学園をつづけたいか。俺は娘に先に訊いた
土間の台から板をどけて、上を拭いた。拭いてから、椀を三つ出した。文乃のぶんと、俺のぶんと、もう一つ。
板には、あの子の帰る日を書いた行が残っている。その日は過ぎた。消す用が無かっただけだ。
文乃は竈の前にいる。鍋は、湯気の立ちはじめたところで火を細くしてある。窓の下の布は、このあいだ両方はずした。煙は下りずに、横へ抜けていく。
灯りは、まだ点けていない。戸を閉めても、しばらくは手もとが見える。雪の来るころは、この時分にもう点けていた。
戸があいた。娘が外から入ってきて、石のところで足の裏をこすった。こすってから、もう片方もこすった。
「あった」
「どこだ」
「うらの、石とかこいのあいだ。あいてるの。手が入る」
「入るか」
「入る。わたしのは入るけど、おとうさんのは入らないと思う」
娘は、手を裏返して待っていた。指のあいだに土がついている。囲いの下は日が回らないので、いまも湿っている。
石を積んだ側は、凍ってゆるむたびに土が下がる。下がれば、そのぶんだけ下があく。
「明日、埋める」
「わたしもやる」
「見ててくれ」
「見てるだけ?」
「そうだ」
明日の朝でいい。夕方に埋めても、鶏はもう入っている。
娘は袖のところで手をこすって、上がってきた。土は、こすったくらいでは落ちない。あとで水を使わせる。
上着を台の上へ広げた。昨日、出しておけと言ったやつだ。
「立ってくれ」
娘は台の横で背を向けた。当ててみると、裾が腰の上で止まる。秋に着せて出したときは、ここではなかった。
継ぐぶんは、手のひらひとつぶんでいい。袖は、それより短くて足りる。肩はまだ余っている。伸びたのは丈のほうだった。
娘は、当てているあいだ動かなかった。前に丈を見たときは、途中で振り返った。
上着は、外のにおいがした。土と、鶏のいるところのにおいだ。
文乃が布を出してきた。
「……色は、合わないけれど」
「内がわへ回る。見えん」
「……見えても」
「見えてもいい」
文乃は布を台のはしで折って、指で押さえた。押さえたところに、折り目が残った。折り目のぶんだけ、継ぐところが短くなる。
縫うのは文乃だ。俺は、丈を出すところまでだ。
椀に入れて、三人で座った。
豆と麦だ。麦は、去年の終わりに挽いたぶんが残っている。噛むと、粉のほうが先に来る。新しいのは、蒔いてからだ。
娘は、汁の上のほうから先に飲む。減ってから持ち上げる。昨日と同じ順だった。
鍋は、あの子が帰ってきてから深く入れてある。
戸のすきまから、外の音が入ってくる。日が落ちきる前は、下のほうがまだ鳴っている。
「あのね、ミナのおとうさんは、市へ行くとき、荷を二回入れるの」
「二回か」
「いっかい入れて、出して、また入れるの。そうすると、へるの」
「減るな」
「へるよ。おとうさんも、やる?」
「やる」
「やらないでしょ」
「やる」
娘は、椀のふちに口をつけたまま肩を動かした。動かしたぶんだけ、汁が揺れた。
この子は、喋りながら食う。片方が止まると、もう片方も止まる。
箸の持ち方は、去年と変わっている。上のほうを持つようになった。
「あのね、紙をもってる人が、また来たの」
「また来たか」
「まえに言ったのを、読んだの。ちがってないかって」
娘は、そのまま先を言った。
「ちがってない。順もおなじだった。でも、あのね、から言ったのは、書いてなかったよ」
娘は豆をひとつ取って、口へ入れた。入れてからも、話は切れなかった。
「その人は、何をしていた」
「書いてた。わたしが言ったのを、もういっかい書くの。それで、二まいになったの」
「二枚」
「二まい。ぜんぶ、ほかの紙のあいだに入れちゃうから、どれがどれだか分かんなくなるの」
娘は箸を麦のほうへ移した。
麦は、椀の底にたまる。娘は、たまったのを先に取る。
灯りを点けた。点けると、台の上だけが明るくなった。
「あとね、水ね、ことばで言うと、半分でとまるの」
「半分か」
「ゆびいっぽんぶん上がって、とまるの。なんかいやっても、おなじだけ」
「止まったら、どうする」
「もういっかい、はじめから言うの。とちゅうからだと、だめなの」
「だめか」
「だめ。あいたところは、あとから入れられないんだって」
