六つ目の字がよめた日に、わたしは廊下でおしえた
耳のさきをつまむと、つままれているのが分からない。指のほうだけ、あるのが分かる。
布から出た。靴に足を入れると、朝いちばんの中は、わたしの形をしていない。歩いていくうちに、だんだん自分の形になる。
ミナは先に起きていて、板を膝の高さで持っていた。
「つむぎ、耳」
「みみ?」
「赤いよ。どっちも。うちでは、赤いうちはいいって言うの。白くなったら、こすらないで、手でふさぐの。こすると、あとで痛くなるんだって」
「しろくなると、どうなるの」
「いちど、指のさきが色を無くしたみたいになったの。あれは、こすっちゃだめなの。分かった?」
耳に手をあてた。手のほうが冷たい。
「つめたい手をあてても、いいの」
「よくないよ。あたたかいほうであっためるの。つめたいのをあてても、ふさげてないの。ふさぐのは、外にあたらないようにするためだから」
手のひらは、耳にあてたままにした。しばらくして、どっちが冷たいのか分からなくなった。
ミナは、先に戸をあけた。
朝のぶんは、下でもらう。今日は、もらってから食べるまでのあいだに、指が動くようになった。はじめのころは、食べおわるまでかかっていた。
ミナは、食べるあいだに紙のことを言っていた。もらう日は、まだ先らしい。
歩くと、指のさきからあたたかくなる。わたしの耳は、いちばんあとだ。
字と数のへやでは、ミナのほうが戸に近い。紙は、机のまん中に一枚ずつ来る。
板は膝の上でうら返す。線から上は、もうせまい。炭は、はじめに持ってきたときの半分より短い。
ハンネスが、前の板に今日のぶんを書いた。炭のあとが、書きおわりのところで太くなっている。
はしから読んでいった。五つ目までは、口が先に動いた。六つ目は、目より口があとになった。
上が二本に分かれている形だ。きのうまでは、ここで目がすべった。きょうは、口のなかで、はじめから終わりまで通った。
「よめた」
ミナが、炭を置いた。
「出たでしょ。上が分かれてるのは、これで一つ目なの。あと二つあるの。一つは下が丸くて、もう一つは下がまっすぐなの。いっしょに出すと、まちがえるんだって。だから、間をあけて出すの」
「あとの二つは、いつ出るの」
「知らない。でも、間はあけるって言ってたよ。だから、すぐじゃないの」
「ミナは、いくつまでよめるの」
「かぞえてないよ。読めないのが出てきたら、その日のうちに訊くの。訊いたら、書いて覚えるの。書かないと、つぎの日にはもう分からなくなってるから。だから、わたしのは覚えた順に入ってるの。分かった?」
板のほうを見た。わたしのは、そうなっていない。
「つむぎの炭、そんなに短いの?」
「みじかい」
「短いのはね、ひもを巻くといいの。巻くと、指が黒くならないの。うちでは、書けなくなるまで巻いて使うの。捨てるのは、指でつまめなくなってからなの。まだ、そこまでじゃないよ」
「なにを巻くの」
「ひもでも、切れたのでもいいの。わたしはね、上着のはしがほつれたのを取っておいたの。切れたのが出たら、すぐしまうの。あとで要るから。ね?」
「もってるんだ」
六つ目を板へ書いた。うしろへ足すのではなくて、上に棒のある形の下へ入れた。いままでのならびとは、ちがう。
書けるのは、線のすぐ上までになった。どこを消すかは、まだ考えていない。
ハンネスは、机のあいだを一度だけ通った。それから板の前に戻って、書いたぶんを消しはじめた。通って戻るまでが、きのうとおなじだけだった。
消される前に、わたしはもう一度読んだ。読めるのが、一つ増えた。
紙を出して、へやを出た。下の広いところは、朝より人がすくない。戸のあいているへやから、声がしていた。ひとりが言って、切れて、また別のがはじまる。
あの声は、終わるまでが長い。わたしのは、四つで終わる。長いのが、いくつも続いた。声は、へやの中で切れる。廊下まで来るのは、はじめのぶんだけだ。
壁の紙のまえは、まだ空いていなかった。通ると、ひとりが紙からこっちへ目を移した。となりの子も移した。それから、二人とも紙へ戻した。
