わたしの椀が先で、おかあさんのは、そのまま
坂の下まで来ると、音が上から下りてきた。
はじめは、一つだった。鶏だ。そのあとに、木を叩く音が重なった。二つ鳴って、あいだがあいて、また二つ鳴る。屋根の上でやっている音だ。
音は、あっちからも、こっちからも来る。上の段のほうと、下の家のほうと、両方から来て、途中でいっしょになる。いっしょになっても、どっちがどっちだか分かる。
立って聞いていたら、荷が腕から下がってきた。持ちかえて、肩へ載せた。載せると、耳のところが荷でふさがって、音が片方だけになった。
坂のまん中は、踏むと足のさきが沈んで、そこで止まる。はしのほうは、まだかたい。
はしを歩いた。はしのほうがかたいと、ミナに言ったのは、わたしだ。
「つむぎちゃん」
声は、下の家の裏から来た。おばさんは、そっちから回って出てきた。
「もう上がってきたのかい。門のとこで下りたんだろ」
「うん」
「けさから、あんたのおとうさんが二回下りてきたよ」
「なにしに」
「下を見にさ。門のほうを見て、それから上がっていくんだよ」
「二回とも?」
「二回ともさ」
おばさんは、干し場のほうへ戻っていった。濡れた布を、竿の上へ広げていく。竿の下の土は、そこだけ色が濃い。朝にも干したらしい。
上の段まで上がった。うちの戸は閉まっている。となりの戸は、あいたままだ。
おとうさんが、戸口から出てきた。こっちへ来て、片方の手を上げた。
上げた手は、わたしの頭のところまで来て、止まった。それから、下りて、荷のほうへ行った。
「持てるよ」
「知ってる」
おとうさんは、荷を片手で持ち上げて、もう片方の手へ移した。移してから、先に中へ入った。
戸を閉めると、外の音が半分になった。
においは、戸のところまで出てきていた。豆と、麦のにおいだ。竈の上で、鍋の蓋が、はしのほうだけ動いている。
鍋の下の火は、細い枝が二本入っている。強くしないで、そのままにしてある。
おかあさんは、台の前にいた。前掛けで手を拭いて、それから鍋のほうへ戻った。戻ってから、もう一度こっちを見た。
「……思っていたより、早かったみたい」
「雨、降らなかったの。四日だったよ」
「……四日」
「行くときとおなじ。宿は三回」
おかあさんは、椀を二つ出した。わたしのを、先に取った。
鍋から入れて、いちど手を止めて、それから、もう一杯ぶん足した。足してから、また足した。
汁は、椀のふちのところまで来た。持ち上げたら、こぼれる。
「おかあさん、それ、」
言うより先に、笑うほうが出た。声は、土間の奥まで行った。
おとうさんが、荷を下ろす手を止めて、顔を上げた。
「……こぼれるわね」
「こぼれる」
「……でも、足りないよりいいでしょう」
「いいけど、持てないよ」
椀は、台に置いたままにして、口をつけて、上のほうから先に飲んだ。減ってから、持ち上げた。両手で持つと、指のあいだから熱が上がってくる。
湯気は、まっすぐ上に出る。息を吹くと、横へ流れて、すぐ戻ってくる。二回吹いてから、口へ入れた。
吸うと、においが鼻の奥まで入ってくる。飲みこんだあとも、そこにだけ残っている。
豆は、はじめが硬い。噛むと、まん中がやわらかくなって、皮のところだけ、あとまで残る。六回で無くなった。
麦のほうは、噛むと口の中でばらける。三回だ。
おかあさんは、自分の椀にも入れた。入れてから、台のはしの紙のところへ行った。椀は、そのままになった。
「鶏、いる?」
「いる。三羽ともいる」
「いちばん小さいの、まだいちばん強い?」
「強い」
「囲い、朝あける?」
「朝あけて、夕方に入れる。このあいだ、いちばん小さいのが、あける前に外にいた」
「どこから出たの」
「分からん。いま、そこを探してる」
おとうさんは、椀を持ったまま、飲まずにいた。わたしのほうを見てから、飲んだ。
「あのね、ミナっていう子がいるの。おなじへやなの」
「聞いてる」
「ミナはね、順番に、さいごまで言うの。とちゅうで止まらないの。わたしが分かっても、もういっかい言うの。分かった? って、あとで訊くの」
「そうか」
「荷はね、二人で下ろしたんだよ。段で、角があたるの。上のほうがミナで、下がわたしなの」
