俺が断ったのは、名を知らない相手だった
土が凍ってからは、音が短くなった。桶を石の縁へ置くと、置いたところで切れる。前は土が吸って、少しあとまで残った。
割る場所から上がってくる斧の音も、途中で細くならない。届いて、それきりになる。坂の下の話し声も、聞こえはじめと切れるところだけが分かる。
道は、昼になっても戻らなくなった。踏んでも沈まない。荷があるときは、そのほうが楽だ。気をつけるのは、足が横へ逃げないように踏むことだ。
朝の白いところは、踏んでも下の土が出ない。前は出た。夜のうちに降りたぶんが、日のあるあいだも残るようになった。
置き場の袋は、腰まで下りた。四度目のぶんを出して、四日になる。去年の冬も、このころは、このへんだった。
下の二段は麦だ。そこは出さない。北の柱ぎわは前より広く空いて、風がまっすぐ抜ける。麦の袋は、抜けない側へ寄せた。
種にするぶんは、いちばん下にある。手をつけるのは、雪の消えたあとになる。
去年は、器を落とした者がいた。今年は、まだ聞いていない。
俺が運ぶのは、北のはずれの二軒ぶんだ。朝と夕に一度ずつ、桶を提げて上がる。凍った道では、桶が振れてから足で直せない。振れる前に、肩で止める。
手前の一軒は、戸の内まで入れる。奥の一軒は、戸のわきの台へ置く。台の高さは、去年、婆さんの肘に合わせて足した。低いと、下ろすときに膝を折ることになる。
台に置くと、桶の底が半分、外へ出る。婆さんが引くときに、そこへ指がかかる。
井戸の縁は、こぼれたぶんが日ごとに厚くなる。桶の底で押しても、もうずれない。朝のうちに割って、割ったぶんは外へ投げる。汲むときは、縁の氷へ桶を当てないようにする。当てると、割ったところが広がる。
奥の婆さんが出てきて、桶の縁に手をかけた。
「今年は、ここまで運んできたろう」
「道が通りましたので」
「去年は、出す日に行けなんだ。あれで、ひと冬もつ。助かった」
言っているのは、蓄えのぶんのことだ。婆さんは戸の内へ下がって、桶には手をつけない。あとで自分で入れる。
娘の家の水瓶から、鶏のぶんを取った。減りが遅い。二日に一度足せば足りる。
坂の下で、蹄の音がした。凍ってからは、音が高い。数は一つだ。
村長の家の前で、馬は前と同じ柱につないであった。鼻の先から、息が上がっている。
鞍のうしろは空いている。来て、その日のうちに帰る支度だ。
馬のいるところだけ、土が湿っている。息と、鼻から落ちたぶんだ。凍らずにいるのは、そこだけだ。
ローレンツは手袋を外しているところだった。外したぶんを、片方ずつ腰帯へ挟んだ。旅装の上に重ねた一枚は、この前と変わらない。襟が立ててある。
「お返事を承りにまいりました」
濡れた手を上着でぬぐって、そばへ行った。
先に一つ、俺のほうから聞いた。
「その前に、いくつか教えてください」
「かまいません。私にお答えできますところで、お答えいたします」
「相手はどなたです」
「お名は、主家が承っております。外へ出すな、との仰せでございますので、私からは申し上げられません」
「主家は、知っているんですね」
「存じております」
「知っていて、こちらへは出さない」
「そのように申しつかっております」
「断れば、それで仕舞いになりますか」
「お断りは、お伝えいたします」
「伝えたあとは、どうなりますか」
「先方がどうなさるかは、主家へも下りてまいりません」
馬が土を掻いた。掻いたところから、湿った土が出た。
「主家では、断らなかったんですね」
「お断りのできるお相手でございましたら、主家が先にお断りしております」
村長が戸に手をかけた。あけも閉めもしないでいる。
言い方は、道の日数を言うのと変わらない。持ってきた言葉ではない。聞いたから、そのぶんだけ出てきた。
主家は、この村の領主だ。その家が断らずにいる相手が、上にいる。いま増えたのは、それだけだ。
「もう一つ、訊かせてください」
「はい」
「前に枠で行った子に、会いたいと言ってきた者はいましたか」
「おりません。お訊ねのほうは、前の子たちにもございました。会いたいという申し入れは、つむぎさんが初めてでございます」
「四人とも、無かったんですか」
