俺はどうして、鍬を持ったまま坂のほうを向いたのか
土のにおいが上がってくる。
朝のうちは来ない。日が回って、上の面が乾いてから出てくる。鍬を立てて起こすと、返したところから先に来る。
においは、立っているより、しゃがんだほうが濃い。低いところに溜まる。
畑は、上の三軒が先に起こした。うちのぶんは、半分から先が残っている。上を踏むと硬い。返すと、下は湿っている。
置き場へ回った。袋の面は、膝の下まで下りた。
最後の一度は、おとといの朝に出した。村長が前の日に決めて回って、そのとおりに出した。残っている下の二段は麦だ。蒔くぶんに手をつけずに済んだのは、去年に続いて二年目になる。
土台の南の石は、朝でも冷たくない。手を置くと、下から少し返ってくる。石が温まりだすのは、日の回る時分がのびてからだ。
配るぶんは、昨日のうちに家ごとに分けてある。運ぶのは俺だ。今年は、これで終いになる。
畑の道は、荷を引くと轍が残る。あの子が発った日は、まだ残らなかった。
種を出す日は三日あとだ。麦を計る枡は村長の家にある。去年は俺が計る側に回った。今年もそうなるらしい。
井戸端のおばさんのところは、戸があけてあった。
「これで、しまいだろ」
「しまいです」
「そんならいい」
おばさんは袋の口をひらいて、中を手で押した。押してから、口を締め直した。
「これで、蒔くまで持つ。助かった」
戸のわきへ寄せて置いて、次の家へ回った。
井戸の前を通った。女衆が三人、桶を置いて待っている。縄はまっすぐ下まで行く。縁に張るものは、もう無い。
北のはずれの二軒は、いまも俺が上げている。道が乾いても、桶を提げて坂を下りるのは、あの二人には遠い。
上りのところは土が出て柔らかい。踏むと、足のさきが沈む。沈んだ跡は、夕まで残る。
坂の途中で、ヨナスが下りてきた。鍬は担いでいない。手に縄を持っている。
「蒔く日は」
「三日あとだ。村長が回っとる」
「手は足りますか」
「足りとる。あんたは、あんたのを起こしとけ」
「そうします」
「上の三軒が先に済ませたのは、日が当たるからだ。あそこは早い。早いぶん、遅れると目立つ」
ヨナスは、そのまま下りていった。縄は、井戸のほうで使うらしい。
家へ戻って、台の板を見た。
いちばん下の行に、日づけがある。今日だ。書いたのは十四日前で、そのときは先の日だった。
過ぎた日は消す。今日は、まだ過ぎていない。
昼を回ってから、畑へ戻った。
残りを起こす。先を土へ立てて、柄を体で押す。返した土は、乾いた上の面より色が濃い。
においは、返したぶんのほうから来る。顔のところまで上がってくる。
石の動く音が、坂の下からした。
鍬は、土に立てたままになった。柄は握っている。
体のほうが、先に坂を向いていた。向いてから、何が鳴ったのかを聞いた。
柄が、汗で少し滑った。そのあとで握り直した。
音は、坂のまん中から来る。はしのほうは硬いので鳴らない。まん中は、この時分は沈む。沈むところを、上がってきている。
荷を引くものは、まん中を通らない。人の足なら通る。
戸があいた。文乃が出てきて、二歩出たところで止まった。
戸は、あいたままになっている。閉めてから出る人だ。
声のほうが先に来た。
「まんなか、まだやわらかい」
曲がりのところに、娘が出た。荷は片手に提げている。もう片方は空いている。
「やわらかいな」
「はしのほうがかたいよ。でも、まんなかから来た。荷、かるいから」
「軽いか」
「かるい。おおきいのは、あとで来るんだって」
上がってくるあいだに、丈のことが分かった。継いだぶんは、まだ余っている。秋には足りなくなる。
四日ぶんの土が、靴の甲まで来ている。上のほうは乾いて、白く粉になっている。
「はたけ、おこしてある」
「起こした」
「うえのほうも?」
「上の三軒が、先に済ませた」
「ふうん」
娘は上がりながら喋っていた。上がりきるまで、切れなかった。
文乃が荷のほうへ手を出した。
「もてる」
「……いいから」
文乃は荷を受け取って、持ち替えた。持ち替えてから、反対の手へ提げ直した。
