いつからできるのかと訊かれてわたしは答えた
外の戸から、桶を持った人が入ってきた。石のところで足を止めて、片方ずつ、靴の底をこすった。落ちたのは土だ。
もう片方をこするあいだも、桶は腕にかけたままだった。水は、ふちのところで揺れて、こぼれなかった。
わたしも、おなじところでこすった。冬のはじめは、こすっても何も落ちなかった。外が硬かったからだ。
石の床には、外から入ってきたぶんの濡れたあとがついている。はしのほうから先に乾いて、まん中があとまで残る。濡れているところは、乾いたところと、においがちがう。
戸があいているあいだ、屋根のはしから水が落ちるのが見えた。下の石にあたる音は、ここまで来ない。
上着の下に、板をはさんでいる。落とさないように、はしを指でひっかけておく。線から上は、もう一つぶんしか空いていない。
字と数のへやの手前で、色の濃い上着が、壁のほうから離れた。
まえの人だった。紙を持っている。まえより厚い。
「つむぎ、ですね」
「うん」
「まえにうかがったことを、いちど読みます。ちがっているところがあれば、言ってください」
その人は、紙のあいだから一枚だけ引き抜いた。書いてあるほうを自分に向けて、胸の高さで持った。
「『はじめに、肩を見る。上がっている子は、のどのところで止まっているので、そこではないと言う。背中にさわらせると、うしろも動くことが分かる。口をあけたら、いちど止まる。止まってから言うと、しまいまで持つ』」
読んでいるあいだ、その人の目は紙から離れなかった。
言ったのは、わたしだ。ならびも、そのままだ。
でも、わたしは、あのね、から言った。紙のほうには、それが無い。
「ちがっていますか」
「ちがってない」
「では、このとおりでよろしいですね」
「うん」
「なんで、二回きくの」
「まえに書いたものと、おなじになるかどうかを見ます」
「おなじだった?」
「はい」
その人の靴は、底のはしまで乾いていた。こすったあとが無い。外から入ってきたのではないらしい。
その人は、読んだ紙を下へ回した。上に来たのは、白いほうだ。
「もう一つ、うかがいます」
「うん」
「いつから、できるのですか」
それだけだった。なにが、とは言わなかった。
板のはしにかけた指に、力が入った。
うちで水を出していたのは、塾へ行くまえからだ。そのまえのことは、出てこない。
「おぼえてない」
「おぼえていない」
その人は、白い紙を左の手のひらに載せて、書いた。紙のはしを親指で押さえている。押さえたところだけ、紙が動かない。
書きおわると、こんどは声に出して読んだ。
「『いつからできるようになったかは、おぼえていない』。相違ありませんか」
「そうい、って、なに」
「ちがっているところ、という意味です」
「ない」
その人は、二枚を重ねた。
「その紙、どうするの」
「持っていきます」
「二枚とも?」
「はい」
重ねたぶんを、ほかの紙のあいだへ入れた。入れてしまうと、どれがどれだか分からなくなった。
その人は、字と数のへやの前を通りすぎて、まっすぐ行った。曲がるところで、紙のはしが上着にあたって鳴った。
まえのときは、うしろを向くまえに、もう一つ言った。きょうは、それが無かった。
わたしは、戸のところで、上着のなかの板を押さえ直した。
ミナが先に座っていた。机は二人で一つだ。紙は、まん中に一枚ずつ来る。
「おそいよ」
「廊下で、話してた」
「板、出して。もう書いてあるよ」
板を膝の上でうら返した。きょう読めるのが出たら、入れるところは、それで無くなる。
ハンネスは、書きおわって、手を上着でぬぐっていた。指のさきだけが黒い。
入れる場所をさきに決めておこうと思って、前の板を下のほうから見ていった。知らない形は、いちばんうしろに一つだけあった。六つ目と、書きだしは、おなじにたどれる。ちがうのは、しまいだ。そこで、まるくまわる。
見ているうちに、口が動いた。動いてから、読めたのだと分かった。
「よめた」
「下が丸いほうね。きょうから出るの。まっすぐのほうは、まだ来ないの。あいだをあけるって言ったでしょ。ちかいところで出すと、まちがえるからなの。分かった?」
「まちがえない」
「まちがえるよ。にてる字は、はなして書くの。わたしね、まえにつめて書いたの。そしたら、あとから出たのを書くすきまが無くなって、はしのほうへ書いたの。はしのは、あとで見ないの」