「四人とも、ございません。枠で参りました子の控えが、主家にございます。読んでまいりました」
この人は、読めるものを読んで、言えるものを持ってくる。
四人のうち二人までは、名と年を聞かれて、それで終わっている。終わっていないのは、うちだけだ。
条件を三つ取ったときは、目の前に相手がいた。何を欲しがっているかが分かって、どこまでなら呑めるかも、顔を見ていれば見当がついた。取れたのは、そのぶんだ。
今度も、相手はいる。名もある。名は主家まで来て、そこから先へ出てこない。
会わせるとなれば、名の分からない相手の前へ、娘を一人で出す。俺は村にいる。何かあれば、紙か使いが来る。着くころには、済んでいる。
条件が付けられるなら、付けて出す。付けられないなら、出さない。
「会わせません」
「承りました」
「日を置いても、同じです」
ローレンツは手綱を柱から外した。輪が二つ残って、それを腕へ掛けた。
「そのままお伝えいたします」
鞍へ上がると、袖の先を一度だけ引いた。蹄の音は、坂を下りきったところで、聞こえなくなった。
条件は、相手と結ぶものだ。結ぶ相手が出てこないなら、足すところが無い。この人に足しても、届く先はこの人までになる。
目の前にいる相手なら、断ったあとの顔が見える。顔が見えれば、次に何が来るかの見当はつく。持って帰るのは、俺の言った言葉だ。紙にしていない。
断りが向こうへ着いたかどうかは、先方が何か言わないかぎり、俺のところへは来ない。着かないまま日が経つのと、着いて黙っているのとは、同じ形に見える。
村長は、戸をあけて出てきた。柱のところの土を、靴の先で二度押した。
「北のはずれの台は、去年より高いのか」
「肘に合わせて足しました」
「なら、こぼれんな」
村長は家へ入った。戸は、開けたときより強く閉まった。
坂を上がりきるころには、足もとが見えなくなった。踏んだところは、朝までこの形で残る。
鶏は、坂を下りるまえに入れてある。
戸を引くと、湯の音がしていた。台の前に文乃がいる。手前に鉢が二つ出ていて、蓋はどちらも取ってある。
台の上の鉢は、冬に入って数が減った。夏のあいだは、置くところが足りないと言っていた。
「使いの人が来た。返事は持って帰った」
「……なんて」
「会わせないと言った」
炭が、行のなかばで止まった。止まったまま、行の頭のほうへ戻った。
「……相手は」
「向こうも言わない。主家は知っている。名を出さないのは、先方がそう言っているからだ」
「……知っていて」
「知っていて、出さない」
湯が鳴りはじめた。鍋のほうへは行かずにいる。
炭の先が、指のあいだで一度まわった。まわして、また同じ持ち方に戻った。
「断ったら終わりになるのか、と聞いた。伝えるとだけ言われた」
「……伝えて、それで」
「伝えたあとのことは、あの人のところへも来ない」
紙の端に置いた指は、そのままだ。
「あの人が、一つ言った。断れる相手なら、主家が先に断っている、と」
「……主家が」
「そういうことになる」
文乃の口が動いて、声にならなかった。手が束のほうへ行って、途中で戻った。
「つむぎには」
「……言うの」
「言えば、あの子はそれを持ったまま、向こうにいることになる」
「……持たせないほうが」
「あの子は、行くかどうかを自分で言った。今度のは、こっちで決めた」
「……あとから言っても、間に合う?」
「間に合う。人は季節の節目に来る。それまでに、日はある」
蓋を戻す音が、二つした。
こっちで決めたものを、あの子は知らないままでいる。知らないままでいるあいだは、こっちが持っている。
「書きそこないの裏を、一枚くれ」
束の下から出てきた。字のあるほうを下にして、こっちへ向けて置かれた。
紙を一枚もらって、俺は台のはしへ寄った。はじめの行に、こっちは変わりがないと書いた。次の行で、炭が止まった。
炭を置いた。指の腹が黒くなっている。
外へ出ると、足の下で土が鳴った。風は無い。
軒の下の板には、布がかけてある。布のはしは、下のほうだけ硬い。夜のうちに湿ったぶんが、そのまま凍った。
布をあげて、板を少し起こした。
書きかけの紙を、板の下へ置いた。