まえに通ったときは、だれも移さなかった。紙は、来たころからそこにある。下のはしが、壁からすこしめくれている。
足のうらは、まん中を歩くより、はしのほうが冷たい。奥へ行くほど、そうなる。途中から、人の声も聞こえなくなる。
器は、床のまるいあとの、きのうとはちがう一つに置いてあった。もとの一つは、石がすこしへこんでいる。
ゾフィー先生は、わたしが座るまで待っていた。
「はじめてください」
息を大きくして、言った。
「アド・ウェニ。アクア・エス。ウルナ・ディミ。ブレウィ」
手を出した。
水の音は、はじめだけした。すぐに聞こえなくなって、内がわの濡れたところだけが上がる。上がるのは、指の一本ぶんまでだ。そこから先へは行かない。
手は上げたままだ。やむのは、いつも水が先だ。
「はい。どれも、長さがそろっています。数を重ねてください」
二度目を言った。三度目も、四度目も言った。ゾフィー先生の靴は、はじめに見たところにある。どの回も、上がるのは指の一本ぶんだ。はじめの回とおしまいの回で、ちがいがない。
器のふちに、内がわだけ線が出てきた。前の回でとまったところが、乾かずに残っている。線は、下から一つずつ増えていく。線のあいだは、どれもおなじだけあいている。せまくもならないし、広くもならない。
言っているうちに、自分の声が、外から聞こえるみたいになる。耳の中で高かったのは、はじめのほうだけだ。水のことは、はじめの日から一度も言われていない。言われるのは、いつも口のことだ。
口のなかが乾いた。乾いてからも、まだ半分より下だった。外の廊下で、戸の閉まる音が二度した。二度目は、遠かった。
「きょうも、ふちまでやるの」
「はい。ふちの下までです」
また言った。声は出ているのに、わたしの口のなかは、動きが小さくなっていく。
「アド・ウェニ。アクア・エス。ウルナ・ディミ。ブレウィ」
ふちの下まで来たのは、それからしばらくしてだった。はじめに座ってからのぶんは、わたしは数えていない。
器のふちのすぐ下に、線がもう一本ついた。上のほうは、まだ乾いている。
「はい。今日は、この回で終わります」
ゾフィー先生は、床のまるいあとを見た。それから、器を持ち上げた。中が鳴った。
まえは、鳴らなかった。
「あしたは、はじめから続けます」
立って、戸のところで足ぶみをした。足のうらが、それでやっと自分のになった。
廊下は、来たときより人がいた。上のほうへ上がる子と、下へ下りる子が、はしですれちがう。
「ねえ」
うしろから声がした。奥のへやのほうではなくて、廊下の先からだ。
知らない子だった。わたしより背が高い。上着のそでを、両方ともまくっている。字と数のへやでは、見たことがない。朝のところでも、見ていない。
「止まってから言うっていうの、どれくらい止まるの」
その子は、はじめのところを言わなかった。肩のことも、背中のことも訊かなかった。だれかが、そこまでは言ったらしい。
声を出すまえに、手のひらが上着をつかんだ。つかんで、すぐはなした。
「いち、って言うくらい」
「みじかいね」
「みじかいよ。長く止めると、こんどはさきが足りなくなるの。止めてるあいだも、へってるから」
その子は、うなずかなかった。かわりに、口をあけたり閉じたりした。
それから、言った。あける、止まる、出す。三つが、一つずつ離れていた。
声は、はじめから細かった。しまいのところで、かすれた。その子は、しまいまで行くと、肩を上げて息をした。上げてから、自分で下ろした。
「止めるのが長い」
「どれくらい」
わたしが息をつめてみせた。つめて、すぐ出した。その子は、それを見ていた。
「これくらい」
「みじかい」
「みじかいほうがいい。でも、無くすとだめなの。無いのと、みじかいのは、ちがうよ」
その子の口があいた。こんどは、うしろがかすれなかった。そのつぎは、こっちを見ないで言った。見ないでも、切れなかった。
「できた」
「うん」
「ありがとう」
まくった袖は、まくったままだった。その子は、そのまま下へ下りていった。廊下は、また人が通るだけになった。
おしえてから、自分の手を見た。