上が分かれている形の、すぐ下へ入れた。くっつけて書くと、一つぶんのところに二つ入る。習った順番だと、ずっとうしろに来る字だ。
入れてから、上へ戻って読み直した。はじめの一つから、また下りていく。おなじのを何回も読むのは、めんどうくさくない。読み直すと、はじめのころに覚えたのが、いちばん早く口から出る。
線から上は、もう空いていない。
「つむぎ、入らないでしょ」
「はいらない」
「消すの」
「下のほうを消す。数は、紙にもあるから」
「消すまえに、見せて」
ミナは、両手で受け取って、膝の上でまっすぐに持った。上のはしから、指が下りていく。字のところでいちど止まって、また下りる。
下まで行くと、はじめへ戻った。ミナの指が二回目を下りていくのを、わたしは見ていた。
「ミナ」
「まって。二回目なの」
二回目がおわると、ミナは板を返した。字のあるほうを、こっちへ向けて返した。返ってきた板は、あたたかくなっていた。
「なんで二回見るの」
「一回だと、抜けるの。二回目に、抜けたところが出るの。父さんが、そう言うの。市へ持っていく紙も、二回読んでから持っていくんだって」
「わたしのは、市のじゃないよ」
「読むものは、みんなおなじなの。分かった?」
数のほうへ移った。きょう入ったのは、線のすぐ下だ。右のはしは、空けたままにしてある。
字と数がおわって、魔法の授業へ行くとちゅうで、下の広いところを通った。
壁の紙のまえに、きょうは三人いた。近くまで行くと、話が切れた。通りすぎてから、うしろでまた始まった。なにを言っていたかは、聞こえなかった。
紙の下のはしは、まえより広くめくれている。押さえたら戻るくらいだ。押さえないで通った。
廊下の奥は、人が通らない。突き当りの戸は、押すところだけ色がうすい。
床のまるいあとの上に、器が一つ出ている。ゾフィー先生は、戸が閉まってから言った。
「はじめてください」
言った。手を出した。
「はい。いまのは、二つ目のおしまいが短いです。はじめから、もう一度」
言い直しているあいだに、内がわの線が一本ふえた。下のほうの線は、うすくなっている。ふえたのだけが、まだ濡れて見える。
言われるのは、きょうも口のことだった。水のことは、言われない。
膝のところが、布ごしに冷たくなっていた。立つときに、いちど手をついた。
部屋へ戻ると、ミナは布のなかに手を入れていた。清書のまえは、いつもそうしている。
「きょう、廊下でまた訊かれた」
「だれに」
「紙を持ってる人」
「なんて」
「まえに言ったのを、読まれた。ちがってないかって」
「ちがってた?」
「ちがってない」
「読むんだ」
「読んだ。それから、また書いた」
ミナは、手を布から出して、指をひらいたり閉じたりした。
「ねえ、かえる日、言われた?」
「言われてない」
「みっかまえだよ。まえも、そうだったでしょ」
「そうだった」
「みっかあれば足りるの。でも、順にやらないと、さいごに入らなくなるの。着るものは下。かたいほうが先で、やわらかいのはその上なの。板は、いちばん上。下に入れると、上から押されて折れるでしょ。炭は布でつつむの。つつまないと、着るものが黒くなるの。紙は、荷に入れないで、上着の内がわ。荷のなかだと、はしが波になるから。ぜんぶ入れたら、いちど出すの。出して、もういちど入れると、へるの。分かった?」
「へるんだ」
「へるよ。父さんは、市に持っていくとき、二回入れるの。あとね、ひもは切らないで持っていくの。むこうで切ればいいでしょ。切ったのは、みじかくなったら、もう長くならないもん」
「ならない」
「それとね」
「まだあるの」
「あるよ。いちばんうしろに、なにも入れないところを作っておくの。かえりに、村からなにか持ってくるでしょ。持ってくるところが無いと、こまるでしょ」
かえりのことは、考えていなかった。
「あした、板をまた見せて」
「あしたは、まだ消さない」
「消さなくていいの。見るだけ」
ミナは、紙のはしをそろえて、膝から下ろした。それから横になった。横になってからも、まだ何か言っていた。しまいのほうは、聞こえなかった。
わたしも布をかぶった。
布のなかで、手を胸のところに置いた。上着の内がわは、平たいままだ。入れておく手紙が、わたしには無い。
そこを、しばらく押さえていた。
紙は、二枚になった。