言い終わると、また豆を取った。取る手は、止まらない。
娘は椀を持ち上げて、下のほうを飲んだ。飲んでから、口のはしを手のひらで拭いた。
拭いた手を、膝の布でもう一度拭いた。
「それとね、つぎで五つ目なんだって」
「五つ目」
「ことばが五つあるの。四つまでもらってて、あと一つなの」
「いつだ」
「言う日におしえるって。四つ目が、あと何日かおなじだったら、その日なんだって」
「何日かは、聞いたか」
「聞いてない。言わなかったよ」
それから、鶏の話に戻った。囲いの穴の大きさを、両手で作ってみせた。作った形は、さっきより大きくなっている。
娘の話は、来た順に出てくる。豆と麦のあいだに、紙の人と、水の止まり方と、五つ目が入っていた。
取り出すと、こうなる。言ったことは二度書き取られて、ほかの紙のあいだへ入った。言われたとおりにやると、水は半分で止まる。教わる言葉は、あと一つで終わる。
あいたところは、あとから入れられない、と娘は言った。あれは、あの子の言い方ではない。訊いた者の名は、出てこなかった。娘は訊いていない。訊く相手だとも思っていない。
俺は、板を出さなかった。
文乃が、鍋を火のところから台のはしへ移した。移してから、座り直した。
俺は箸を置いた。
「つむぎ」
娘は椀を台へ下ろした。
「冬に、こっちへ紙が来た」
「だれから」
「主家からだ」
「うん」
「つむぎに会いたいと言ってきた人がいる、と書いてあった」
娘は、豆を口へ入れるところで止めた。止めてから、入れた。
「だれ」
「名前は書いてない」
「かいてないの」
「書いてない。名は主家にある。外へは出さないことになっている」
主家という語を、この子がどこまで分かっているかは知らない。
「ふうん」
娘は豆をひとつ取った。取ってから、こっちを見た。
「会わせないと言った。返事は、もう渡してある」
「わたし、会わないんだ」
「会わない」
「わかった」
娘は口の中のものを噛んでいた。噛みおわると、また豆を取った。
豆は、昨日より柔らかい。二度、火が入っている。汁は熱いままだ。
「その人、どこの人?」
「分からん」
「おとうさんも?」
「俺も分からん」
訊き方が、囲いの穴のときと同じだった。
「ふうん」
文乃は竈のほうを向いていた。向いたまま、鍋の下の枝を一本、奥へ押した。押しても、火は変わらなかった。
文乃が枝を押すのは、火を強くしたいときだ。いまは、そうではない。
「……その紙は、いまも」
「持ってる」
「……そう」
俺は椀を台へ置いた。
椀の底が台に当たって鳴った。思ったより大きい音になった。
「学園のことだ」
「うん」
娘も箸を置いた。
「行くまえに、紙を三枚もらった。三枚目に、合わないと思ったときは帰っていい、と書いてある」
「よんだ」
「読んだな。読めないところがあったやつだ」
「あった。まんなかへんの」
覚えていた。読めなかったところのほうを、覚えている。
「そこに書いてある」
「いまなら、よめる?」
「読めるだろう。あとで出す」
言う順は、昨日のうちに決めてあった。ここまでは、そのとおりに来た。ここから先は、決めていない。
「学園へ戻るか、こっちにいるか。どっちでも、こっちは動ける」
「うごける」
「動ける。向こうへ言うのは、俺がやる」
そのあとは、足さずにいた。足せば、こっちの向きが出る。
「先に、つむぎのを聞く」
娘は椀を両手で持っていた。持ったまま、台の上へ下ろした。
娘の手は、椀のふちに掛かったままだった。
「あのね、あっちのゆかは石なの。すわると、ひざのところが、あとまでつめたいの」
「そうか」
「わたし、もどらない」
あとは、何も付けなかった。訊き返しも、来なかった。
俺の手は、箸まで行かなかった。行きかけて、台の上で開いたままになった。
顔を上げると、文乃がこっちを見ていた。目が合った。文乃は何も言わない。俺も言わなかった。
鍋のほうで、蓋が一度鳴った。
文乃は、鍋のほうへは行かなかった。
「分かった」
「うん」
「向こうへは、こっちから言う。日も、こっちで決める」
「行き帰りのぶんは、向こうが出すと書いてある」
「かいてあるんだ」
「書いてある」
娘は、そのあと、いつもの速さで食べおえた。