「下のほうが重い」
「重かった。とちゅうでミナが持ちかえて、そのとき、いっぺんに下りてきたの」
「そういうもんだ」
「あとね、荷のうしろ、空けてきたの。村から持っていくのを入れるところなの」
おかあさんが、紙のところから振り向いた。
「……持っていくの」
「うん。空けておくといいって、ミナが言ったの」
おかあさんは、前掛けの結び目を、いちど直した。それから台へ戻って、自分の椀を持ち上げた。湯気は、もう出ていない。
食べおわってから、小さい器を取って、鍋のを入れた。上のほうは、すこし空けておいた。
おかあさんは、それを見ていた。台のはしの布を、一枚こっちへ寄せた。
布をかけると、はしが器のふちより下まで来た。持つと、下のほうだけ温かい。
「行ってくる」
「……暗くなる前にね」
「うん」
外へ出たら、風が出ていた。坂の下のほうから、上がってくる風だ。上着の前を留めた。
うちの戸は、下を持ち上げてから押した。中は、外より冷たい。足のうらから、先に来る。
土間の奥で、布のこすれる音がした。
「サナ」
サナは、戸のがわに座っていた。いつものところだ。
器を、床へ置いた。布を取ると、湯気は、もう見えなかった。持ってくるあいだに、下のほうから冷めていったらしい。
サナは、器を持って、食べはじめた。食べているあいだ、こっちは見ない。
サナの上着は、冬のときとおなじものだ。下の家のおじさんは、ひるま、上着を着ていなかった。
「あのね、坂のまん中、やわらかくなってたよ。踏むと、足がめりこむの」
「ゆるんだ」
「ゆるんだ。だから、はしのほうを歩いてきたの」
そのあとは、なにも言わなかった。
「馬車は四日だったよ。雨だと五日になるんだって。かえりも、雨だと日が動くの」
「へやはね、二人なの。机も、二人で一つなの。ミナは、書くまえに、手を布であたためるの」
「おかあさんが、汁を入れすぎたの。ふちのところまで来ちゃって、持てなくなったの」
サナは、器を床へ置いた。底が、こつん、と鳴った。
立って、わたしの横を通って、戸のほうへ行った。
あいているあいだだけ、外の音が入ってきた。閉まると、また風だけになった。
器を棚へ上げた。棚のいちばん上まで、手はとどく。
踏み台は、いまも棚の下にある。まえは、あれに乗って、器を手前から押して、奥へすべらせていた。押しすぎると、向こうがわへ落ちる。
落として割ったことが、二回ある。二回目のときは、かけらを外へ持っていって、土のやわらかいところへ埋めた。埋めてから、上を足で踏んで平らにした。掘り返したことは、いちどもない。
いまは、乗らなくてもとどく。手を上げると、肩のところが、上着の中でつっぱる。
棚の上の面を指でなぞると、土がついた。冬のあいだ、ここで上げ下ろしをした人がいないからだ。
上着のはしでこすった。こすったところだけ、木の色がちがう。
外へ出て、戸を閉めた。下を持ち上げて、はまるところではめた。はまると、上のはしのすきまが、まっすぐになる。
段の上のほうにだけ、日が当たっている。当たっているところは、上から細くなっていく。
木を叩く音は、もう鳴っていない。屋根の上にいた人は、下りたらしい。
下のほうで、囲いの戸を下ろす音がした。すこししてから、遠くで、おなじ音がもう一つ鳴った。
来たときは、音がふえていった。いまは、ひとつずつ減っていく。
さいごまで残ったのは、風の音だった。
となりの戸をあけたら、湯気が顔にあたった。
中は、出ていったときより明るい。あかりが、台のところへ寄せてある。
おかあさんが、鍋を火のところへ戻していた。
「……冷めてしまったから」
「まだあったの」
「……つむぎのが、まだ半分あるでしょう」
「ある」
おとうさんは、寝るところの布を出していた。出してから、竈の火を、灰のほうへ寄せた。
「上着、明日出しておけ。丈を足す」
「みじかい?」
「みじかい」
「わかった」
おかあさんが、椀を出した。こんどは、上のほうが空いている。持ち上げても、こぼれない。
「これなら持てる」
「……そうね」
湯気が、まっすぐ立った。
息を吹こうとして、やめた。
そのまま、口をつけた。
くちのなかが、あつかった。