「……重いわ」
「かるいよ」
娘は、そこで一度足を止めて、上のほうを見た。それから、また歩いた。
鶏の声が上がって、すぐやんだ。娘が囲いのほうへ首を伸ばしている。
「にわとり、みっつとも」
「三羽ともいる」
「ちいさいのも」
「いる」
鍬の柄を、まだ握っていた。抜いて、畦へ寝かせた。
夕方、囲いの前で娘がしゃがんでいた。埋めたところを、指で押している。
「かたい」
「土を足して、上から踏んだ」
「ふんだの」
「踏んだ」
「わたし、見てない」
「見てないな」
娘は、もう一度押してから立った。手についた土は、袖でこすった。
鶏を囲いへ戻した。娘は外で見ていた。手は出さなかった。
戸を下ろすとき、いちばん小さいのが最後に残る。これは去年からそうだ。
竈のほうから、煮えるにおいが出ている。戸をあけたままにしておくと、外まで出る。
土間へ上がると、娘は上着の内がわから板を出した。台のはしへ置いた。字のあるほうが上になっている。
「これ、しまいまで書いた」
「書いたな」
「下のほう、うすいの。こすれるから」
「こすれるな」
「ミナのは、うすくならないの。たたんでしまってあるから」
「その子のは、どこにある」
「ミナがもってる。わたしのを、ぜんぶ写したの」
「写したのか」
「うつした。だから、なくしても、なくならないんだって」
娘は板をそこへ置いたまま、外のほうを見た。しまうところは決めていないらしい。
文乃は、束の上のほうを押さえたままでいた。板のほうへは、手を出さなかった。
「おかあさん、かみは」
「……毎日ではないけれど」
「まいにちじゃないんだ」
娘は、それきり紙のことは言わなかった。文乃は、娘の手のほうを見ていた。
文乃が、継いだほうの上着を持ってきた。裾に、色の違う布が回っている。
「きた」
「着てみろ」
娘は台のわきで袖を通した。裾は、こんどは腰の下まで来る。
「うちがわ、いろがちがう」
「見えん」
「みえるよ。ここ、めくると」
娘は袖をめくって、内がわを出してみせた。
文乃は袖を下ろして、縫い目のところを指でなぞった。なぞってから、肩のところを引いて直した。
「あした、はたけ」
「起こす」
「わたしも行く」
「来い。見るだけだ」
「またそれだ」
娘は笑った。笑ってから、いく、ともう一度言った。
灯りの芯を、少し出した。台のはしまで届く。
外は、下のほうがまだ鳴っている。日が落ちてからのほうが、よく通る。
軒の下の板は、布をかけて置いてある。今日のぶんに書くことはない。書くとすれば、一行だ。
文乃は、台の向こうで束をほどいていた。上から一枚めくって、そこで手を置いた。書き出すまでに、いつも間がある。
戸を、閉めずに出た。閉めてから出る人だと、自分では思っていた。あとで見たら、あいたままだった。
あの人は、畑のまん中で止まっていた。手は下ろしていない。坂のほうを見てもいない。体だけが、そちらへ向いていた。私が先に見たのは、そちらのほうだ。音は、そのあとで聞こえた。
あの子は、板を台のはしへ置いた。下のほうだけ、こすれて薄い。持って歩くと、そうなるらしい。私の紙は薄くならない。書きおえたぶんを下へ送るだけで、どこもこすれない。減るのは、持って歩いたほうだ。
台に、書いたものが二つある。一つは私ので、一つはあの子のだ。どちらも、しまいの行まで行っていない。あの子の板の続きが、これからどこで書かれることになるのかは、まだ何も決まっていない。決めなくても、当分は困らない。
今日のぶんは、まだ書いていない。灯りを近くへ寄せて、これから書く。一行では足りないような気がする。
井戸で水を上げて、隣の戸をあけた。においが、前と違う。火が入ったからだ。
焦げたにおいのほうが、湿ったのより先に来る。娘は土間にいた。竈のほうを向いて、座っている。
ここの水は、あの子が発ってから俺が足している。今日も、変えない。
水瓶の蓋を取って、上げてきたぶんを空けた。落ちる音が変わったところで、桶を起こした。娘は、こっちを見なかった。
俺が汲んだ水の音を、娘は土間で聞いていた。




