枡のところだ。器を持った人が、二人ならんで待っている。おとうさんの後ろで、袋の口が、また内がわへ倒れていた。
首のうしろが熱くなくなってから、段を下りた。
戸のわきに、桶が伏せてあった。おとうさんが来たあとだ。
中は、火のにおいがした。煙のにおいではなくて、入ったばかりのにおいだ。細い枝の鳴る音が続いている。
「ただいま」
サナは、戸のがわにいた。
腰の布をほどいて、土間のはしで振った。土と、種の粉が落ちた。
「あのね、きょう、まいたの。入るところが無かったんだけど、ヨナスがあけてくれたの。何も言わないで、よこへ出ただけなの」
「そしたらね、手がちがうの。取るのと歩くのが、べつべつになるの。前はいっしょだったのに、いっしょにならないの」
「二歩行ってから、戻るんだよ。かぶせるの、わすれるから」
「ヨナスもね、しまいが薄くなるんだって。毎年だって。先に分けたらいいよって言ったら、手が言うことを聞かないって」
言ってから、わたしも同じだと気がついた。
「わすれた」
サナが言った。
「わすれた」
わたしも言った。言ってから、また笑った。
サナは、それきり何も言わなかった。火のほうへは手を出さないで、そこにいる。
器を出して、よそった。腕を上げると、うしろのところが痛い。下ろすと痛くない。だから、下ろしたままで食べた。
食べてから、腰の布をもう一度ひろげた。縫い目のところに、種が三つ残っていた。
棚のはしへならべて置いた。あしたの朝、袋へ返す。
三日で、手は思い出した。思い出したけれど、前とおなじ速さにはならなかった。




